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第三章【⑦】守屋卯月

「それが私、守屋卯月です」

 時雨は呆然とその場に立ち尽くしていた。何を言われたのか理解しきれない、そんな様子だ。やがて、時雨がぽつりという。

「古坂部は、アントロポファジーだったのか」

 アントロポファジーとは、人肉嗜食のことだ。俗にいうカニバリズムが宗教的意味合いでの食人を示すのに対し、飢餓を満たすための行為のことをいう。

「卯月ちゃんは、田代権蔵が殺害されたことを知ってるかい?」

「入院中にニュースで見ました。河川敷で見つかったとか」

 死因は刺殺で、所持品のいくつかが無くなっていたという。卯月自身驚いたので、当時のニュースをよく覚えている。

「私が卯月ちゃんのことを知ったのは、田代が理由なんだ」

「田代が、ですか」

「私が強行班係にいた頃、彼の殺人事件の担当になったんだよ。それで、田代が『古坂部事件』について調べ続けていることを知ったんだ」

 時雨は卯月に椅子を勧めると、自分の椅子を持ってきて卯月と向きあうように座る。卯月も彼女に倣った。

「咲良のことを知りたくて警察に入ったけど、警察が持つ情報はそれほど多くなかったんだ。古坂部本人よりもミヨがいた孤児院の捜査に時間を費やしたらしい。被疑者死亡だから、どうしようもないって理由でね。私は困ったよ。ミヨに聞くことを思いついたときには、すでに彼女は医療少年院を出ていて、その後の足取りがわからなくなっていた」

「そこに、田代の事件が起きたんですね」

 時雨が頷く。

「ところがその後、田代の古坂部事件に関する資料が盗難にあったんだ。自宅のパソコンも含めて」

 ふとある可能性を考える。

「それって、ミヨが田代を殺害して過去の事件の隠ぺいを図った、ってことですか」

「いや、犯人は別にいるしすでに捕まってる。田代はジャーナリストとしてかなりあくどいことをしていた。彼を殺害したのは、強姦殺人未遂事件の被害者の父親だ。娘にしつこく取材をした挙げ句自殺未遂に追い込んだらしい。記事にするなと直談判に行った先で口論になり、殺害したと」

 卯月は眉をひそめた。

「ミヨは田代をつけてたんだと思う。卯月ちゃんに接近した田代を見張ってた、というほうが正しいかな。そんなとき、田代が殺害された。ミヨは彼の持つ古坂部事件に関する資料を全部持ち去ったんだ。古坂部の遺体は、河川敷で発見されている。人が通らない場所だし、殺害した張本人もなぜ遺体が河川敷にあったのかわからないそうだ。ミヨが、遺体発見を遅らせるために移動したんだろう」

 古坂部事件の資料を盗むため間の時間稼ぎといったところだね、と時雨が言う。

 時系列から考えても、ミヨが田代の存在に気づいたのは、田代が卯月に接触したあとだ。ならば、ミヨはあの頃、卯月の近くにいたと考えるのが妥当だ。

「所長は、ミヨに接近するために私を雇ったんですね。合点がいきました」

 時雨が微笑んだ。窓から陽光が差し込む。いつの間にか雨はあがり、青空が広がっていた。

「私には卯月ちゃんの気持ちはわからない。けれど、卯月ちゃんがとても好きだよ。それだけは事実だ」

 時雨が卯月へ手を差し出す。

「古坂部の写真、持っているね」

 卯月は頷いて、時雨の資料から持ち出した古坂部の写真を渡す。

 卯月は、体に流れる犯罪者の血に嫌悪を抱いた。けれど、自分でも意識していない部分で、嬉しくもあったのだ。孤児として両親を知らず、血縁者の一人もいない。誰にも見えない兄の存在だけに縋って生きてきた卯月にも、血のつながった家族がいたのだと。

 子どもの頃から人気者で、秀才と言われ、医者として慕われていた父。

 その事実は、ずっと寂しかった卯月の心の一部を埋めてくれた。

 もっともそれは、古坂部本人を知らないからこそできた理想の押し付けに過ぎない。卯月自身もよく理解している。しかし妄想はどこまでも美しく、卯月のなかで広がった理想的な古坂部悠二の父親像は、今の卯月にとってなくてはならない心の支えとなっていた。

