第三章【①】守屋卯月
「ねぇ、あんた好きな食べ物ってある?」
食事のトレーを差し込むミヨに訪ねると、彼女は久しぶりに視線を私へ向けた。
名前を聞き出せたから、簡単に彼女を懐柔できるだろうと踏んだのだが、そう甘くなかった。助けを求めても、怒っても、ミヨは無反応を貫いた。反応しないようにしているというよりも、彼女は私に興味がないらしい。だから、質問の方向性を変えたのだ。
「ミヨ、って呼び捨てで呼ぶね。ミヨは、何を食べるのが好きなの?」
「わからない。私が好きなのは、悠二さんだけだから」
悠二。初めて聞く名前だ。もしかしたら、私を閉じ込めた犯人だろうか。
腕力から考えて、ミヨが私を閉じ込めたとは考えにくい。だからおそらく、ミヨの背後に主犯格だろう人物がいる予想はしていた。問い詰めたいのをぐっと堪える。
「その人のことが好きなの?」
「そう」
「どこがいいのか教えてよ。恋バナしよ」
「どこがいい……?」
「うん。どこが好きなの?」
ミヨは無表情のまま、視線を床でとめる。ミヨの思考がぐるぐると動いているのが手に取るようにわかった。
「悠二さんは、私を側においてくれる」
「へぇ。一緒に暮らしてるってこと?」
ミヨが頷く。
「ねぇねぇ、それでどんなところが好きなの。焦らさないで教えてよ」
「側においてくれるところ」
彼女の言葉は予想外のものだった。先程の返事は答えそのものだったのだ。
好きだから側にいる、じゃなくて、側においてくれるから好き。
言葉尻を捉えるようだが、その差はかなり違うように思う。
もしかして、と私はある考えに至った。
――ミヨも同じように、悠二という男に捕らえられた身なのではないか。
ミヨの無表情ぶりや切断された左手を診るときの手際の良さは、年齢にそぐわない。
「それって、本当に好きってことなの」
思わずつぶやいてから後悔した。ミヨが勢いよく振り向いたからだ。
会話の失敗を悟る。自分から聞いておいて彼女の言葉を否定した。もし私が恋人のことを聞かれて話したとして、それを疑われたら苛立つから。
だがミヨは、きょとんとした顔で私を見ていた。その顔にはあどけなさが残っている。
「そう悠二さんが言ってたから」
「待って、悠二さんって人が言ってたって、どういうこと?」
「『ミヨは本当に私のことが好きだね』って教えてくれる」
やっぱりおかしい。しかし指摘するにはまだ早い。もっとミヨと仲良くなってからだ。
「具体的に好きな部分はないの? 顔とか、仕草とか。ほら、初恋を思い出してみてよ。足が速い同級生に惚れたりしたでしょ」
「学校なら、行ったことがないから知らないの」
ミヨも幽閉されているのだろうか。そんな考えが脳裏を過る。
「そっか。理由はそれぞれだけど、ミヨはどうして学校に行かなかったのさ」
「悠二さんが必要ないって。それに私は悠二さんが帰ってくるのを準備をして待っている必要があるの。それが私にとっての幸せでもあるから」
ミヨは、悠二に洗脳されているのだ。
彼女に危険を冒させるわけにはいかない。一緒に逃げる方向で話を進めないと。
「ねぇミヨ。あたし、咲良っていうの。友達になってほしい」
ミヨの大きな目が、こぼれそうなほど見開かれる。
「ともだち」
片言のように繰り返すミヨに、頷く。
「そう、友達」
「友達」
ミヨは今度は口の中で繰り返すと、そっとはにかんだ。
自然と頬が緩んでしまったというような砂糖菓子みたいに甘く脆い笑みが、私の心を締めつけた。咄嗟に抱き寄せたくなったが、牢獄のなかにいる今の私では、叶わない。
「友達、はじめて」
嬉しそうなミヨを見て、静かに拳を握りしめる。守ってあげたい。そう思わせるものが彼女にはあった。
◆◇◆
アスファルトから立ち上る熱気が、蜃気楼のように揺れている。
まだ午前中だというのに、この暑さだ。テレビでは食中毒を取り上げることも多くなり、いつものスーパーでも安全管理がより厳しくなっている印象を受ける。
「暑い」
縁の大きな帽子を被っているが、陽光から守られているのは顔だけだ。紫外線に至っては素通りだろうし、果たして日焼け止めでどれだけ食い止められているかも疑問である。
