第1話
ワンルームの廊下。
引き攣った悲鳴と共に、バタバタという忙しない足音が響く。
「ひ、ひぃ……ッ」
男は下着姿のまま、裸足で玄関へ飛び込む。
しかしそこには防犯用のチェーンが掛けられており、男が押し開けた扉はすぐに突っかかってしまう。
「ッ、くそ、クソクソクソクソ……ッ」
震える手でチェーンを外そうとするが、焦れば焦る程上手くはいかない。
男の背後からは床が軋む音と、何者かが近づく気配があった。
痺れを切らした男は僅かに開いた扉から助けを求めようと口を開く。
「っ誰か――」
だがそれはすぐさま途切れた。
男の首にタオルがまき付けられたのだ。
気道を塞がれ喘ぐ男の重心が後方へと傾き、倒れ込む。
「だーめぢゃん、ゆっぴぃ。まだなーんも始まってないのにぃ」
仰向けに倒れ込んだ男の上に下着姿の女が跨る。
長い睫毛に顔のパーツを強調するような化粧。
リップで艶感を増した唇が妖艶に弧を描いた。
彼女が両手に握るのは、男の首に巻き付けられたタオルだ。
男はタオルを何とか解こうと首をひっかき、じたばたと足をばたつかせる。
苦悶の表情を浮かべる男の顔が真っ赤に染まり、恐怖からか苦痛からか涙が目尻に浮かんでいる。
女性はそれをうっとりとして眺めていた。
「キャハッ」
その場の殺伐とした空気に似合わない、無邪気な笑い声が響く。
「め、っちゃいー……その顔」
女はまるで恋に落ちている乙女のように顔を紅潮させ、瞳を潤ませ、男を見下ろす。
「だってだって、そんな顔、他の人は見たコトないっしょ? ゆっぴぃって強がりで見栄っ張りぢゃん? てコトはさ、ウチだけが今のゆっぴぃを独り占めしてるてコトで――それってもう、ウチがトクベツってことぢゃん? ヤッバァ、まぢでコーフンすんだけど」
無邪気な声で捲し立てながら他人の首を絞める女。
その異常な様子に恐怖した男は、力の限りに手足を振り回した。
「キャアッ」
純粋な力では女は敵わない。女は思わず体勢を崩した。
しかし男も男で、突如解放された気道に空気が流れ込み、思わず咽てしまう。
咄嗟に反撃することが出来なかった男が何とか上半身を起こそうとしたその時だった。
男の視界の端に銀色の光が走る。
「ちょっとぉ、ヒドくない?」
男の左頬に赤い線が刻まれ、その軌道上にあった耳が真っ二つに割れる。
男の顔の脇では、包丁が血を滴らせていた。
体勢を崩した際に、女は先の流しに置かれていた包丁を持ったらしい。
「おっとっと、シー、だよ。ゆっぴぃ」
恐怖と痛みから男が悲鳴を絞り出すその瞬間。
女は躊躇なくタオルを男の口へと押し込んだ。
くぐもった、頼りない悲鳴がタオルの隙間から漏れる。
更に女は、笑みを歪な形に歪めながら、持っていたナイフを振り上げ――今度は太腿に突き立てた。
「これでウチのコト捨てれなくなったね」
闇雲にのたうち回る事しか出来ない男の口を塞ぐ女は、返り血を浴びながらそれをうっとりと眺めていた女性はふと、視界の端に映る玄関扉の存在に気付く。
「あ、やばいやばい。忘れてたぁ。マンションだからさぁ、ちょっと静かにしてくれる?」
最早満身創痍の中、逃げる意志よりも恐怖や痛みに支配されているであろう男へ向かって女は「待ってて」と告げ、さっさと玄関扉へ向かう。
チェーンに引っ掛かったまま僅かに開いていた扉を後ろ手に閉めながら、彼女は正面で倒れ込んだまま泣きじゃくる男を真っ直ぐ観察する。
「さ、続き、シよっか」
バタン。
重い扉は音を立てて閉められた。
***
地元の平均偏差値を幾分か下回った学校、旭山高等学校。
二年B組の教室で岡崎萌は机に突っ伏していた。
「アイカ~」
「な~んだなんだ、今度は」
ピンクベージュの巻き髪を振り乱す萌を見て、友人愛華は苦く笑う。
金髪に、両耳で八個のピアスをつけた彼女は、元の顔立ちが幼い萌よりも凛々しく大人びた顔立ちをしており、外見だけならば少々近づきがたい印象を抱かれやすい。
しかしその実、仲の良い友人とは気さくに話し、萌のグループの中でも最も面倒見が良い人物だった。
「どーせ男っしょ。このダメ男ホイホイ」
黒髪ショートで長身の女子生徒由実が傍の机に腰かけたまま興味なさげにネイルを塗っている。
「よっしーを悪くゆーのやめて、ユミ」
「ほぉら、それ、今付き合ってるってゆー十歳年上の彼氏じゃん」
「十はヤバ過ぎで笑うわ。で、よっしーがどしたん」
「日曜に女と手つないでるの見た」
「終わりじゃん。浮気はクソ。はい解散」
「いやだぁ! せめて話くらい聞いてぇ!」
「あ、バカバカ、ネイルずれた!」
萌が由実の両肩を大きく揺さぶって叫ぶ。
それを煩わしそうに振り払った由実はげんなりとした顔で、涙目の萌を見る。
「そもそもモエって、オチやすいんだよ。だから舐められるし、クズばっかに拾われるの」
「それは同意~。恋愛脳? 惚れっぽいってか、チョロいってか」
「アイカまでぇ……。今回は絶対いい人だと思ったんだってば!」
そう言って、彼女は聞かれてもない弁明を始めるのだった。




