第四章【⑥】怨霊
卯月は激しい揺れのなか、目を覚ました。
転がった懐中電灯の明かりが、座り込む卯月と目の前の其れ――始祖を映している。
地震ではない。娘を見つけたと信じた始祖が、歓喜に身を震わせているのだ。
私はあなたの娘じゃない。そう叫ぼうとして飲み込む。
彼は、卯月を娘と重ねている。無辜の魂を食らう己を浅ましいと感じながらも、たった一つの目的のために千年以上も存在し続けた彼が、ようやく報われようとしているのだ。
卯月は知ってしまった。彼の本懐は娘と会うことだったと。
お父さん、会いたかった。これ以上誰も傷つけないで。
娘のふりをして彼を宥め、そう促すことがもっともよい解決策だろう。
地震が収まり、始祖のミイラのような手が、卯月の背中を這い、強く抱きしめる。心が震えた。決して届かない相手を求め続ける始祖の姿は、卯月そのものだ。
卯月はずっと、こうして父に抱きしめてほしかった。大切な娘だと、愛していると言ってほしかった。
身代わりでもいい、『父』に愛されているのなら。それで始祖が救われるのなら、喜んでこの罪深き身を捧げよう。……少し前までの卯月なら、そう思ったに違いない。
杏花の笑顔や水縁の穏やかな微笑が脳裏に蘇る。
彼らは死んだ。他者の手によって強制的に人生の幕を下ろされたのだ。
「……私のお父さんも、人を殺したの」
考えるよりも、胸の内から溢れる激情が卯月の口を動かす。
卯月はもう、理想の父親像を追い求めることはできない。古坂部悠二の犯罪によって人生を歪められた貴一や時雨と会ってしまったから。前に進もうとしながらも、根幹の部分で苦痛を抱え続けている彼らの心に気づいてしまったから。
「人の命を奪うことは、許されてはいけないの。後悔しても、取り返しなんてつかないことなんだよ」
彼の腕に力がこもり、肺が潰れそうになる。刹那、首筋に歯が食い込み、視界が真っ赤に染まった。落胆、悲しみ、絶望。卯月が娘ではないと気づいた彼の衝撃が、負の感情が、まざまざと流れ込んでくる。
卯月は最後の力を振り絞って、両手を彼の背中に回す。彼の木片のような体を、強く抱きしめる。
「だから、私と一緒に償っていこう。残りの人生、罪を償うために生きよう」
皮膚が食い破られた。
頭の奥で火花が散り、意識が闇のさらに深い場所へと沈んでいく。
薄れる意識のなか、痛みが首から下腹部へと降りていくのを感じた。膿のように淀んだ不快感と異物感を伴って。
ずるり。ずるり。何かが胎を這っている――。
卯月は、奥背山の自宅の庭に立っていた。
うっとりとするような春の心地よい風が卯月の白いワンピースの裾をはためかせた。
突風が吹き、麦わら帽子を押さえる。
風が止んで顔を上げると、少し離れたところに梅太が立っていた。
ああ、これは夢だ。もう卯月は、彼を夢の中でしか見ることができないから。
それでも穏やかな時間を共有するのは久しぶりで、卯月は嬉しくなった。
梅太、と呼びながら駆け寄ろうとしたが、誰かに腕を引かれて進むことができない。
奇妙な既視感を覚えた。しかしかつて見た父を求める夢とは、確実に異なる。
梅太が微笑んだ。
その安らぎに満ちた表情に目を見張り、卯月は微笑みを返した。
彼の口が、ゆっくりと動く。
――さようなら、卯月。
◆
卯月は、重い瞼をあげた。
真っ白い天井が視界に映り、清潔なリネンの香りから、ここが病院か、あるいはその関連施設だとわかった。起き上がろうとして、右上半身に激痛が走った。くぐもった声が漏れ、それを聞きつけた時雨が卯月を呼ぶ。
声の方に視線を向けると、ベッド脇の椅子に彼女がいた。書類を見ていたようで、持っていたファイルを閉じるとベッドに乗り出してくる。彼女のアイデンティティである片眼鏡はつけておらず、心配そうな顔でじっと卯月をのぞき込んできた。