卯月の顔面に、勢いよく水が噴射された。
咄嗟に顔を背けて両手で抑えると、水が頬や顎を伝ってシャツを濡らす。
「もう、何するんですか!」
「暑いというから」
貴一はホースの引き金部分を握っている。
「暑い暑いと言っていると、本当に暑くなるぞ」
そう言いながら貴一はホースの水をシャワーに切り替えて、社用車にかけた。
今日の午前中は、事務所の備品確認と洗車の予定となっている。それというのも、時雨が午前中いっぱいかけて古文書の解読を頼んでいた業者から結果を回収してくるからだ。
彼女が戻ってきてから、古文書の解読結果を元にすぐ行動を起こせるよう、万全を期すためだった。
卯月はポシェットが濡れていることに気づいて、慌てて中身を確認しながら貴一をちらりとねめつけた。
「先輩こそ、何を言ってるかわかりません。すでに暑いじゃないですか」
「そうだ、きみが暑い暑いというからだ。だから、暑くもないのに暑いと……いや、すでに暑いから暑いというのか」
「なんだか、先輩のほうが暑いって連呼してませんか」
どうやらポシェットのなかは浸水していないようで、ほっとする。防水仕様のものを買っておいてよかった。表面のビニール部分を拭くためにハンカチを取り出したとき、携帯電話が点滅していることに気づく。
何気なく取り出すと、里中理恵からのメールだった。
「あ、先輩。麻衣ちゃん、無事に就職できたそうですよ」
「誰だ」
「私の初仕事のとき、出会った家出少女です」
貴一はぼんやりしながら、ああと曖昧に頷く。暑さで思考が回らないのかもしれない。
『それから、頼まれていた例の件ですけど、わかったことを報告します』
続く内容に、卯月は目を細めた。
無意味に貴一が水をかけてくることを想定し、「ちょっとすみません」と断りを入れて背中を向ける。携帯電話が高熱になりつつあるので、卯月自身を盾にしてその影で続きを見る。卯月は理恵に、杏花について調べて貰っていたのだ。
『宝田さんは、当時結構遊んでいたみたいです』
目に飛び込んできた最初の文に、卯月は目を見張る。素朴で化粧すらほとんどしていなかった杏花は、公造同様に真面目な性分だという印象があった。
暑さのせいだけではない、嫌な汗が流れる。卯月は呼吸を整えながら、続きに視線を向けた。
『遊んでいた、っていうのは、ゲーセンやカラオケ、合コンなどです。当時、宝田さんと付き合いのあった同級生複数人から聞いたので、間違いありません。だから、あの頃は毎日帰宅が遅くなっていたみたいです。それから、進路に悩んでいたということです』
悩みに関しては、卯月から調べてほしいと指定した項目の一つだ。何かに悩んで鬱屈としていたから梅原につい暴言を吐き、それが梅原の逆鱗に触れた。もしそうならば、その元凶となった悩みとは一体何だったのか、知りたいと思った。
だが理恵の調査をもってしても、杏花の悩みは進路以外にわからなかったらしい。画面をスクロールすると、さらに文章が続いていた。
『あと、宝田さんがよく『あの事故のせい』と聞きました』
――あの事故。
画面を握る手に汗がにじむ。清潔なシーツに横たわる杏花の姿が脳裏に蘇る。
「どうした」
ひょいと貴一が覗き込んできた。説明するのも億劫で、携帯電話の画面を見せる。
「里中さんに、杏花ちゃんのことを調べて貰ってたんです」
頼んだとき、理恵は嬉々として引き受けてくれた。彼女は麻衣のことで卯月たちに恩を感じており、役に立てることならなんでもやると言ってくれたのである。
それが、奥背山に初調査に向かった日だ。七月半ばの今頃までかかったのは、卒業した同級生たちの足取りを掴むのに苦労したからだという。
「あの事故、ってなんのことだ」
「杏花ちゃんが殺害される一年前、彼女、事故に遭ったんです。学校帰りに、車道に飛び出た子どもを庇って大怪我をして。大きな手術の末に命は助かったんですけど、足に後遺症が残ったんです。だから、少し足を引きずるような歩き方をしていました。雨の日は痛みもあるとかで、頓服を持ち歩くようになって」
当時の記憶を手繰る。見舞いに病院へ行くと、杏花は変わらず笑顔だった。
