第四章【②】怨霊
冷たい風が吹いた。
空から落ちてきた雨粒が卯月の額に当たり、続けざまに空から雫が落ちてくる。
ザーッと雨が降り出して、雷が轟いた。
「大丈夫か」
貴一の声がした。背中に手のぬくもりを感じる。
顔を上げると、貴一が卯月の傍にしゃがみ込んでいた。雨に濡れた彼が心配そうに覗き込んでくる。
卯月は慌てて立ち上がろうとしたが、力が入らずによろけてしまう。
「ごめんなさい。みんなは……奥背山の人たちは、無事ですか」
「いったん集会場へ避難している。時雨いわく、警察がくるまで現場保存らしい。近くにいた者が、水縁の生首を直視して気分を悪くしたが、ほとんどの者がよく見えていなかったんだ。辺りが暗かったからな」
「何が起きたんですか。いきなり燃えて……あれって可燃物ですよね。なのに、黒い煙があがって嫌な臭いがして。それから水縁さんが」
焼けて、と言いかけて、再びこみ上げてきた吐き気を堪えきれず、地面へ顔を伏せる。すべて吐いていたため、胃液しか出ない。それでも吐き気は止まらず胃が痙攣した。
サイレンの音が近づいてくる。
強引に袖で口元をぬぐい、卯月は貴一の手を借りて立ち上がった。
「集会場で休め」
「いえ、私もできることがあれば手伝います。祭事はどうなったんですか」
「わからない。今から時雨に聞きにいくところだ」
「所長はどこに……?」
「被害確認と指示を出したあと、本部に電話をしてくると言って車のほうへ行った。あそこは電波が通じるらしい」
卯月は頷きながら時雨の姿を探した。そこへ消防車がやってきて、貴一が駆けていく。卯月も倣おうとしたが、数歩進んだところでよろけて足を止めた。
パトカーが滑るようにやってきて、助手席から染谷が下りてきた。彼は降りるなり顔をしかめ、袖口で鼻を押さえる。運転席からは伊藤が下りてきた。
電話を終えたらしい時雨が二人に駆け寄り、何かを話している。染谷が益々嫌な顔をして、伊藤が胸を張った。卯月も合流すると、時雨が早口に捲し立てた。
「本部からの命令で、私はすぐに御神体の確保に向かう。まだ水縁家の力が残っているうちに、入手しておかなければ見失うかもしれない」
見失うという意味がわからなかったが、時雨の様子から緊急性が伝わってきた。
「明智くんと刑事二人を連れていく。卯月ちゃんはここで休んでいて」
「私も行きます!」
ほとんど叫んでいた。
「気遣っていただいているのはわかってます。でも、私も行かせてください。もうへばったりしません、役に立ちますから」
時雨は何かを言いかけて、口をつぐんだ。
真っ直ぐに卯月を見つめ、思案するふうに眉を寄せている。
「ならば、私の言葉は絶対だ。命令違反は仲間の命を危険にさらす、それを忘れないで」
「はい」
時雨が踵を返し、先陣を切るように歩き出す。
卯月は彼女のあとに続き、すぐ隣に伊藤が並んだ。さらに向こうに不機嫌な顔をした染谷がいる。後ろを振り返ると、卯月の少し後ろに貴一の姿があった。その向こうで、消防車とパトカーが存在を主張し、慌ただしく捜査が始まったのを見た。
「お二人は捜査に参加されなくていいんですか」
「いいわけねぇだろうが」
染谷が答えた。
「強行班係だぞ。いの一番に駆けつけるのが当たり前だろうが」
「そうしたら、時雨さんに同行を頼まれたんです。私たち、時雨さんからの要請を最優先で受けるように命じられてるんですよ。これも仕事なので、お気になさらず。通報があった祭事の現場には他の刑事がいますから、そちらも心配ご無用です」
率直に話す伊藤に、卯月は微笑むに留めた。
「どうしていきなり奥背山寺に行く必要があるんだ。つか、俺は幽霊なんか信じねぇぞ」
「幽霊じゃなくて怨霊がいるんですよ、だって怨霊対策班なんですから」
「一緒だろうが」
二人のやり取りを聞いていた時雨が、つと視線を寄越す。
「御神体を保存するんだ」
「そんなもん、明日でもいいだろうが」
「今じゃなければ駄目なんだ。御神体が紛失すれば、怨霊への対処がより難しくなる」
「紛失? 泥棒でも入るってか」
揶揄する染谷の言葉を聞き流し、時雨が続ける。
「怨霊は、死ぬ間際の恨みに縛られる傾向にある。始祖は千年の時を超えて尚、復讐を続けているのかも知れない」
「じゃあやっぱり、連続少女失踪事件もその関係で起きたんですね」
卯月が尋ねると、染谷と伊藤がぎょっとした。
「そりゃどういうことだ。怨霊が関係してるのは宝田杏花が殺害された事件だろう」
「そっちは関係ないかな。ちょっと趣味で調べたくらいで」
「はぁ!? じゃあ、なんのために俺は刑務所まで出向いたんだっ」
目くじらを立てる染谷を無視して、時雨は話を続けた。
「例えば、奥背山の怨霊であるカミ様は、式役檀家の女に恨みがあった。だから、式役檀家の血筋の娘を攫っているという仮説が成り立つ。実際に過去の記録や現在進行形の事件を見ても、被害者は若い女性ばかりだ。……そして、必ず祭事が滞った際に失踪者が出ている」
卯月が頷く。それはすでに聞いていたことだ。
「これまでは、祭事を再開すればカミ様の祟りは落ち着いたんだ。だが今回は違った」
「祭事のない期間が長くて、怨霊が力をつけたんじゃないか」
言ったのは貴一だ。
「たとえそうでも、祭事を断る理由なんかない。祭事はあくまで神として崇めるための儀式であって、悪しき者を封印する行為じゃない。怨霊にとって望むところのはずなんだ」
「不名誉な死が、彼らを怨霊にした経緯があるからですね」
卯月の言葉に、時雨が頷く。
名誉の回復と圧倒的な崇拝、神として祀る行為こそ、怨霊対策でもっとも有効な手段に違いない。しかし奥背山の怨霊であるカミ様はそれを拒絶した。神格化されることよりも、怨霊であり続けることを望んだということだ。だが、なぜ。
「もしかして、奥背山のカミ様は怨霊じゃなかった……?」
「いや、これまでの調査から考えても怨霊で間違いない。考えられる可能性は一つ。奥背山の怨霊には、明確な意思と知能があるんだ」
卯月は息を詰めた。
「若い怨霊にはあることだ。だが、二百年以上の時を経た古の怨霊には、もはや、恨みつらみといった『感情』しか残らない」
ぞくりと悪寒を覚えた。
奥背山の怨霊は、古の怨霊でありながらも明確な意思と知能を持つというのか。それが想定外の事態を招き、水縁を死へ追いやったのか。
水縁の燃え盛る姿を思い出し、卯月は自分の体を抱きしめた。
本能的に梅太がいつもいた左後方を振り仰ぐ。そこには貴一がいて、そっと卯月の背中を支えてくれた。
「怨霊の意思や知能を警戒して、御神体の紛失を危惧しているということだな」
貴一がまとめ、時雨が「ああ」と頷いた。
「もし御神体を紛失すれば、どうなるんだ」
尋ねたのは染谷だ。怨霊の話を少しは信じる気になったのか、その声音は硬い。
「御神体は怨霊の核だ。凶悪犯を逃がしたと思えばいい。……犠牲は際限なく増える」
時雨の言葉に、その場にいる皆が息を呑んだ。




