一話
『お土産? そうね~お菓子を買ってきてちょうだい』
勉強の休憩も兼ねて一人リビングで夕食を食べていたとき、隣のお母さんの部屋から話し声が聞こえた。今家には私とお母さんの二人しかいない。おそらく電話をしているのだろう。相手はきっとお兄ちゃんだ。
『千春? 今いるわよ。ちょっと待ってて』
私の名前が聞こえたと思ったら、お母さんがこっちに来て私に受話器を渡した。
「なに?」
「お兄ちゃんがお土産になにが欲しいかって」
「私別にいらないんだけど」
「そういったことはお兄ちゃんに直接いいなさい」
そう言って、お母さんは自分の部屋に戻っていった。私は手渡された受話器の保留を解除した。受話器からは聞き慣れたお兄ちゃんの声が聞こえた。
『もしもし、千春か?』
『そうだけど……』
『明日にはそっちに帰るんだけどさ、土産でなんか欲しいものあるか?』
『別に買わなくてもいいから。ていうか私土産いらないし』
『なんだよ、やけに機嫌悪いな』
『あのさ、私受験生なんだからこんなことでいちいち電話してこないでよ。忙しいんだからさ』
受験まで残り二ヶ月を切り、毎日勉強に明け暮れていた私。人の気も知らないで友人達と旅行に行っている兄が私には腹立たしく、勉強などで溜まったストレスをぶつけてしまった。
『せっかく合格祈願のお守りでも買ってやろうと思ってたのに……』
受話器越しに聞こえるお兄ちゃんの声がほんの少し硬くなる。
その言葉にまた私はイライラしてしまい、ついに気持ちが爆発してしまった。
『いらないって言ってるでしょ! 同じ事を何度も言わせないでよ。お土産、お土産って……。お兄ちゃんなんか帰ってきても私の勉強の邪魔になるだけだから、もう帰ってこないで!』
受話器の電源ボタンを押して通話を切る。怒りが収まらない。二階の自分の部屋に戻り、ベッドに倒れこむ。自分の中にあるドロドロとした暗い感情を持て余す。もう勉強をする気にもならない。眠気に誘われるまま意識を預けた。
聞き慣れた携帯電話のアラームが鳴り、目が覚めた。時刻は午前七時。今日は夕方まで図書館で勉強する予定だ。教科書やテキストをカバンにつめて家を出た。
図書館は私と同じように受験生がたくさん利用していた。既に席はほとんど埋まっている。僅かに空いている席に座り勉強を始めた。
昼までは苦手科目の数学を重点的に復習する。
一通り進めたところで昼食を買いに近くのコンビニに行くことにした。
昼食を買い、コンビニを出ると遠くで救急車のサイレンが鳴るのが聞こえた。
コンビニから戻り、昼食を取る。買ってきたサンドイッチやおにぎりはあまりおいしくなかった。
昼食を食べ終わり、勉強を再開しようとしたとき、携帯電話から電話の着信音が流れた。
しまった! 電源を切るのを忘れてた。
勉強に集中していた周りの人たちの冷ややかな視線が突き刺さる。私は着信相手が誰かも確かめずに急いで電源を切った。
夕方になり図書館の閉館時間が近づいたため、私は荷物を持って図書館を後にした。
図書館を出てしばらくしたとき、私は昼に着信があったのを思い出した。電話をしてきたのは多分お母さんだろう。内容はきっと夕食を家で食べるのかどうかとかに違いない。
一応確認のために携帯電話の電源をいれる。ディスプレイに不在着信のマークが映し出される。相手を確かめると、予想通りお母さんからだった。
全部予想通り。そう思った私だったけどそこであることに気がついた。
あれ……? 着信履歴が全部お母さんで埋まってる。
最初の連絡の履歴がなくなるほどの着信がそこには映し出されていた。
何か、あったのかな?
私はリダイヤルをした。二、三回のコールの後にようやく電話が繋がる。
『もしもし? お母さん?』
話しかけるが返事がない。しばらく返事を待っているとお母さんのすすり泣く声が聞こえた。
――何かあった。私はすぐに理解した。大抵のことでは動じないお母さんが泣くほどの事態。よほど大きな何かがあったのだろう。
『お母さん、大丈夫? どうしたの』
『ちはる……あのね……お兄ちゃんが、佳祐が……死んじゃった……』
……えっ?
今お母さんはなんて言った?
『家に……帰ってくる途中で……事故にあって……病院に運ばれて……私が着いた時はまだ意識があったのよ……返事をしてくれたのよ』
お母さんが何か言っているが、頭に入ってこない。
死んだ? お兄ちゃんが?
嘘だ。だって昨日の夜には私と電話して、喧嘩して……。それで……それで!!