「よかった、意識が戻ったんだね」
「一体何が起きたんですか」
「詳しい話はゆっくりと話すから、一度医者を呼んでいいかな」
彼女の手に髪を梳かれて、ぼんやりと頷く。全身がだるい。腕に繋がれた点滴に顔を向けようとして、また右上半身に激痛が走った。
医者が駆けつけ、卯月の状態を確認する。痛みの有無や記憶の混濁がないかなど一通り触診と問診をすると、医者は「絶対安静で」と言って部屋を出て行った。時雨も医者と共に出ていき、廊下で会話する声がする。内容までは聞き取れないし、耳をそばだてる余裕などなかった。
診察の途中で気づいたが、卯月はびっしょりと汗をかいていた。時雨に汚いと思われたかもしれない。
時雨が戻ってくると、すぐに卯月の渋面に気づいて駆け寄ってきた。
「痛むのかい?」
「汗まみれな自分を、嫌悪していました」
途端に時雨が苦笑する。椅子に座ると、約束通り何が起きたのか話して聞かせた。
祭事のとき、時雨が本部から受けた命令そのものが怨霊の罠だったこと。貴一が梅太を追いかけた先で土砂崩れが起き、卯月がいるだろう洞窟が埋もれてしまったこと。
卯月は梅太が皆を導いてくれたと知って、こみ上げてくる涙を懸命に堪えた。
「激しい揺れだった。実際に奥背山の随所で土砂崩れが起きている。それにも関わらず、地震計には一切記録されていないんだ」
「住民に被害がでたんですか」
ぎょっとして尋ねると、時雨は首を横に振る。
「幸い、民家に被害はなかった。道路が一部通行止めになったところはあるけど。もっとも被害が大きかったのは、奥背山寺の裏手――卯月ちゃんがいた辺りだよ」
「私は、墓所にいたんです。石に囲まれた部屋です」
「知ってるよ。刑事二人が何かと動いてくれて、すぐに重機を手配できた」
そうして、洞窟の奥で鎮座する僧侶と思しき即身仏を見つけた。周辺を調べたところ、隠し部屋を発見。卯月は、閉鎖されていたその部屋にいたという。
「見つけたとき血塗れだったから、びっくりしたよ。無事でよかった、本当に」
「色々とご迷惑をおかけしました。それから、助けてくださってありがとうございます」
ふと、卯月は大切なことを思い出した。
「あの、私がいた部屋に、水縁さんがいたはずなんです」
時雨が、厳しい表情で頷く。
「確認したよ。水縁の他にも、連続少女失踪事件の被害者全員の遺体があった。それだけじゃない。過去に怨霊に連れ去られた娘たちの遺体も見つけたよ。骨になっていたけどね。今回、本当にあの二人の刑事がいてくれて助かった。一緒に第一発見者になってくれたから、諸々の手続きを彼らに任せることができる」
調査が終われば、引き取り手のない遺骨も供養されるという。
卯月の強張っていた体から、力が抜けていく。
「そういえば、貴一先輩はどこにおられるんですか。助けてくださったお礼をお伝えしたいんですけど、もしよかったら通話とか――」
途端に、時雨の表情が曇る。まさか、貴一も怪我を負ったのだろうか。
「卯月ちゃん、驚かずに聞いてほしい。明智くんが、卯月ちゃんのお腹にいる子と一緒に生きていくっていうんだ。きみたちはその、そういう関係なのかい」
卯月の思考が停止した。時雨が両手をばたばたと振り始める。
「いやでもね、検査ではお腹に子どもなんて見当たらなかったんだ。ああ、違う。これは処置の際に卯月ちゃんの身を案じて検査をお願いしただけで、決してプライベートに踏み込もうと言うんじゃないんだよ」
「そんな関係になった覚えはありませんけど。所長の聞き間違いじゃないんですか」
「えっ、そ、そうかな」
初めてみる時雨の慌てた姿に、卯月はついくすりと笑う。
