第四章【①】怨霊
歩くたびに軋む廊下を通り、台所のシンクでコップを軽くすすぐ。
麦茶で喉を潤して気分を変えようとしたが、未だ卯月の感情は奇妙な高揚感に支配されていた。またあの夢を見た。卯月が父を求める夢だ。
暗闇のなかに立つ父はぼんやりとしていて、必死に手を伸ばしても届かない。なぜならば、後ろから梅太が引き留めているから。
しかし今朝の夢では、以前より父との距離が近くなっていた。もう少しで手が届く。卯月は父に会えるのだ。
ため息と共に興奮した気持ちが冷め、罪悪感が心を覆う。
卯月はもう、古坂部を父親として慕うのをやめたいのだ。あれから時雨は何事もなかったかのように接してくれる。だからこそ期待に応えたい。
ぼんやりとした薄墨のような明るさが、徐々に橙の朝日を帯びていく。
卯月は朝食を菓子パンで済ませると、動きやすい服装に着替えた。
昨日から、卯月と貴一は祭事の準備を手伝っている。本番は今日の夕方だ。それまでに祭壇の組み立てや移動、物品の配置を終えなければならない。開始までには時雨もやってくるという。
卯月にできることは僅かかもしれないが、せめて最後までやり遂げよう。懐中電灯をポシェットに押し込み、玄関で運動靴を履く。
ふと、上がり框にある小さな傷に目が留まった。
この傷は、前の家主の孫――神田千里が不注意でつけてしまったものだ。享年五歳の彼女は、祖父母が暮らすこの家が大好きだった。
――僕は僕だ。それなりに歳をくってしまったが、今からでもやりたいことを見つけると決めた。
貴一の言葉を思い出して、目を伏せる。奥背山に越してきた理由はただ一つ。神田千里の望みを、彼女の血肉を持つ卯月が叶えようと思ったから。
卯月はゆっくりと立ち上がり、自宅を出た。
*
卯月は懐中電灯で祭壇の品を順番に照らし、あらかじめ貰っていた配置図と照らし合わせていく。時刻は午後六時前。空は薄曇りで、遠くで雷が鳴っている。
集会場前の広場、その北側に用意された祭壇を見つめた。
祭壇には三方が設置されて、果実や野菜、酒、干し柿といった神饌が豊富に供えてあり、その向こうには御幣と榊、神鏡が並ぶ。それらを正面にして、分厚い紫色の座布団が敷いてあった。神主が行う神事のようだ。
「卯月ちゃん」
聞き覚えのある軽やかな声に、パッと振り返る。
「所長。よかった、間に合ったんですね」
時雨が軽く手をあげてこちらに歩いてくる。広場の入り口から少し離れたところに、いつものワゴン車が止めてあった。
「お疲れ様、準備大変だっただろう」
「先輩は今も向こうで手伝っていますよ。私はこの最終確認で終わりです」
集会場を示すと時雨はちらりと見ただけで、視線を祭壇に向けた。
「神仏習合が顕著だ。時代の流れとともに変化したんだろう」
「独自の風習って感じがします」
卯月の言葉に時雨が頷く。
「いくつか写真を送ってくれたおかげで、本部への報告もスムーズに終わったよ。じつは祭事に同行してもらえる霊能者を要請したんだけど、人員不足で却下されてしまった」
なぜ霊能者が必要なのだろう。嫌な想像をしてしまい、卯月は声をひそめた。
「もしかして何か不安要素があるんですか」
以前に見た山火事の資料を思い出す。不安に駆られる卯月に、時雨が苦笑した。
「祭事は除霊じゃないよ。この地の霊を敬って鎮める儀式だ」
どうやら顔に出ていたらしい。時雨は安心させるよう、表情を緩めて続ける。
「怨霊側からすれば、拒否する理由がない。無実の罪を着せられた彼らにとって、名誉を取り戻すことは望むことだから。霊能者に同行を求めたのは、水縁家の祭事をその目で見てほしかったんだ。組織の管理下に置くためにも、伝統を引き継いでほしいからね」
「そうでしたか」
ほっと胸を撫でおろす。
そこに手伝いを終えた貴一がやってきた。彼は貴重な男手として力仕事を任されていたため、疲れた表情をしている。
「お疲れ、明智くん。車のなかにあるカメラを設置してくれるかな」
鍵を受け取ると、貴一がおとなしくワゴン車へ向かう。手伝おうとその後ろを追いかけようとしたところで、声を掛けられた。
「卯月ちゃん、手伝ってくれて助かったわ。そちらが例の上司なんかな」
「水縁さん! わぁ、かっこいいですね」
紫の袈裟を纏った水縁は、右手に大幣を、左手にペットボトルのお茶を持っていた。彼がいつも纏っている袈裟とは異なる立派なデザインの服装に、卯月は喜色を浮かべる。
水縁は照れたように微笑むと、視線を時雨に向ける。
「失踪事件について教えてくれたこと、礼を言いますわ。代々水縁が鎮めてきたカミ様や。わしが最後まで、責任を持つ」
「組織は怨霊を管轄するのが役目です、あなたの後任はお任せください」
時雨が言うと、水縁が目を細めた。
「ほんまにそんな組織があるんやなぁ。もっと早う知っとったら、こないなことにならんかったやろうに」