 古坂部悠二に対する決して手放せない愛情。

 人を殺害し食していた古坂部悠二に対する嫌悪と憎悪。

 卯月はそれらがないまぜになった気持ちを抱えたまま、明確な在り方を決めることができずにいる。

 時雨は、古坂部悠二の写真にピリッと切れ目を入れた。

 腰を浮かせる卯月を時雨が視線で制する。

「おそらく、ミヨは卯月ちゃんを愛している。だから、見守るために近くにいるんだ。きみは母親に望まれて生まれ、そして愛されている。血のつながりを重視するなら、大切にしてくれる人を心の拠り所にしたほうがいい」

 心が凍りついたようだった。

 ミヨは一度も卯月の前に姿を現さないじゃないか。ネットにだってミヨの情報はほとんどない。本当に卯月を見守っているのかすら確かじゃない。

 時雨が写真をさらに破っていく。

「やめ――」

「気圧で頭痛がするんだが、薬を持ってないか」

 勢いよくドアが開き、貴一が入ってきた。

 彼はなんとも言えない顔で動きを止め、時雨と卯月を交互に見る。

「何をしてるんだ」

「女同士の秘密。入ってくるときはノックが欲しいね」

 時雨はいつも通り飄々とした笑みを浮かべると、破いた写真をシュレッダーにかけてデスクの引き出しをひく。貴一は時雨から薬を受け取ると、卯月に視線をやった。

「具合が悪そうだが」

「まぁ、込み合った話をしてたからさ」

 時雨が答えた。貴一が、本当なのかと言うように視線を向けてくる。頷くと、彼は眉をひそめながらも部屋を出て行った。

 彼の足音が離れていくのを聞いてから、時雨の前に立ち、頭をさげた。

「ありがとうございます」

 話を聞いてくれて。信じてくれて。温かい言葉をくれて。……邪険にしたり、嫌悪したりせず、真っ向から卯月を見てくれて。

 時雨はにっこり微笑むと、軽く手をあげた。

「こちらこそ」

 お互いそれ以上言葉は交わさなかった。引っ張り出した椅子を持ってデスクに戻る。卯月は貴一が去ったドアを見つめた。

 貴一がこなかったら、時雨に対して「やめて」と叫んでいただろう。卯月のなかに居座っている『理想の父親』は根深い。時雨にすら八つ当たりをしてしまうほどに。

 貴一は本当に、頭痛が理由で飛び込んできたのだろうか。話を聞いていて、わざとあのタイミングで入ってきてくれたのかもしれない。

 そんな都合のいい解釈を唾棄する。犯罪者の娘が、被害者遺族に対して抱いていい願望ではないし、理解されようなんて思ってはならない。

 ――お母さんはいつも優しい。そんな人、おらんのに。

 梅原の言葉が蘇る。彼は卯月自身だ。時雨はそのことに気づいて、あえて卯月と梅原を引き合わせたのだろう。卯月を間違った道へ進ませないために。

 ――血のつながりを重視するなら、大切にしてくれる人を心の拠り所にしたほうがいい。

 彼女の言葉は正しい。卯月は静かに目を伏せた。


 ◆◇◆


 その足音は、明らかにミヨのものではなかった。

 檻の中にいるので必ず見つかるにもかかわらず、息を殺して硬直する私は滑稽だ。

 ドアがゆっくりとひらく。

 暗い部屋から明るい外の様子はよく見えた。背の高い男がいた。

 ラフなジーンズパンツとカーキ色のシャツを着ているだけにも関わらず、圧倒的な存在感を放っている。

 ――気味が悪い。

 男は彫像のような美貌に薄らとした笑みを浮かべている。目がまったく笑っていないのが、ここからでも見て取れた。

 男はドアを大きく開き、部屋全体に廊下の明かりが差し込むようにした。

 部屋の明かりはつけず、真っ直ぐ私のほうへ歩いてくる。私を見る男の目が、赤く輝いていた。

 男は満足そうに双眸を歪めながら身を屈めた。

「元気そうで何よりだ。さすが私のミヨは優秀だね」

 ミヨ。咄嗟に顔をあげた私を見て、男は口の端を歪めた。

「お前が、私のミヨを誑かしたんだね」

 その瞬間、私のなかの恐怖が怒りへ塗り替えられた。

「あんたが、ミヨを洗脳してるんでしょ」

「彼女は自ら私の側にいるんだ。私たちはお互いに愛し合っているのだから、他人であるお前が口を挟むことではないよ」

「ふざけんなロリコン野郎。攫ったあたしの面倒をみさせるなんて、ミヨを犯罪に巻き込んでるじゃんか。そんなの、都合のいいように使ってるだけだろ!」