『いやぁ、子どもが助かってよかったよ。あたしじゃなかったら、これだけの怪我では済まなかったかもだしね』
屈託なく笑う杏花に、卯月はほっとしたのだ。しかし今思えば、あれは杏花の本心だったのだろうか。卯月を安心させるために無理やり笑顔を見せただけではないのか。
卯月は、杏花のポジティブな面しか知らない。聖人君子ではないのだから、杏花にだって喜怒哀楽があるのに。悲しくてたまらないことだってあるのに。
「もっと、寄り添ってあげていればよかった」
呟いた声に悔恨が滲んでいた。そのことに気づいて、卯月は唇を噛む。
杏花が入院していた頃、彼女の母が毎日のように病院へ通っていた。そのことで安心し、卯月自身は数えるほどしか見舞いに行かなかったのだ。
越してきて間もない時期だったため、何かと多忙だったのだ。だが今思うとそんな用事など、なんとでもできただろう。
ぽんぽん、と頭を軽く叩かれる。貴一が慰めてくれているのだ。
「すみません、大丈夫です」
携帯電話を受け取って、慌てて顔を上げる。途端に水がぼたぼたと顔に落ちてきた。だが、貴一はホースを持つ手を下げたままだ。
顔に落ちてきたのは、貴一の滝汗だった。顔は赤く、視線はぼうっとしている。
「水、水を飲んでくださいっ、それから休んで……っ!」
ふらふらとする貴一をなんとか事務所へ連れていき、水を飲ませて、保冷剤で脇と首筋を冷やす。
「もしかして、体調不良とか言い出せないタイプ?」
ぐったりしている貴一を見やり、卯月はそんなことを呟いた。
洗車は概ね終わっているので、後片付けだけしてこよう。そう思って踵を返そうとしたとき、強く袖を引かれた。
貴一はぐったりしたままだ。意識があるのかないのかわからない。
「……咲良」
貴一の呟きに、声をかけようとした言葉を飲み込んだ。
――僕にもドラマがあってな。この資料がここにあるのを見て、もしかしたら、今なお舞台に上がっているんじゃないかと思った。
あの言葉は、時雨への疑惑について示唆していた。
貴一もまたこう考えたのだ。自分がスカウトされたのは、霊能力者云々ではなく他に理由があるのではないか。その理由とは古坂部事件に紐づくものなのではないか、と。
ふと、貴一の表情が苦悶に歪む。彼が時折してくれるように頭を撫でれば、少し楽になるだろうか。そんなふうに考えて、そっと彼の額に手を添える。
こうして他人に触れたのは初めてだ。
貴一の額は暖かい。熱があるのだろうか。それとも人の肌というのは元々これくらいの熱さなのか。そっと手を滑らせて、貴一がしてくれたように頭を撫でる。
「あれ、どうしたの」
いつの間にか時雨がドアのところに立っていた。
彼女の帰宅した音にも気づかないほど考え込んでいたらしく、卯月は慌てて「おかえりなさい」と言う。
「先輩が、具合悪いみたいで。さっきまで洗車してたんですけど」
「ああ、だから冷やしてるのか。熱中症かな。あんまりひどかったら、病院につれていこう」
「……問題ない」
貴一が答えた。閉じていた瞼が上がり、天井をぼうっと見ている。
「ただの寝不足だ。仮眠をとれば治る」
「また夜遅くまでゲームしてたんだね。仮眠は大事だけど、ガチの睡眠は仕事中以外でとってほしいなぁ」
正論だ。貴一はそれには答えず、ぼうっとした目で部屋を見回した。
「夢を見た。妹がいた気がしたが」
卯月には、それがブラフだとすぐにわかった。夢を見ていたのは寝言からも事実だろうが、それをあえて口に出したのは、時雨の反応を見るためだろう。
時雨は手に持っていた段ボール箱をデスクに置きながら、へぇと興味なさそうに返す。
「まぁ、無理は禁物だ。休憩時間はゆっくり休むんだよ。午後一で、解読できた古文書について説明するから。結構な収穫があったんだ。それから、別の資料も入手できた」
時雨の反応はいつも通りで、別段おかしなところはない。
「どうしたの、卯月ちゃん」
ふいに時雨が卯月に尋ねてきた。
「じっと私を見て。あぁ、見惚れてたのかな。私はとても麗しいから」