そこにノックの音がして、何気なく返事をする。貴一だった。
「目が覚めたらしいな。命に別状はないと聞いていたが、とりあえずよかった」
卯月は貴一に、迷惑をかけた謝罪と助けてくれたお礼を述べる。タイミングよく現れたと思ったら、時雨が先程、貴一へ連絡したという。
「明智くん、私に隠してることがあるんじゃないかな」
ジト目で貴一を見る時雨に、貴一が苛立たしそうに眉をひそめた。
「あの、先輩。実は所長が何か誤解なさってるみたいで」
先程の話を伝えると、貴一の眉間の皺がさらに深くなった。
「子じゃない、個だ。個人の個。己という字でもいい」
「それだと意味がわからないじゃないか。普通に考えて子どもって意味だと思うだろう」
「卯月くんの腹にいるのは、赤子じゃない」
時雨が動きを止めた。彼女は何かを言いかけて口をつぐむ。
やがて時雨がゆっくりと卯月を振り返った。
「どういうことだい」
卯月はゆったりと微笑んで、自分の腹に目を向ける。布団で目視こそできないが、目を覚ます前から、卯月は体内で脈打つそれに気づいていた。
「何があったのか、話します。すべて」
そこにまたノックが響く。返事をする前にドアが大きく開き、見知らぬ男が二人、入ってきた。
一人は髪を頭に撫でつけたスーツ姿の男で、年齢は五十ほどだろうか。厳めしい顔と顔を横断する大きな傷、圧倒的な存在感が、彼を暴力団関係者のように見せている。
もう一人は剃髪した男だ。病院内だというのに袈裟を纏っている。年のころはスーツ姿の男と同じかやや若い。
「八坂地さん! どうしてここに」
時雨が立ち上がり、切迫した声で叫ぶ。強面の男が鼻をならした。
「私たちが動かねばならんほどの大事だということだ」
言動からして時雨の上司だろう。つまり、怨霊特別対策班の偉い人である。
――これは好機だ。
「守屋卯月、お前を調べた。生まれながらに呪われた存在らしいな」
静かな部屋に、八坂地と呼ばれた男の声は朗々と響いた。彼の双眸が卯月を捉える。
「お前、奥背山の怨霊に何をした?」
「なんのことをおっしゃってるんですか」
答えたのは時雨だ。八坂地はサッと彼女に視線を滑らせる。
「怨霊の存在が忽然と消えたのだ。どういうことか説明しろ」
時雨が目を丸くし、慌てて口を開こうとする。それを、八坂地が視線で制す。
卯月は静かに目を閉じて、決意を固めて瞼を上げた。
「私が知っていることを、全部お話します」
卯月は自分の過去や怨霊との間に何があったのか、包み隠さず話した。
すべてを聞き終えた八坂地はこれ以上ないほど顔をしかめていた。
「それで、なぜお前は生きている」
「奥背山の怨霊は、己の存在が罪深いことを自覚しています。後悔の念に苛まれています。私は彼と、残りの人生すべて贖罪のために生きていきます」
「やはりそういうことか!」
それまで黙っていた僧侶のほうが唐突に叫んだ。
彼は大股で卯月のすぐ傍まで歩み寄ると、まじまじと卯月の腹部の辺りを睨みつける。
「禍々しい気配がおる。到底人のものとは思えぬとは感じておったが、怨霊をその身に宿すなど前代未聞ぞ」
やたらと芝居かかった物言いが気になった。だが彼の言葉を八坂地は信用しているようで、眉をひそめて卯月を見た。時雨も同様だが、貴一だけは表情を崩さない。
「怨霊を体に宿すなんて、猛毒を飲むようなものだ。人の体で出来るはずがない」
時雨の困惑をありありと浮かべた言葉に、八坂地も頷く。
「楼庵、どういうことだ」
「毒を以て毒を制すということなのだろうよ。この娘御の肉体や魂は、生まれながらに呪詛を纏っておる。ゆえに呪詛が相殺されておるのか、それとも同化して一つの呪物となったのか」
