第四章【④】怨霊
肩を揺すられて貴一は顔をあげた。伊藤が見下ろしていた。
「よかった、気がついたみたいですね」
ああ、と頷く。ぼんやりとする頭で辺りを見た。
小雨だったはずの雨は強さを増し、薬医門を打ち付けている。卯月が雨宿りさせてくれなければ、泥水まみれになっていただろう。
貴一は梅雨のようなジメジメとした不快感に顔をしかめて、ふと気づく。
「時雨はどうした」
「今、本部に連絡を取りに行ってます」
「御神体は見つかったんだな」
「それが、見つからないんです。時雨さんいわく、怨霊の依り代は一般人でもわかるらしいので、手分けして探してみたんですけど」
怨霊の依り代を見たことはないが、過去に呪物を見たことがある。視線が吸い寄せられる存在感を放つ。強すぎる怨念には、人の本能が警鐘を鳴らすのだ。
「よかった、目が覚めたんだね」
時雨が上着を傘代わりに被り、携帯電話を片手に戻ってきた。その顔色は悪く、立っているのもやっとという印象だ。
「何かあったのか」
貴一が鋭く問う。
「本部に連絡をしたんだ。御神体回収の指示など出していないと言われてしまった」
空気が張り詰める。
「私は確かにそういう指示を受けた。携帯電話には発着信履歴も残っている。だが、本部には繋がっていなかったんだ」
どういうことだ、と問おうとした貴一を遮るように、時雨が続けた。
「明智くん、卯月ちゃんはどこ?」
言われて初めて、卯月がいないことに気づく。
「怖くなって帰ったんじゃねぇのか」
染谷が揶揄するように言うのを、伊藤が睨みつけた。
「そんなはずないですよ。さっきまでの異常な寒さのときだって、守屋さん平気そうでしたもん。むしろ心地よいって言ってたんですから」
「なんだって」
時雨が悲鳴のような声をあげ、貴一も咄嗟に伊藤を睨みつけた。
視線を受けた伊藤が慌てたように言う。
「さっき、奥背山寺に向かう途中のことです。染谷さんも聞いてましたよね」
「いや、何も聞こえなかった。二人で笑いあってるから気持ち悪りぃなとは思ったが」
「そんな、隣にいたのに会話が聞こえないはずがないじゃないですか」
時雨が額に手を当て、皿のように見開いた目で虚空を睨む。
「卯月ちゃんは呼ばれたんだ。でも、どうして」
「呼ばれた、ってなんだよ。一人で納得してねぇで説明しろって」
「怨霊の目的は、最初から卯月ちゃんだったってことだよ」
「守屋卯月は、怨霊に攫われたのか!」
詰め寄る染谷を押しやり、時雨は呟く。
「攫うのは式役檀家の血筋だけじゃないのか。卯月ちゃんはその血筋だった? いや、ありえない。彼女の両親は……しかし母親の血筋は不明で……いや、それでも可能性としては限りなく低い。何か別の理由があるんだ。怨霊が卯月ちゃんを攫った理由が。……そもそも、怨霊はどうして女性ばかり……」
貴一が、一歩踏み出した。途端に全身を強い雨粒が打ちつける。
「おい、一人で行動すんな」
染谷が怒鳴る。
「探しに行く。ここにいても卯月くんは見つからない」
そのとき、白い何かが視界の端で動いた。雨でぼやけた白熱灯の明かりかと思ったが、暗闇に男が立っていた。梅太だ。彼は貴一を見たあと踵を返す。貴一は駆けだした。
「明智さん、どうしたんですか!」
伊藤が叫ぶ。
「卯月くんの兄がいる」
叫び返した。足は止めず、梅太を追いかける。
他の面々も貴一に着いてきたらしく、雨を蹴散らすように全員で駆ける。
