表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/35

エピローグ② ――真相――

 時雨はワゴン車で待っていた。やがて恰幅のよい女性が歩いてくるのを見て、車を降りる。奥背山では人とすれ違うこと自体が珍しく、相手もすぐ時雨に気づいた。

「こんにちは、横井幸子さん」

 時雨が声をかけると、横井は驚いた顔をした。

「こんにちは。あの、どちらの……?」

「奥背山の者ではないんです。守屋卯月ちゃんの仕事の関係者でして」

 横井は、ああと納得したように頷く。

「聞きましたよ。奥背山の歴史を調査なさってるとか。暑いなか大変ねぇ。私もお役にたてればいいんだけど、外部の人間なのよ。通いでヘルパーの仕事をしていてね」

「芦山さんの件は軽率でしたね」

「なんのこと?」

「横井幸子さん。きみは、医療少年院に入る前はミヨと呼ばれていたね」

 時雨は微笑を消して、目を瞬く横井に一歩近づく。距離はほんの五メートルほど。

 横井幸子がミヨだと気づいたのは、芦山トヨの話を聞いたときだ。最初は芦山が認知症を発症しているのか、あるいは近隣住民から怒りを買った末のトラブルだろうと考えた。だが実際は、住民が芦山家を訪ねただけだった。

「芦山さん、こう言ったそうだね。シチューを食べたら、舌がピリピリしたと。その表現が誇張であっても、傷んでいれば『腐った臭い』『まずい』といった表現になるはずだ。ピリピリというのは、明らかに刺激物に対する表現だ。ミヨさん、きみは――」

「ミヨなんて呼ばないで」

 時雨はゾッと薄ら寒いものを感じて、静かに体を強ばらせる。

 ミヨの仄暗い瞳が瞬きすらなく時雨を見つめた。微かに肩を落とした姿勢は獰猛な肉食獣のようでまったく隙が無い。油断したが最後、噛み殺されてしまうのではないか。

 知らずに呼吸が浅くなる。落ち着け、話をするだけだ。

 ミヨは古坂部悠二の助手だった。彼女の役目は、攫ってきた人間の世話だけではない。調理や狩りも担っていたと、ミヨ本人が証言している。

 人体の解体に長けたスペシャリスト。殺人鬼に育てられた殺人鬼。

「あなた警察でしょう。私を捕まえにきたの?」

「違う。古坂部事件について聞きたいんだ」

「そんなことのために卯月に近づいたの。あの記者みたいに」

「一緒にしないでほしい。私はここで聞いたことを世間に漏らすことはしない」

 田代さえ卯月に近づかなければ、彼女は自責の念に駆られて贖罪の道を選ぶこともなかっただろう。ミヨにしてみれば、平穏無事に暮らしてほしい我が子を戦火へ放り込まれたも同然だ。田代を恨む気持ちは察することができる。

「言っておくけど、芦山トヨに関しては本当に何もしていないわ。間違えてちょっと珍しい香辛料を入れたかもしれないけど、それだけ」

「その件について問い詰めたいわけじゃない。娘を罵倒されて腹が立ち、少しばかり痛い目に合わせてやろう程度のことだったんだろうから」

 ミヨはじっと時雨を観察している。

「……何について聞きたいの」

「生島咲良という少女について」

 卯月は夢のなかで被害者の過去を追体験するという。だが所詮は夢だ。咲良は今も尚どこかで生きているという希望を、捨てたくない。

 仄暗いばかりだったミヨの目に光が射す。時雨は咄嗟に口を開いた。

「知らないならそれで――」

「古坂部悠二が攫ってきた娘。彼女はとっくに死んでいる。期待するだけ無駄よ」

 見透かすように紡がれた言葉に、時雨は全身を震わせた。

「……嘘だ」

「本当。ただ、彼女が殺される現場に私は居合わせていない。悠二さんに別室に閉じ込められていたから」

 僅かな希望に顔を上げる。しかしミヨの無表情から、その希望も無駄なのだと察した。

「彼女の残骸を見たの。絶望的だったわ」

「だったらどうして、被害者の名前に咲良をあげなかったんだ!」

 強い口調で叫んだ。

 ミヨは事件発覚後、何度も取り調べを受けている。そのなかで被害者の名前を覚えている限り列挙した。そこに咲良の名前がなかった。だからこそ、時雨は一縷の望みを捨てきれなかったのだ。