「今我々が相まみえたこと、それも定めなのでしょう。真理に偶然はありませんから」
「わしが世継ぎに恵まれへんかったんも、奥背山の過疎化が進んだんも、全部定めか。なんや、切ないなぁ」
水縁の静かな双眸が、祭壇へと向く。
ふと、卯月は気になっていたことを尋ねた。
「柿って、奥背山にとって特別なんですか?」
「悪いものを寄せ付けんようにしとるんやわ。魔除けやな」
そう静かに頷く水縁に、卯月は息を呑んだ。
深呼吸をした彼がゆっくりと祭壇へあがり、座布団に腰を下ろした。休憩していた者や祭事を見るためにやってきた住民たちが、祭壇のほうへ集まってくる。卯月と時雨は、貴一がいるカメラの方へ向かう。設置されたカメラは正面に一つと、祭壇の左後方に一つ。合計二台だ。
土曜日だからか、広場には多くの奥背山の住人がいた。
手拭いを肩にかけ、うちわでぱたぱたと自身を仰ぐ人々のなかに、西尾の姿があった。知り合いと談笑している彼女の笑顔がいつも通りで、卯月の心は穏やかに解けていく。
いつの間にか緊張していたようで、そっと胸に手を当てて深呼吸をした。
水縁が木魚を叩いた。途端に静寂が広場に降りる。水縁はすぐに手を止め、大幣を大きく左右に振りながら読経を唱え始めた。般若心経といった聞き覚えのある内容ではない。一体何を唱えているのだろう。時雨を見ると、彼女は目を細めて水縁を眺めていた。どことなく感心している様子が伝わってくる。
神聖な空気が、水縁がいる場所から辺りへ広がっていくような心地がした。
水縁の声が高く伸びていく。心まで綺麗になるような清々しさにうっとりしていると、ふいに貴一が呟いた。
「おかしいな」
貴一はカメラをいじっている。
「どうしたんですか」
「動かなくなった。強制終了もできない」
住民たちの間にどよめきが走った。咄嗟に振り向くと、祭壇の奥で火がちらついている。目を凝らせば、燃えているのは榊の紙垂のようだ。
紙垂の火は少しずつ燃え広がり、やがて完全に焼失する。すると、今度は生木であるはずの榊が一気に燃え、間もなく御幣も火に包まれる。さらに、神饌のなかからも火の手があがる。火が広がったわけではない。すべて個別に出火したのだ。
黒煙が上がり、公園全体に不燃物を燃やしたとき独特の臭いが広がる。同時に硫黄のような鼻の奥を刺すような臭いがどこからともなく漂ってきた。何が起きているのだろうか。卯月は咄嗟に時雨を見たが、彼女は驚愕に目を見張っている。
ぞわりと鳥肌が立ち、両腕で自分の体を抱きしめた。
住民が水縁に祭壇から離れるよう声を掛けた。しかし彼は読経を唱えるのを止めない。まるで炎に対向するかのように声をより張り上げ、大幣を力強く振る。
火が弱まっていき、広場全体に安堵の空気が広がった。次の瞬間、ぼうっと音を立てて祭壇すべてが炎に包まれた。
御幣や榊だけではない。棚も、供物も、鏡も、そして水縁自身も。
水縁はまだ読経を止めない。火だるまになりながらも身動き一つしない水縁の姿からは、執念すら感じる。人を焼く、生臭い腐臭が広がり始めたとき。
パリン、と神鏡が割れた。
水縁の声は次第に聞こえなくなり、ついに止まってしまう。
あちこちから悲鳴があがり、我に返った時雨が勢いよく走りだす。彼女が消火と消防署への通報を強く命じたことで、阿鼻叫喚となっていた広場の人々も、水縁の救出に動き始める。傍にいたはずの貴一が、消火器を抱えて走って行く。
水縁に向けて消火器を噴射したとき。
――ドン。
一度、強い横揺れが起きた。住民らが、ヒッと悲鳴をあげてその場に伏せる。まるで誰かに強制されたかのように誰一人としてその場から動かず、じっと様子を窺っていた。
ちろちろと舐めるような火の手が残っているものの、ほとんどの火は消火活動のおかげで消えていた。だが、水縁がいない。彼がいたはずの座布団からボールがごろんと転がり、重さを伴って地面に叩きつけられた。
――燃えて真っ黒になった水縁の首だった。
「体、どこいったんや」
張りつめた静寂のなか、誰かが呟いた。
水縁の体がないことに人々が戦慄する。時雨が水縁の首に駆け寄る。痛ましく顔をしかめ、懐から取り出した白いハンカチを水縁の首にかけた。
卯月はそれら一連の流れを、ぼんやりと見ていた。遠いところで、人々の混乱するざわめきを聞く。
時雨や貴一を手伝いたい。お世話になっている奥背山の皆の役に立ちたい。一歩足を踏み出したところで、卯月はがくりと地面に頽れた。力が入らない。鼻の奥に腐臭がこびりついている。呼吸をのたびに死臭を取り込むようで、卯月は耐えきれずに嘔吐した。
なぜ、水縁がこんな惨い目に遭わなければならないのか。
悪い夢だ。いつものどうしようもない、卯月が被害者になり替わる夢。覚めたら水縁はいつも通り奥背山寺にいて、おっとりと微笑んで話を聞いてくれるのだ。