『お兄ちゃんなんか帰ってきても私の勉強の邪魔になるだけだから、もう帰ってこないで!』
私があんなこと言ったから?
どうしよう? 帰ってきたら謝ろうと思ってたのに……。心配してくれてありがとうって、言おうって……。
涙がジワリと瞳に滲みだす。それが溢れるのに一秒もかからなかった。
「う、うわああぁぁぁ」
人目もはばからず大声をあげて泣いた。周りの人が自分をどう思うかなんて気にもならなかった。
お兄ちゃんが死んだ。もう話せない、謝れない。あの温かい手で私の頭を撫でながら「よくやったな」ってほめてくれることもない。
後悔しても、もう遅い。お兄ちゃんはもう……いないんだ。
罪悪感と後悔に襲われながら私は涙を流し続けた。
「それじゃあ、千春。お母さん行ってくるから」
「うん。気をつけて」
大きく膨れ上がったボストンバックを持ったお母さんを玄関で見送る。
今日からお母さんは単身赴任をしているお父さんのところに数日泊まる。そのため、私は今日から数日の間、一人で留守番をすることになった。
玄関の鍵を閉めて私はリビングに向かった。カーテンを開けると朝日が部屋を明るく照らす。
「おはよう、お兄ちゃん」
部屋の隅にある仏壇に挨拶をする。仏壇にはお兄ちゃんの写真が飾られている。
あの日、お兄ちゃんが死んでから三年が経った。あの後、私は罪悪感や後悔からノイローゼになってしまい受験に失敗した。第一、第二志望校は両方とも落ちて、滑り止めの高校になんとか入れた。
高校に入学した後も、しばらくの間はふさぎ込んでいたけど、時間が経つに連れて少しずつ以前のように戻れた。
元に戻れたのは友達や家族の助けがあったのもあるけれど、一番の理由はいつまでもふさぎ込んでたらお兄ちゃんに怒られそうな気がしたからだ。
高校三年の今、本来なら皆受験に勤しみ、焦っている。だけど私は彼らの中にはいない。
先月に公務員採用試験の面接を受けてきた。結果は一次試験を合格して二次試験の候補に入った。後は次の試験まで待つだけだ。
「お兄ちゃん。私もう十八歳だよ。来年にはお兄ちゃんと同い年だよ。四つも離れてたのにね?」
仏壇に置かれてるお兄ちゃんの写真に話しかける。こうやって毎日写真に話しかけるのがお兄ちゃんが死んでからの日課になった。
「そういえばお父さんってばまた別の場所に単身赴任するんだって。今度は飛行機使わないと行けないところみたい。お母さんは毎日浮気してないかって心配してるし……。まあ、だから今日からお父さんのところに泊まりに行ったんだけどね」
当たり前だが返事はない。
最初の頃はこうやって話しかけるだけで涙が流れたが、今では普通に話せる。教会で懺悔をするのと似たような感じだ。
一通りの報告を済ませた私はリビングに置いてあるこたつの中に入った。お母さんを見送るために早く起きたため、まだ眠い。幸いすぐに眠気が来て私は眠りについた。
「……ぃ。……きろ。」
耳元でなにやら声がする。意識がはっきりしてないため、何を言ってるか聞き取れない。
「……お~い。起きろ~」
そういえばこの声は誰の声だろう? お母さんはもう出たし、私の他には誰もいないはず。そう自覚すると意識が徐々に鮮明になっていく。それにしてもこの声……。
目を開けた私は凍りついた。目の前の光景を理解できない。だって、こんなのあり得ない。
「おい、なんだよ。まだ怒ってるのか? 髪なんか染めて、お前学校どうするんだよ。俺が悪かったって。だから返事してくれよ、千春」
三年前と変わらない姿のお兄ちゃんが目の前にいた。
これは夢だ。現実じゃない。だから、泣いたって問題ない。
「おにい、おにいちゃ……おにいちゃ~ん」
ポロポロと涙がこぼれる。私が急に泣きだしたためお兄ちゃんは慌てだした。
「え、えっ? なに? どうした、千春。なんかあったのか?」
お兄ちゃんはしばらく私が泣くのを見ていたが、やがて私の頭に手を乗せて撫で、慰め始めてくれた。
あぁ、温かい。この感じはお兄ちゃんだ。本物だ……。
頭に触れる手の平の温かさを感じながら、私はお兄ちゃんを抱きしめた。もう二度と目の前から消えないように。
おかえりなさい、お兄ちゃん。
ブログで連載している小説のひとつで、一章の一話目になります。
この話は、元々連載用に書くものではなかったのですが、書いていて楽しくなり、アイデアもたくさん浮かんでいたので連載することになった作品です。