「信じたくなかったから」

 ぽつりと呟くようにミヨが言う。

 彼女は初めて時雨から視線を外し、地面を見つめた。

「咲良ちゃんは私に言ったのよ。忘れないでって。……彼女がいたから、私は異常な生活をしていることに気づけた。彼女と出会ったから、生島誠人さん――刑事さんの言葉を信じて、自由になろうと思った」

 生島誠人。貴一と咲良の叔父で、刑事だった男だ。

 当時ミヨは、古坂部に囚われている現状から脱出しようと足掻いたのだ。咲良と出会って、時雨が変われたように。

「あなた、宵ちゃん?」

 俯きつつあった顔を上げる。ミヨが微笑んだ。

「やっぱり。咲良ちゃんから聞いてたから」

 彼女は首の後ろに手を回し、指に紐をひっかけてネックレスのようなものを服の下から引っ張り出した。紐の先には巾着が縫い付けてあり、ミヨはそのなかから、茶色い煎餅のようなものを取り出した。それを手のひらに載せ、眉をひそめる時雨へ突き出す。

 目を凝らして、ハッとした。

 すっかり劣化しているが、うっすらと『御守り』という字の刺繍が見える。

「これ、公園に隠しておいたの。自由になって真っ先に掘り返しに行ったんだけど」

 こんなふうに劣化してしまった、とミヨが呟く。

 その御守りは、時雨が咲良にあげたものだ。彼女に自分が作ったものを持っていてほしくて、御守りなら肌身離さず持っていてくれるんじゃないかと考えて作ったのだ。

 ご利益などない、時雨の欲望だけが詰まった産物である。

「私の宝物なの。咲良がくれたたった一つの物だから。でも、あなたに返すわ。あなたが持つほうが相応しいと思うから」

 ミヨがゆっくりと近づいてくる。時雨はほとんど無意識に両手を差し出した。

 ぽとり、と手のひらへ御守りが落とされて、その確かな重みと質感に息を詰める。

 ――そのときだった。

 甲高い悲鳴が聞こえた。

 ミヨがほとんど反射的に走り出す。

 受け取った御守りをポケットに押し込むと、時雨もミヨを追いかけた。


 ◆


「まぁ卯月ちゃんだったの、勝手口からきてくれてよかったのに」

 宝田邸へやってきた卯月を出迎えたのは、杏花の母である宝田千紘だった。先月から少しずつ動けるようになってきたという。それでもまだ食事は喉を通らないのか、頬がこけたままだ。

 卯月は来訪の挨拶をして、驚かせた旨を詫びた。

 これまでは宝田家の人々と面識があることもあって、この辺りの常識に従って勝手口から声をかけてきた。しかし今日は、正面玄関の呼び鈴を鳴らして訪ねた。

「そちらが、例のイケメンの上司ね。あの人に聞いていた通りだわ。もしかしてお客さんも一緒で遠慮したの?」

 千紘が貴一を見たあと、我に返ったように奥を示した。

「どうぞあがって」

「いえ、ここで結構です」

 答えたのは貴一だ。千紘はぽかんと貴一と卯月を見比べて、不安そうな顔をした。

「わかったわ。急ぎの用なのね。どうぞ、座って」

 卯月たちは上がり框に腰を下ろす。水縁の家でもこうして玄関先に座って話をしたことを思い出した。

「主人は今、仕事の電話をしているの。終わったらくると思うけど」

 貴一が自己紹介をし、口を開く。

「商売が繁盛しているようですね」

 千紘が苦笑した。

「あの人は、真面目一徹でしてね。祖父の代で始めた会社を自分が潰すわけにはいかないって、頑張ってるんですよ。他に兄弟がいないので、親からの期待もすごくてね。でも、決して繁盛しているわけではないんです」

