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第四章【⑤】怨霊

 卯月は強烈な腐臭で目を覚ました。

 床に顔を伏せるが吐けるものがなく、胃液すら枯れて、胃が痙攣するほどのむかつきで両手がガクガクと震える。

 えずきながらも吐き気が収まってきた頃、手の甲で口をぬぐった。

 辺りは真っ暗だ。僅かな光すらない。

 手探りで地面を撫でると、ひんやりと石の感触がした。指先に何かぬめりが触れる。水垢だろうか。すぐ後ろが壁となっていたため、壁に掴まるようにして立ち上がる。そこでふと、ポシェットに懐中電灯を入れていたことを思い出した。

 パッと灯りをつけるものの、小型の懐中電灯の光はそれほど役に立たない。

 まず壁を照らし、そして足元を照らした。やはり、床と壁は石でできているらしい。それも継ぎ接ぎのブロック状の造りではなく、巨石を切り出したものである。まるで明日香のほうにあるという石舞台古墳のようだ。

 そう気づいた瞬間、恐怖がせりあがってきた。もしここが石棺なら、卯月はその中にいることになる。出口はあるのか。気を失ってから時間がどれほど経っているのか。

 携帯電話はどこかで落としてしまったらしい。嫌な汗が噴き出して、呼吸が浅くなっていく。パニックになりそうになる思考を懸命に落ち着かせながら、意識を失う前の記憶を手繰り寄せる。確か、夢と同じように父親を追いかけたのだ。

 夢が現実に混ざり込んできたかのような光景のなか、卯月は確かに彼を父だと思った。だがあれは、もっと古い時代の人間だ。まさかという予感に、唇を噛む。卯月は攫われたのか。なぜ。怨霊の被害者には式役檀家の血筋という共通点があったはずだ。

 悶々と考えていても埒があかない。出口を探すために壁伝いに歩き出す。壁が乾いていたのは先程の箇所だけのようで、触れる箇所はどこもかしこもぬめっている。嫌悪感でいっぱいになるが、汚れならあとで洗えばいいと自分に言い聞かせた。

 足場を確認しながら進む。突き当たりに壁があり、部屋の角の様相を呈していた。

 ここは、石の壁に囲まれた部屋だ。真っ暗なのは夜中だからかと思っていたが、もしかしたら地下なのかもしれない。意識が恐怖で揺れたとき、何かに躓いた。咄嗟に懐中電灯を足元へと向ける。何かある。黒いものだ。闇と混ざってよく見えない。