寺の裏手に祠があった。そこから梅太が森へ入っていく。貴一もあとを追う。獣道同然の固い草木を踏みしめ、枝を掻き分けて進む。全身がびしょ濡れで、跳ね返った枝が肌をえぐる。雨や汗が目に入って視界が歪み、袖で乱暴に顔をぬぐった。
梅太は、まるで貴一を待つように少し先で立ち止まっている。
「明智くんには、卯月ちゃんの兄が見えているんだね」
「そこにいる。こっちだと言ってるんだ。卯月くんはこの先にいる」
貴一がよろけた隙に、時雨が先頭に立つ。息を整えている間に、時雨の隣に染谷が並ぶ。一気に進みが早くなり、その後ろに貴一と伊藤が続いた。
「明智くん。きみは、どこまで知ってるんだい」
時雨が叫ぶように言う。
「事務所で話していた内容なら、聞こえていた」
「やっぱりか。きみが頭痛持ちなんて初めて聞いたから、嘘だろうと思ってたんだ」
「妹を大切に思ってくれて礼をいう。僕のことを雇ってくれたのも、僕自身の人生を生きるための手助けだろう」
「そこまでわかっていて知らないふりをしてたのは、卯月ちゃんのため?」
「さぁな。自分でもよくわからない」
時雨の疲労が見えて、貴一が場所を変わる。染谷はまだ余裕がありそうだ。後ろでは伊藤が自分を番が回ってくるのを待っている。
「どうして、明智くんにだけ卯月ちゃんのお兄さんが見えるんだろう」
貴一は聞こえないふりをした。すでに仮説がある。
――血だ。
科学的な根拠があるわけではない。だが、食事は儀式に用いられるほど神聖な行為であり、それによって咲良は、古坂部悠二の体内に取り込まれた。咲良の意思や魂の片鱗が古坂部悠二の血肉に宿り、さらに、血を分けた子である卯月と梅太もそれらを引き継いでいるのだとしたら。
貴一は、歯を食いしばる。
数多の犠牲者の怨念と呪詛を、背負って生まれた双子。
両親を知らずに育った彼女が、会ったこともない父親が犯した罪を償い続けている。犠牲者たちの望みを叶え続けることに心を砕き、彼女自身の望みや夢を持たないまま――。
卯月の笑みを思い出す。胸が掻きむしるように傷んだ。
ふと梅太が立ち止まる。微笑みを残して姿を消した。
「おい、そこで行き止まりだぞ」
染谷が叫んだように、十数メートル先は断崖絶壁の崖下になっていた。不思議なことにその周辺は草木が一切なく、土がむき出しになっている。
「あそこ、洞窟じゃないですか」
懐中電灯で照らしながら伊藤が言う。崖下に暗い穴が開いているのを確認した。
そのときだ。
周囲全体から――奥背山の土地が、叫びをあげた。
「こりゃでかいぞ」
「明智くん、地震だ。いったん伏せるんだ!」
耳をつんざくような男の悲鳴が、大地を震わせる。この悲鳴は嘆きではない。歓喜だ。奥背山の怨霊が喜んでいる。
「明智くん!」
時雨が叫ぶ。染谷が貴一の腕を引き、地面に頭を押しつけるように覆い被さった。
歓喜の悲鳴が大地を震わせ、唐突に途絶えた。
雨がさらに強く降りしきるなか、貴一は染谷の腕を振り切って洞窟のほうへ駆け出した。しかし数歩もいかないうちに足が止まる。
――洞窟が土砂で埋まっていた。
染谷が携帯電話を取り出すが、顔をしかめて舌打ちをする。
「まずいな、さらに土砂が崩れてくる可能性がある。おい、ここを離れるぞ。守屋卯月がここにいるって決まったわけじゃ……おい!」
貴一は崩れた土砂を両手で掘り始めた。
「……明智くん」
時雨が唖然と呟く。だがすぐに彼女も隣にやってきて、素手を土に突っ込んだ。
「ああっ、くそ! 俺は一旦戻って連絡してくる。伊藤、お前はシャベルを探してこい。俺を含めた人数分だ」