「立派な屋敷にお住まいのようですが」

「宝田家は、式役檀家として名のある家柄なんです。それなりに財産もあって、それを食い潰して生活している状況です。ですがそれも……あら、こんな話をごめんなさい」

 口を押さえる千紘に、貴一は「とんでもない」と落ち着き払って微笑んだ。

「では工場の経営もさぞ大変でしょうね」

 千紘が口ごもる。そこへグレーの作業着を纏った公造がやってきた。

「ちょっと工場のほうへ顔を出して……ああ、卯月ちゃんやったんか」

「ご無沙汰してます、おじさん」

「卯月ちゃん、大丈夫か? 水縁さんのこと大変やったな。どうしても仕事で行けへんかったんや、ごめんなぁ」

 公造の気遣いに満ちた様子に、卯月は唇を噛む。あえて返事はしなかった。

「おじさん、少し話を聞いてほしいんです。すぐに終わりますから」

「真剣な顔でどないしたんや」

 公造は腰を下ろし、白髪交じりの頭を軽く掻く。

「おじさん、私気づいたんです」

「何や」

「杏花ちゃんが死んだのは、おじさんのせいだってことに」

 公造の笑顔が強ばった。千紘が目を瞬いて公造を振り向く。

「何を言い出すんや」

 次の瞬間には、公造は笑顔に戻っていた。しかし彼の目は警戒心が剥き出しになっている。

「梅原が杏花ちゃんを殺害した理由は『マザコン』と罵倒されたからだそうです。杏花ちゃんに、梅原がマザコンだと教えたのはおじさんですね」

「さぁ、どうやったか。仮にそうでも、俺のせいっていうんはおかしいんちゃうか」

「おじさんは梅原にも、杏花ちゃんのことを話しましたね。娘の帰宅が遅くて心配だと」

「そりゃそうや。俺は陣くんの面倒もようみとったから、うちの娘の話もしたことある」

 卯月が頷いた。公造は息を吐く。

「あんまりやわ。杏花を亡くしてどれだけ俺らが悲しんだか、よう知ってるやろ」

「杏花ちゃんは友達に、進路について悩んでると話していました。家に帰りたくなくて、あえて帰宅を遅らせていたんです」

 進路、と呟いたのは千紘だ。

「でも、別におかしなことではないでしょう?」

 千紘はおずおずと続けたが、卯月の視線を受けると口を噤んだ。

「杏花ちゃんは、専門学校へ行きたがってた。でも、おじさんが突然、大学に行くよう強く進めた。それが原因での衝突だったそうですね」

 卯月は公造を見据える。彼の目は充血し、笑顔のまま唇を噛みしめている。

「おじさんが、杏花ちゃんが殺されるように仕向けたんです」

 杏花を家に居づらくなるように仕向け、帰宅を遅らせる。そこに梅原が居合わせれば、公造を慕っている梅原は必ず動く。同様に杏花へも『梅原はマザコンで危険な男』とでも聞かせていたのだろう。

 公造は、『マザコン』という言葉が梅原にとってどういう意味を持つのか、知っていたのだ。

「いい加減にしてや。なんで俺がそんなんせなあかんねん」

 公造はついに笑みを消し、高圧的な態度に打って出た。予期していたことなので、卯月が怯えることはない。むしろ公造が怒る分だけ冷静になれるような気すらする。

「杏花ちゃんは、友人らに『全部事故のせい』だと話していたそうです。杏花ちゃんが子どもを庇って大怪我を負った事故。あのとき杏花ちゃんは、自分が父親と血が繋がっていないことを知ってしまった。それは、おじさんも同じだったんじゃないでしょうか」

 病院に搬送された杏花は、輸血が必要なほど重症だった。血液型は調べただろうし、両親にも詳しい説明がされているはずだ。

「杏花ちゃんの血液型はA型です。おじさんたちの血液型を教えて頂いてもいいですか」

 千紘が顔を真っ青にして、何かを言いかけた。

 だがそれより早く、公造がため息交じりに答える。

「俺と家内はO型や。……確かにあの事故がきっかけで、俺は杏花が実の娘やないと知った」

 千紘がよろけて床に手をつく。

 杏花が事故に遭った際、足繁く病院に通っていたのは娘が心配だという理由の他に、血液型から父親を悟られないようにするため、医者とのやりとりを極力自分が行うつもりでいたのだろう。しかし彼女の努力虚しく、公造に知られてしまった。それこそ、杏花が殺されることになった原因だ。