 卯月は壁から手を放し、懐中電灯で照らしながら近づく。硬直した。焼け焦げた袈裟だ。皮膚が破れ、血に塗れた焼死体を包んでいる。

 首が鋭利な何かで切断され、赤黒い断面が覗いていた。

「ひっ」

 獣のような呼吸が聞こえた。遅れて、それは卯月自身の呼吸だと気づく。ガチガチと歯がぶつかり、呼吸が浅くなる。

 ――嫌だ。怖い。ここから逃げたい。

 震える手で胸を掴む。鼓動が手のひらを押し返し、その力強さに目を見開いた。

 卯月はまだ生きている。両親のことを知ってから、死ぬときは誰かのために死ぬ、と心に決めた。最初で最後の、もっとも正当な贖罪として。

 だから、こんなところで死ぬわけにはいかない。

 気を持ち直すように息を深く吐き、懐中電灯を強く握る。まずは無事にここから出て水縁の遺体を供養するのだ。

 消失した水縁の遺体があるということは、ここが怨霊の『住処』と考えていい。卯月はある考えに思い至り、おそるおそる懐中電灯で水縁の周辺を照らした。

 予想は当たる。覚えのある制服を着た少女の遺体があった。腐乱して崩れ、原形をほとんど留めていない。

 胃が再び痙攣する。咄嗟に胸を押さえた反動で明かりが別のところを照らす。水垢のように地面にこびりついたどす黒い物質。山のように折り重なる黒ずんだ人骨。

 ――これまでの犠牲者だ。

 おぞましさによろけた瞬間、麻袋を引きずるような音がした。

 ずるり、ずるり。

 確かにこの部屋の闇から聞こえてくる。耳を塞ぎたいのに、恐怖で硬直して動けない。

 ずるり、ずるり、ずるり。

 音が近づいてくる。まるで足音のようだ。

 ずるり、ずる、ずるずる――。

 音が速くなった、そう思った次の瞬間。

 卯月を覗き込んでくる顔があった。

 かろうじて人の顔だとわかるものの、木の年輪のような皺が顔全体に刻まれている。肌は青白く鼻は削げ、眼球があるはずの場所にはぽっかりと空虚な穴があいていた。

 戦慄が走った。

 恐怖で意識が飛びそうになったが、拳を握り締めることでかろうじて堪える。

 ――闇のなかで、『其れ』だけは鮮明だった。

 其れがねっちょりとした唾液を垂らしながら口をひらいた。血生臭い吐息が卯月の顔にかかる。卯月は本能的に後ろに下がる。かかとが固いものにぶつかり、粘つく水溜まりに尻もちをついた。懐中電灯が手からこぼれて、其れの全身を捉えた。

 ひと目で人外とわかる顔には、枯れ枝のような体がついていた。足は四つあり、後ろ足は杭のようなもので無理矢理貫かれ、一塊となっていた。其れが歩くたびに、後ろを足がずるりと音をたてる。悲鳴が喉に張りついた。

 ずるり、ずるり。

 其れが卯月に覆いかぶさる。硬く細い指先が頬をなぞった瞬間、卯月の意識は別のところへ流された。


 ◆


 卯月は竹藪のなかを、僧侶に手を引かれて逃げている。

 目線の高さからして幼子だろう。夢のなかで、古坂部悠二の犠牲者たちの記憶とリンクしたときと同じ感覚だ。おそらく卯月は夢を見ている。恐怖のあまり気を失ったのだろうか。早く起きなければ。

 しかし夢は強固に卯月を引き留める。空間がぐにゃりと歪んだ。

 卯月は青空の下にいた。澄んだ空気が心地よい。体は十歳ほどだろうか。

 振り返ると、僧侶が微笑んで手招きした。自然の恵みで作られた食事を二人で取る。

 生きる理由を見つけられずにいる少年に、僧侶は根気強く諭す。生きることそのものに意味があるのだと。

 また場面が変わり、卯月は大人の男になっていた。そばには恋い慕う女性と娘がいた。もう、寂しくはなかった。彼の人柄に惹かれた者たちが集まり、集落ができていたのだ。

 森の奥にひっそりとある集落は、誰も拒まず、望む者すべてを受け入れた。森の恵みから食糧を得て、力を合わせて整地する。楽しさを分かち合い、悲しみを慰め合った。

 ガクンと視界が揺れた。卯月は地面に倒れていた。両腕を縛られ、身動きができない。野武士のような男が、無残に殺された子どもの遺体を抱えていた。

 ――こいつが子どもを殺していたんだ。俺は昨夜その現場を見た。だからこうして死体を見つけることができた。

 駆けつけた子の母親が嘆き悲しみ、男――始祖に罵倒を浴びせた。

 すぐに誤解も解けるはずだ。そう思っていた。

 だがどうしたことか、彼の自宅から、これまで失踪した子どもたちの衣類が見つかった。奥背山の民はもはや誰一人として、彼の潔白を信じなかった。

 愛する妻は目の前で殺害され、娘は新たな奥背山の長となった男――野武士のような男の部下に嫁ぐことにより、集落で暮らすことが許された。

 次の瞬間、強烈な痛みで卯月は悶絶した。口に詰め込まれた木片を噛みしめ、激痛に目を見開く。両足の太ももに木杭が撃ち込まれ、両脚まとめて足の甲から杭で貫かれる。

 民らの軽蔑に満ちた視線が刺さる。頭部に激痛が走った。石が頭に直撃したのだ。

 バチッ、と火花が散るような衝撃と共に場面が変わる。

 四方を石壁に囲まれた部屋にいた。貴い血である始祖に相応しい場所をと、僧侶が奥背山の森の奥に用意した墓所だ。墓の上にある空気穴から外の光が降り注ぎ、ぼんやりと辺りを照らしている。彼は床を這い、壁を両手で押したが、びくともしない。