「そうだとして、守屋卯月が生きている理由にならない」
楼庵というらしい僧侶は、困ったように眉を下げた。
「ゆえに前代未聞なのだ。とにかく、奥背山の怨霊は消えたのではない。守屋卯月の体内に身を潜めておるのだ」
「彼は、ある条件さえ守っていれば怨霊として害がありません」
皆の視線が卯月に向く。拳を握りしめて顔をあげた。
「悪事に手を染めず、人を守ること。他者のために生きること。それを怠れば、彼は今度こそ完全な怨霊となって災いを齎すでしょう」
卯月は、八坂地の目を見返す。
「私に、彼と共に贖罪をさせてください」
「必要ない。怨霊を崇め神とする、それが最善の策だ」
「それが出来ぬから身に宿したのであろうよ。神性化を拒否する意思と、罠をはる知性、人をまるごと攫うほどの力。この怨霊は確固たる意志で、守屋卯月のなかにおる。下手に刺激せんほうがいい」
「この女ごと屠るのはどうだ」
「聞いておったか? そんな単純な話ではないのだ。もしこの怨霊が表に出たら、日本列島が割れるぞ。絶対に無碍なことをしてはならん」
「馬鹿な。それほどの力を持つ怨霊など聞いたことがない」
「前例がないといっておるだろうが。こうして傍にいるだけでも鳥肌ものぞ」
八坂地がため息をつく。
「あいにく私には霊能力がないのでわからない。しかし、そこまで怨霊の力が強まるなどありえるものか」
楼庵が、先程まで時雨が座っていた椅子に腰を下ろした。
「推測だが、奥背山の怨霊は攫った娘を取り込んでおったという。突然連れ去られ無念の死を迎えた娘の霊たちもまた、地縛霊や怨霊に近しい存在になっておったと考えるべきだ。そしてそれらは、攫われた先の墓所から出られぬまま、奥背山の怨霊に食われた。これは、ある種の蟲毒といえるだろう」
「中国の呪詛か。壺のなかに虫を入れて、共食いさせるという。確か最後に残った一匹が呪物として利用されるのだったか」
「左様。昆虫ですら蟲毒によって呪物となる。それが怨霊によって千年もの間行われてきたとなれば、得た力は計り知れず。奥背山の怨霊が強大な力を持つのも道理よの。わしらに存在すら掴ませぬままだったのも、あらゆる面でわしらより力が上回っておるからと考えるのが妥当だ」
八坂地は頭が痛いというように額を抑えた。
「私がこのまま彼を体内で押さえます。だからどうか、私を怨霊特別対策班に置いてください」
八坂地が勢いよく振り向く。時雨も貴一も同様だ。楼庵が顎に手を当てた。
「私には霊能力がありません。けれど彼の力を借りれば、役にたてると思うんです」
「できるかわからんことを言うな」
すぐさま八坂地が、不快そうに口を開く。
「だが、可能ならば心強いではないか。怨霊によって怨霊を鎮める。前代未聞尽くしだが、一考の余地はあるぞ。先程も申したが、どちらにせよ守屋卯月は怨霊を身に宿しておる。傍に置き、常に見張るのがよかろう」
八坂地が深く息を吐き出した。眉間に深い皺ができている。
「処遇を決めるのは上だ。守屋卯月、お前の希望は伝えておいてやる」
「ありがとうございます」
「まずは養生することだ」
八坂地はさっさと部屋を出て行った。
「楼庵さんも帰ってください」
時雨の冷ややかな声がした。
楼庵が食い入るように卯月を見つめ、口元をこれでもかというほど歪めている。
「せっかく八坂地がいなくなったんだし、仕事は終わりってことで。ここからはプライベートな時間だよ。こんな希有な検体が手に入るなんて、研究者冥利に尽きるねぇ」
がらりと口調を変えた楼庵の手が、卯月へ伸びる。
「プライベートの時間でしたら、上司として対応しなくていいですね」
時雨は楼庵の手首を掴むと、問答無用で病室から引きずり出した。