「せやかて、実の娘として育ててきた子や。なんで俺が殺さなあかんねん」

「杏花ちゃんの生命保険が入ったそうですね。金額は、千五百万円」

 途端に公造の顔色が変わった。彼はほとんど反射的に腰を浮かせたが、寸でのところで思い留まったようで、拳を握りしめて卯月を睨みつけた。

「保険に入っとったんが根拠か。そんなん、別におかしないやろ」

「ええ。内山家の息子さんが保険のセールスマンをなさっているので、奥背山で懇意にされている方々は人情から加入していると聞きました」

「何か言いたいねん。卯月ちゃん、きみも悲しいのはわかる。せやけど、おじさんらを悪者にするんは間違ってる」

「もっと具体的に言いましょう。おじさんの目的は、杏花ちゃんの生命保険を使って工場の経営再建を図ることです」

 卯月が言い切った。それを聞いた公造が盛大なため息をつく。唐突に笑い出した。おかしくて堪らないというように。

「あ、あなた……?」

 千紘が戸惑って声をかけた途端に、公造が笑いを引っ込めた。

「仮にせやったとして、なんか罪になるんか」

 千紘の表情が凍る。公造は人格者の仮面を捨て、薄ら笑いを浮かべた。

「俺は、杏花に陣くんのことを話して、陣くんに杏花のことを話しただけや。進路で言い合うことかて、珍しいことやない。杏花の帰りが遅くなったんも、陣くんが通りかかったんも、俺と杏花の血が繋がってなかったんも、全部たまたまや。そんでもって、たまたま生命保険に入ってただけ。俺が、一体なんの罪に問われんねん」

「このことは、すべて正直に話します」

「警察にか? 好きにしたらええわ」

「いいえ。私が話すのは、警察ではなく奥背山の皆にです」

 公造の薄ら笑いがサッと消える。

「なんやて」

「奥背山の皆に、すべてを話します。立場や血筋を重んじるおじさんには、それが何より堪えるでしょうから。この会話も録音していますので」

 卯月は一方的に告げると、さっさと背を向けて宝田邸を出る。

 ふいに背中の向こうで悲鳴のような叫び声があがった。千紘のものだ。ぎょっとして振り向いた卯月のすぐ目の前に、鎌を持った公造が鬼の形相で迫っていた。

 振り上げられた鎌が、顔へ振り下ろされるのをじっと見つめるしかできなかった。

 ――避けられない。

 突然、公造が勢いよく横へ吹っ飛んだ。貴一が公造を蹴りつけたのだ。そのまま公造を地面に押しつけ、後ろ手にして抑え込む。

 鎌が公造の前に転がり、卯月は咄嗟にそれを遠くへ蹴った。

「殺人未遂の現行犯だぞ」

 貴一の言葉に、公造は狂ったように笑う。

 だがその笑い声も血相を変えて駆け寄ってきた妻に気づくと収まった。公造が血走った目で彼女を睨む。

「宝田家は伝統ある奥背山の式役檀家や。せやのに、お前のせいで血筋が絶える!」

 彼は妻を罵倒することに意識を取られている。そのため、千紘の悲鳴を聞きつけた住民らが、集まりだしていることに気づかない。

「なんで俺が、血の繋がらんお前らを養わなあかんねん。お前も杏花も不良債権や。せやから俺が、有効活用したってん。杏花かて、工場のために死ねて喜んどるわ。……俺は被害者や。お前に騙されてきたんやからなぁ!」