そう言って、まるで舞台俳優のように両手を広げてみせる。そんな彼女は確かに麗しい。超がつく美人というわけではないが、醸す雰囲気が凛々しく、しゃんと伸びた背筋や姿勢も含めてとにかく格好いいのだ。
卯月が返事をする前に、貴一がソファから身体を起こしながら言う。
「それはパワハラじゃないのか。軽口ばかり言っているから、嫁に行き遅れるんだ」
途端に、時雨は気分を害したように顔をしかめた。
「そっちこそ、それは完全なるセクハラだよ。そもそも晩婚化が進む今、別におかしくないだろう」
ひやひやする卯月だったが、緊張で張り詰めつつあった空気がふいに緩んだ。
時雨が胸に手を当てて、うっとり微笑んだのだ。
「いつか出会う、私の運命の人。急がなくても、いずれそのときはくるさ」
「所長は、どんな男性がタイプなんですか」
明るい話題に切り替えようと尋ねた卯月に、時雨が人差し指を「チッチッチッ」と言いながら左右に振る。彼女の振る舞いの何もかもが演劇のようだ。
「私は性別で決めたりしないんだ。この人だ、と思う相手が女性であれば、彼女のすべてを愛するよ」
「誰でもカモン、ということか。節操がないな」
「そういう意味じゃない。そもそもきみに私が独身だと言った覚えはないけど」
「所長には、すでに運命の相手がいらっしゃるんですね」
運命の男性、ではなく、あえて運命の相手、と性別を限定しない言い方にした。時雨はにっこり微笑んで、首を横に振る。
「まだいないよ。独身恋人なし。現在募集中さ」
貴一が半眼になって、時雨に尋ねる。
「時雨は、今何歳だ」
「三十五だけど、何か文句あるのかい。というか、きみに言われたくないなぁ。明智くんだって独身だったはずだろう。今、何歳だっけ」
「三十五だが」
「同じじゃないか! 行き遅れどうこう言われたくないね」
「つまりここにいる全員が、独身ってことですね」
卯月が真剣な声で二人の会話に割って入る。
すると二人が同時に振り返り、なぜか哀れむような顔をされた。
「急ぐ必要はない。いつか、なるようになる」
「そうだよ。人生はまだまだ長いさ。だから気を落とさないでくれたまえよ」
「待ってください、なんで私が慰められてるんですか」
「というか、もしかしてきみたちって付き合ってるの?」
卯月は何を言われたのか理解できなかった。
それがとんでも発言だと気づいたのは、時雨が苦笑をしつつ補足してからだ。
「さっき、明智くんの頭を撫でていたじゃないか」
「そういうものじゃないんですか」
卯月が落ち込んでいるとき、貴一がしてくれたことをそっくり真似ただけだ。
額に触れたのは熱を測るためでもある。それなのに、なぜ付き合っているという話になるのだろう。首をかしげる卯月に、時雨も首をかしげた。
「卯月ちゃんって、じつは体育会系だったりする? 部活とかコミュニケーションが多い青春時代を送ると距離感が近くなるって聞いたけど」
「部活は入ってませんでしたよ」
「だったら、多分だけど距離感バグってるね」
固まる卯月に、時雨がまぶしいものを見るように目を眇める。
「男女の間は複雑なんだ。みだりに髪や頭に触れるものじゃないよ。相手を勘違いさせてしまう。そういうことは、好意のある相手に、相手の了承を得てからするんだ」
「そうなんですか!」
どうやら人と関わる機会が極端に少なかったことで、距離感に関する一般的な常識が欠如しているらしい。知らなかったとはいえ、ベタベタと馴れ馴れしく触れてしまって申し訳のない気持ちが湧き上がってくる。
卯月は謝罪のために貴一のほうを振り返った。
だが卯月が口を開く前に、貴一がサッと視線をそらして言う。
「すまない。僕にも選ぶ権利がほしい」
申し訳なさが熱々のフライパンに垂らした水滴の如く一瞬で消え去った。
「まだ何も言ってませんけど。振られたみたいにするのやめて貰えません?」
貴一は答えず、窓の外に顔を向けた。陽射しを映した瞳の奥が、わずかに緩んでいる。
事務所のピリッとした空気感が和らいでいた。もしかしたら貴一は、和ませようとわざと揶揄うようなことを言ったのかもしれない。
卯月はそう思い込むことで平常心を保ち、今日も仕事に取り組もうと決めた。