「口の悪い子だね」

 男はそう言っておかしそうに笑う。

 ふと気づく。なぜこの男がここに来たのだろう。

 それに私がミヨを誑かしたことを――実際は違うとしても、どうして知っているのか。

 私の疑問を察したらしく、男が目を細めた。

「ミヨがね、お前を逃がしてほしいと私に頼んできたんだ。初めてのことだから、私も困惑してしまってね。こうして様子を見に来たんだよ」

 ずい、と男が顔を近づけてくる。

 牢の鉄柵のすぐ向こうから、男の真っ赤な両目が私を凝視した。

「お前を逃がしてあげよう」

「……は?」

「ただし、条件がある。ここで起きたことを、ミヨのことも含めてすべて忘れるんだ。決して誰にも口外しない、それが条件だ」

 逃げられる。殺されるのを待つだけの日々から。悪魔のような男から。

 甘い誘惑に、私はすぐにでも頷きそうになる。ミヨのことを忘れるだけで、生還できるのだ。自分の命のほうが重要じゃないか。

 やがて私は、ある考えにたどり着く。私が攫われてから一か月は経過している。にも拘わらず誰も助けにこないということは、私がここにいることを誰も知らないのだ。

 それだけ用意周到に、塵ほども自分の犯行のあとを残さないようにしているのだろう。

 果たして、そんな男が口約束だけで私を逃がすだろうか。

 ――ありえない。

 結論が出るなり、男を睨みつけていた。

「嘘だ。私を逃がすなんてありえない」

 途端に男は声をあげて笑う。

「なかなか頭がいい子だ。その通り、逃がすつもりなんかさらさらない。どちらを選択しても今ここで殺してやるつもりだったんだけど、勿体ないから止めておこう。前の分がまだ残っているから、お前はここで順番を待つがいい」

「お前に殺されるくらいなら、舌を噛んで死んでやる」

「おや。どうしてここに連れてこられたか、ミヨから聞いていないのかな」

 どういう意味だ。慈悲すら感じる優しげな笑みで、男はそれを口にした。

「お前たちは私の食糧として、ここにいる」

 言葉の意味が理解できず、私は男の言葉を繰り返した。

「食糧、って」

「私は美食家でね。若い肉は、柔らかくていい」

 舌舐めずりの音が聞こえた気がして、息を詰める。

「心配しなくても、お前は味がよかった。血肉の一つも無駄にしないさ。骨は出汁をとったあと捨てるけれどね」

 戦慄した。男の言いたいことを理解した瞬間、これまで自分の身に起きたことがすべて、線で繋がる。最初に切り落とされた左手は、味見だったのだ。

 真っ暗闇とはいえ過ごしやすい部屋、手厚い治療。そして食事。これらは、家畜を飼育するための設備に過ぎない。

「悠二さん」

 か細い声が、部屋の外から聞こえた。

 ゆっくりと階段を下りてくる足音が近づいてきて、ミヨが姿を現す。不安そうなミヨを見た男が、にこやかな笑みで彼女のもとへ寄ると、スマートな所作で腰へ手を回す。

「無理はいけないよ、ミヨ。ここには悪い虫がいるから」

「虫?」

「そう、刺されたら毒がまわってしまう」

 ミヨはきょとんとした顔をした。

「悠二さんが治してくれるんでしょう、優秀なお医者さんだもの」

 途端に男が嬉しそうに声をあげて笑う。

「その通りだ。だが、こちらばかりはそうもいかない」

 悠二がミヨの腰を抱いている腕とは反対の手で、ミヨの腹を撫でる。

「大切な体なのだからね」

 息を呑む。

 ミヨが、『いけない』といった理由がわかった。

 ミヨが気遣わしそうに私へ視線をやる。それを遮るようにドアが閉まり、再び部屋に闇が降りた。遠ざかっていく足音を聞きながら、私は唇を噛む。

 ――お前たちは私の食糧として、ここにいる。

 たち、というのは私の過去にいた者たちを示しているのだろうか。まさか、ミヨのことを含めているのか。クソ野郎。怒りで頭が沸騰していた。私はこのまま死ぬ。あんなクソみたいな男に殺される。

 怒りが振り切って、唐突に力が抜けた。ふ、と笑みが浮かぶ。こんなところから逃げ出してやる。それが無理だとしても、ただで死んでなどやらない。

 怯えて順番を待つなんて、私の性分には合わない。

 最後まで、やりたいようにやる。


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