 千紘は信じられないというような顔で、公造から距離を取った。彼へ伸ばそうとした手を胸の前で握りしめる。

 その様子を眺めていた卯月は、胎の深い場所で脈打つ何かを感じた。咄嗟に手を宛がう。ドクン、と卯月の手のひらを震わせる鼓動があった。

 始祖もまた、怒っているのだ。卯月に共鳴したのか、それとも『娘を殺害した男』に対しての怒りか。

 本能が警告する。憤怒で全身の血が沸騰しそうだ。それなのに頭の奥が冷えていく。神経が研ぎ澄まされていくような高揚感を覚えた。

「ぎゃあああああっ」

 公造が絶叫した。貴一が抑え込んでいる方とは逆の腕が、可動域と異なる方向へ曲がっていた。叫び続ける公造を、貴一と千紘が困惑の目で見ている。

 まだ終わっていない。このままでは公造の身体が雑巾のように拉げてしまうだろう。

 卯月は腹に力を込め、両手で我が子のように始祖を抱きしめる。

 止めて。これは償いにはならない。公造には報いを受けさせるから。

 繰り返し念じ続けると次第に始祖の強い怒気が薄れていき、やがて消え去った。

 公造は怯えた表情で荒い呼吸をしている。

 我に返った貴一が、すぐさま遠巻きにこちらを見ている人々へ叫ぶ。

「警察を呼んでくれ。救急車も」

 そのなかの一人が戸惑いながらも動き、首から提げた携帯電話を耳に当てた。

 卯月は安堵の息をついた。

「……確かに、杏花とあなたには血のつながりがないわ」

 ふと、千紘が呟くようにいう。

 痛みに顔を歪めていた公造が、ぼうっと顔をあげた。

「あなたは、子を成せない身体だから」

 公造が、動きを止める。

「なにを、言うてんねん」

「なかなか子宝に恵まれなかったとき、私たち二人で病院に検査を受けに行ったのを覚えてる?」

「それがなんやねん。異常はなかったって、お前そう言うたやろ」

 千紘が首を横に振る。

「言えなかったの。公造さんは、誰よりも世継ぎを望んでいたから」

「そんなわけあるか……仮にせやったとしても、お前が浮気したことに変わりない。俺を裏切って、どこの誰が父親がわからん子どもを育てさせたんやろがっ」

 公造を見る千紘の目が、怯えと恐怖から同情へとかわる。彼女の公造に対する愛情が薄れていくのが手に取るようだ。千紘は淡々と説明をした。

 宝田家に嫁いだからには世継ぎを求められる。だが公造は子を成せない体だった。千紘は義母の命令で宝田の遠縁を頼り、人工授精によって杏花を授かった。公造のそばに居続けるには、他になかったのだ。

 それらを話した千紘の表情は酷く疲れていた。

「……なんやそれ」

 公造は声を震わせる。

「そんなん、嘘に決まっとる。杏花は、お前が不倫してできた子や。他の男と愛し合ってできた子やろうが。せやから、俺は……」

 貴一が顔をあげた。卯月も視線を向けると、肩で息をしている時雨がいた。共に駆けつけたらしい横井が、こちらへ走ってくる。

「卯月ちゃん、どこも怪我はない?」

「ありません。けど、どうして横井さんがここに?」

 横井は鞄からポーチを取り出しつつ答える。

「時雨さんとそこで会ったのよ。悲鳴が聞こえて駆けつけたの」

「その悲鳴は、千紘さんのものです」

 大丈夫だというように微笑んでみせると、ようやく横井の不安そうな表情が緩んだ。

 横井が取り出したポーチは救急セットらしく、包帯や消毒液が覗いている。彼女は恥ずかしそうに咳払いをして、すぐにポーチを鞄に押し込んだ。

「無事ならよかったわ」

 卯月は横井の様子に、強ばっていた表情を緩めた。

 彼女はこれまでも、芦山から庇ってくれた。最後にこっそりと「ごめんなさいね」と謝罪をくれるから、芦山の心無い言葉にも耐えることができたのだ。

「心配してくださってありがとうございます」

 公造が唸り声をあげた。

 時雨が貴一と位置を代わったのだ。公造を地面に抑え込んだまま、時雨が淡々と告げる。

「宝田公造、殺人未遂の現行犯逮捕だ」

 時雨が公造の手首に手錠をかけた。公造は項垂れ、千紘は顔をそらす。

 卯月は今になって足が震えてきて、がくりと地面に座り込む。

「どうした。怪我をしたのか」

 慌ててやってきた貴一に、卯月は力なく首を横に振る。

「いえ、力が抜けただけです」

 ほっと力を抜く貴一に、卯月は思い出したように言葉を紡いだ。

「先輩、さっきは助けてくださってありがとうございました」

「短い付き合いだが、卯月くんが無茶をするのはよくわかっている」

 立ち上がろうとしてよろけたところへ、貴一が手を差し出す。

「ほら、立てるか」

 一瞬迷ったのち、卯月はその手を借りる。

 力強く引かれて、なんなく立ち上がった。

 貴一がまたすぐに時雨のほうへ戻り、残された卯月は自分の手のひらをじっと見る。

 迷いなく差し出された貴一の手。彼は先ほども、卯月を助けてくれた。時雨もそうだ。卯月が怨霊特別対策班に対して無茶な要求をしたあと、卯月の立場が悪くならないよう苦心してくれた。時雨は決してそのことを言わないけれど、側にいると自ずと察することができた。

 ことん、と胸の奥に熱の塊が落ちてきた。

 これまでに感じたことのない、卯月の知らないぬくもりを灯していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