 部屋に差し込む陽光に影が差す。

 空気穴から、野武士のようなあの男が覗き込んでいる。

『私は本当に何もしていない。信じてくれ』

 訴える始祖を、男は嘲笑う。

 ――知っている、あれは俺がやったのだ。

 彼は部下に、墓所の側面を板で覆うよう命じる。すでに用意されていた板が並び、辺りが闇に沈んでいく。

 ――お前はここで死ね。

 男の笑い声に合わせて彼の部下たちも笑う。

 木板が立てかけられ、土をかぶせる音がした。やがて辺りは完全な闇となる。

 始祖は叫び、壁を叩く。爪が折れて骨が見えても壁を掻き続け、その口からは男どもに対する怨みが吐き出された。

 卯月は流れてくる始祖の激情に、涙を流した――なんてむごいことを。

 始祖にとって奥背山は第二の故郷だった。住処を追われて定住した先で、思いがけず得た幸福の里。

 それなのに、潜んでいた盗賊共が子を攫い、その罪をなすりつけた。誰を疑うこともなく身の潔白を叫び続ける始祖を、僧侶が人生をかけて拵えた墓所に生き埋めにした。

 始祖の無念さが卯月の心を狂暴にさせ、彼と共に呪いの言葉を吐く。

『私を罠にはめたお前たちを末代まで祟ってやる。私を信じなかった奥背山の民たちも決して許さぬ』

 ――奥背山など滅んでしまえばいい。

 ふつふつと血液が沸騰する。思考が赤く染まり、喉が切れて血が口から溢れた。

 始祖が、ぐったりと地面に倒れ伏す。

 あれからどれだけの時間が過ぎたのかまったくわからない。

 彼の内を占めるのは、どこまでも怒りだった。やがて全身を激痛が襲う。彼の体は腐敗し、早急に治療をしたとしても助かる見込みはない。

 いよいよこの世を去るのだという頃になって、ふいに我が子の笑みを思い出す。

 懸命に生きた日々が、幸福な色を添えて走馬灯のように巡る。

 ――娘に会いたい。

 無事なのか。どこにいるんだ。死の間際で、彼に生きる意思が宿る。怪我の治療が不可能ならば、空腹だけでも満たさねば。

 彼は自分の体を食して空腹をしのぐが、墓所のなかで息絶えた。

 そうして彼は怨霊となり、強大な力をもって主犯の男を呪殺する。それでも渇きは、決して満たされない。

 怒りという濁流の中にいた彼を、温かく包む者がいた。

 ――すまない。すまない。私が都へ出向いていた間に、こんなことになろうとは。

 僧侶だった。彼の存在が、始祖に理性を取り戻させる。父代わりであった僧侶が寄り添うなか、始祖は崇められて神となり、かつての慈悲深い姿を取り戻す。

 だが信仰が途絶えると、荒魂の側面が姿を現す。

 僧侶が残した愛情が、荒魂となって尚、理性を保たせた。

 ――娘は、あの男の部下らの傍にいるはずだ。

 彼は娘と思しき者を攫い、落胆する。違う。また違う。娘に会いたい一心で目ぼしい娘を攫い続ける。

 だが、知性ある彼は知ってしまう。怨霊と呼ばれる存在になり神と崇められても、彼の魂は決して不滅ではないのだと。数百の年月が流れ、己の力がすり減っていく。このままでは存在を維持できない。駄目だ。駄目だ駄目だ。

 ――さらなる力をつけなければ。

 彼は、墓所内で成仏できずに彷徨っていた娘たちの霊魂を貪った。食べるほどに怨霊としての力は増すが、ついぞ理性が保てなくなっていく。

 和魂としての面が強く出るたび、我に返る。狂おしいほど娘に会いたい気持ちとは裏腹に、無辜の魂を食らってまで生き永らえていることへの自責の念が彼を蝕む。

 娘に会いたい。だが、自分は潔白ではなくなった。

 それでも欲求は手放せず、荒魂が出てくると愛娘を求めて年頃の娘をさらう。どこにいるのか。隠れているのだろうか。ならば、もっと力をつけなければならない。

 彼はついに、さらった娘を生きたまま貪ることにした。霊魂と共に肉体を餌として、益々力を得ていく。

 ――会いたい。愛しい娘。だがお前は私に笑いかけてはくれないだろう。罪を犯した私を、父と認めないだろう。

『お父さん』

 誰かが自分を父と呼ぶ。

『人を食べていても、私のお父さんは一人だから。犯罪者でも、私のお父さんだから』

 彼は絶叫した。

 ――娘だ。今度こそ間違いない。私の罪ごと受け入れてくれるというのか。愛おしい娘。会いたい。お前に会いたい。お前は今、どこにいるのだ。


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