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第四章【③】怨霊

 小雨が降り続いていた。

 しかし、体に纏わりついているはずの雨水は思っていたよりも不快ではない。

「なんだか、めちゃくちゃ寒くないですか」

 奥背山寺へ向かう坂を登りながら伊藤が尋ねてきた。彼女はスーツの上から両腕で自分の体を抱きしめている。

「雨で体が冷えたのかもしれませんね」

「そういう寒さじゃないですよ、これ。真冬みたいに、体の芯からぞくぞくします。雪が降りそう」

 そう言って伊藤が空を見上げる。つられて卯月も空を見るが、分厚い雲が覆っているだけで、雪など到底降りそうもない。

「守屋さんは大丈夫ですか」

「はい。むしろぽかぽかして心地よいですよ」

 伊藤は信じられないものを見るような目で卯月を見た。

「守屋さん、肝が据わってるんですね。今度一緒にやりましょう」

 くいっと手で猪口を傾けてみせる。伊藤がにっかりと歯を見せて微笑んだ。

「こんな仕事柄、なかなか友人と呼べる人がいなくて。守屋さん、年も同じくらいだし。よかったら、今後ともよろしく」

「こちらこそ」

 ぺこぺことお互いに頭を下げるのを、染谷が奇異なものを見るような目で見ていた。

 奥背山寺にたどり着くと、先陣を切っていた時雨を遮って染谷が前に出る。

 森に囲まれているため真っ暗だと思っていたが、薬医門とそこから玄関へ続く飛び石沿いを灯りが照らしていた。時間帯か明暗に反応する感知式の電灯なのだろう。

「俺が先に行く」

「頼むよ、実はここにくるのは初めてでね。道案内がほしいと思ってたんだ」

「道案内じゃねぇ、護衛だ。そもそも、令状もないのに勝手に寺に入るのは立派な不法侵入だからな」

「不法侵入の先陣をありがとう」

「言い直せって意味でもねぇよ」

 染谷、時雨、伊藤に続いて卯月も奥背山寺の門をくぐる。少し歩いたところで何気なく後ろを振り返ると、貴一が門に手をついてぐったりと蹲っていた。

「先輩!」

 貴一に駆け寄る。暗がりでもわかるほど顔色が青く、すぐに時雨を呼んだ。

 時雨が貴一に尋ねる。

「どうしたんだい」

「……ここはよくない」

 それだけ言うと、貴一は目を閉じてしまった。濡れた地面にぐったりと腰をおろし、シャツを握り締める手は小刻みに震えている。

 卯月は信じられない思いだった。いつだって貴一からは、どこか余裕が感じられた。まさかこんなふうに、弱っている姿を見せるなんて。

「霊能力がゆえかな。明智くんはここで待っていて。卯月ちゃん、彼の傍に」

 時雨と刑事二人が本殿へ消えていく。

 卯月は貴一に声を掛けながら、彼を門の下へ促す。ここなら雨を防げるだろう。卯月も雨宿りしながら、貴一の傍にしゃがむ。そっと彼の額に手を当てると、その冷たさにぎょっとした。熱があるのならばわかるが、こんなに冷たいなんてあり得ない。

「先輩、あの」

「卯月くんだけでも、ここを離れろ」

「どうして――」

 言葉を飲み込み、硬直した。

 貴一の吐く息が白い。彼の髪に霜が降りていて、卯月は喉の奥で悲鳴をあげた。

「先輩、何が起きてるんですか。せ……先輩?」

 貴一が、凭れていた壁沿いに地面へ倒れてしまう。何度も呼び掛けるが、反応はない。卯月は携帯電話を取り出して、時雨にかけた。

 しかし電波が繋がらない。水縁が鐘楼のほうはまだ電波がいいと言っていたのを思い出して、卯月は庭を横断して鐘楼の傍へ駆け寄る。

 着信音が鳴り、時雨が電話に出た。

『卯月ちゃん、どうしたの』

「先輩が完全に意識を失っちゃったんです。具合も悪そうですし。もしよければ私が一度広場へ戻って助けを――」

 そこまで話したとき、視界の端で影が動いた。咄嗟に言葉を切りそちらを振り返る。貴一だ。寺の裏手へ続く道をよろよろと歩いていく。

 卯月は混乱した。つい今しがたまで、意識を飛ばしていた貴一がなぜここにいるのか。

『卯月ちゃん? 何かあったのかい』

「今、先輩が歩いていきました」

『意識が戻ったんだね』

「はい、目が覚めたみたいです。今、お寺の裏手へ向かっていきました」

『ということは、彼は一人なんだね。卯月ちゃん、明智くんを追いかけてくれるかい』

「わかりました。でも、どうしてあんなところに」

『大丈夫。追いかけテ。一人に……スルと……危険、ダカラ』

 電波が悪いようで、電話がぷつりと切れた。

 卯月は時雨に言われたように、貴一を追いかけた。

 寺の裏手は森との境目になっており、古びた祠があった。そのすぐ隣の茂みをかき分けながら、貴一が森へ入っていく。

「先輩、どこへ行くんですか」

 声をかけても、貴一は振り返らない。聞こえていないのだろうか。

 卯月も彼を追いかけようと茂みに入ろうとした。しかし、ふいに腕を引っ張られる。

 驚いて振り返るものの、そこには誰もいない。掴まれた感触の残る肘を押さえる。

「お兄ちゃん……?」

 もしかして、梅太がいるのだろうか。

 卯月にはもう梅太が見えない。田代から卯月の出生を聞いたあと、実の両親のことを信じたくないあまり、自分は双子ではないと強く思い込んだ時から。

 でも梅太はいた。貴一にも、卯月の知る姿そのものの梅太が見えたではないか。辺りを見回した卯月は、違和感を覚える。貴一はなぜこんなところに来たのだろうか。

 目についた祠を観察する。茶色の屋根がついた一抱えほどの大きさで、覗き込むと奥で仏像の影が揺れた。御神体だろうか。もしそうなら、貴一はこれを取りに来たのかもしれない。それならばなぜ、森の奥に入っていったのだろう。そもそもあれは――本当に、貴一だったのか。

 自分の考えに鳥肌が立つ。これ以上は自分が追いかけたところで、追いつけるかもわからない。ひとまず時雨と合流しよう。

 踵を返そうとしたとき、ふわりと頬を温かい風が撫でた。誰かに呼ばれた気がして視線を滑らせ、祠の向こうの人影に気づく。ぎょっとして息が止まった。

「お父さん……?」

 そこには、夢で見たものと同じ父の姿があった。ぼやけている箇所もあるが、あの後ろ姿は間違いなく父だ。

「お父さん。待って、行かないで」

 祠の隣――森に、足を踏み入れた。

 父の姿が鮮明になり、息を呑む。――この服装は、父のものではない。

 その男は、簡素な貫頭衣を纏っていた。K市の歴史を調べる際に、奈良時代の生活という図鑑に載っていた服そのものだ。

 目の前の男は父ではない。では、一体誰なのか。

 その答えにたどり着く前に、卯月の意識は闇のなかへと沈んでいった。

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