第二章【⑩】宝田杏花の事件
「古文書の解読にやや日数を要するみたいだ。紙の修復から着手する必要があるらしくてね。保存状態があまりよくなかったらしい」
「一般人が資料の保存方法を知っているとも思えんしな。仕方ないだろう」
「まぁね。でもかなりの収穫だ。初日から頑張ったね」
うきうきと時雨が羊羹にフォークをいれる。貴一は卯月がいれた緑茶をすすり、卯月は皿に取り分けた練りきりに瞳を輝かせた。
まるで、古坂部事件の資料など見なかったかのように、卯月と貴一は振る舞っている。示し合わせたわけではなく、なんとなくそうしたほうがいいと感じたのだ。
「本当に三つも食べていいんですか」
生菓子は高価だ。一度に三つ、それもすべて違う形の練りきりを食べることができるなんて、滅多にない。
「いいよ。私は羊羹さえあれば。ちなみに羊羹ならいっきに三棹食べれる。栗が入っていれば尚よし」
「僕は気分じゃないからいらん。茶だけで充分だ」
「では遠慮なく頂きます。嬉しい、可愛い!」
卯月はわくわくとフォークを持つ。
「鹿の子から頂きます。んふっ、美味しい。美味しいです、所長」
卯月のはしゃぎように、さすがの時雨も苦笑いを浮かべている。卯月は構わず、続いてつつじをイメージしたきんとんに手を伸ばし、それもぺろりと平らげる。最後に、一番の楽しみにとっておいた桜の練りきりを一口食べた。
「んんっ、これこなしですね。滑らかで上品な味わい……京都の和菓子ですか?」
時雨は驚いた顔をした。
「卯月ちゃん、和菓子に詳しいんだね」
「私、いつか日本中の上生菓子を網羅しようと思ってるんです」
「……刑事ドラマに和菓子。網羅したいものが多いな」
貴一が半眼で呟いたが、卯月は聞こえないふりをした。
「この和菓子も、卯月ちゃんみたいな和菓子好きに食べてもらえて喜んでるよ。まだあるから持って帰るといい」
「遠慮なく頂きます。そういえばこの和菓子、どうしたんですか」
帰宅した時雨は、卯月を見るなり紙袋を手渡した。彼女のデスクに置きっぱなしになっていたもので、「これお菓子。お茶にしよう」と言われたのだ。
時雨が持ち帰ったのではなく、デスクに置いてあったことが気になっていた。
「昼間、ちょっと事務所を出てたんだけど。帰ったら、いつの間にか応接間に置いてあったんだ」
お茶で咽る。咳をする卯月を横目に、貴一が時雨に言う。
「今の時代、異物混入だって珍しくないんだぞ」
「大丈夫だよ。あとで知り合いから連絡があったから。『留守みたいだし、事務所にお土産置いておいたよ』ってね」
「でも、それって、勝手に鍵を開けて入ったってことですよね」
「もしくは時雨が鍵をかけ忘れたか、だ」
二人の視線を受けて、時雨は不貞腐れたように頬を膨らませた。
「鍵はしっかりかけたよ。でも、あいつには関係ないんだ。組織の人間だからね。基本、組織のメンバーは全員同様のカードキーを持ってるから」
時雨はシルバーのカードを卯月たちに見せた。
「本部はカードに加えて暗証番号も必要だけど、うちはカードだけで入れちゃうんだよ。なんにせよ、安全なお菓子だから大丈夫。さすがの私も、留守の間にいきなり現れた菓子をきみたちに振る舞ったりしないさ」
ほっと卯月は安堵の息をついた。
「そうでしたか。てっきり所長のカードキーしか使えないものだと思ってました」
「所詮、組織が所有してる物件だからねぇ。改めて考えると、いつの間にか土産が室内に置いてあるって、ある種のホラーだね」
そう言って笑う時雨につられて微笑んだ卯月は、ふと既視感を覚えた。
最近、よく似た話を聞いた気がする。どこだったか、と思考を巡らせたとき。
「芦山の件と似ているな」
「誰、芦山って。報告書にはなかった名前だね」
「奥背山の住民の方です。調査の途中でお会いしたんですよ」
卯月は芦山について時雨に話した。
すべての話を聞き終えた時雨は、腕を組んで考えるように天井を見上げる。
「ふぅん。ちょっとしたミステリーだね。誰かが侵入して物を動かした、か」
「しかも、鍵はしっかり閉めてるらしいんです」
「そこはあまり重要じゃないよ」
「鍵を閉めることが、ですか」
「そう。民家の鍵なんていくらでもスペアが作れるし、施錠されてても開ける方法がある。それに、鍵の保管方法も気になるね。施錠したあと、植木鉢の下や郵便受けに隠してたら、それこそ意味がないし」
つらつらと述べる時雨に、卯月は納得する。
「確かにそうですね。でも、それだと誰かが鍵を開けて侵入したってことになりませんか。でも盗まれたものはないみたいですし」
時雨が唸る。
「確かに、変な話だね。これは怪異の一つかな。古来の妖怪でぬらりひょんっていうのが――」
「想像に過ぎないが、ある仮説が立つ」
貴一が渋面で会話に入ってきた。
話を遮られた時雨はむっとして、卯月はパッと貴一を振り返る。
「教えてください、その仮説」
家出少女を見つけ出した貴一の推理を思い出し、卯月の期待は自然と膨らむ。
「芦山の知り合いで、最近奥背山に戻ってきた者が、無断で自宅に上がり込んだんだ」
「芦山さんの知り合いの方? でも、だったら留守のときじゃなくて、いるときに堂々と訪問すればいいと思います。やましいことがあったんでしょうか」
「いや、おそらく芦山が不在の日を知らなかったんだ」
「でも、それだと知人どころか他人の可能性もありますよね」
「仮説はこうだ。その人物は、久しぶりに芦山に会いにきた。彼女が在宅中も鍵を閉めることを知っていたため、以前のように鍵を開けて家に入った。鍵は、それこそ植木鉢の下などに置いてあるんだろう。侵入者は、芦山の耳が遠くなっている可能性を考えて、家の中を芦山を探してうろつく。そのとき、なんらかの理由で配置が少しずつずれた」
「わからなくもないですが、ちょっと強引じゃないでしょうか」
貴一が腕を組み、天井を見上げながらぽつりと呟いた。
「夢谷、だったか」
「はい? あっ、夢村さん!」
公造に聞き込み調査へ行った際、夢村の息子が帰ってくるという話をしていたことを思い出した。
夢村家は、芦山の家からそれほど離れていない。貴一の仮説も一理ある。卯月はその場で公造に電話をした。公造はすぐに通話に出て、ちょうど片付けを終わらせたところだという。近くに夢村の息子がいるというので、電話を替わってもらった。
『どもども、夢村正樹といいます。卯月ちゃんやね、母から聞いてますわ』
「初めまして。実はお伺いしたいことがあって、お電話させて頂きました」
卯月は淡々と芦山の件を伝えた。芦山が泥棒だと騒いでいるというところまで話したところで、正樹が声をあげた。
『それ、俺かもしれん!』
卯月は貴一に、視線で推測が当たっていたことを伝えた。
『うわぁ、ほんまかぁ。俺、裕太と同級生なもんで、昔からようおばちゃんちにあそびに行ってたんやわ』
裕太というのは芦山の一人息子だ。正樹は引っ越しの準備のために奥背山に戻ってきた日、芦山宅に寄ったという。だが芦山は不在だった。
その後の行動は貴一が推測した通りだ。
「少し待たせて思うつもりであがって……そしたら、懐かしくなってなぁ」
つい押し入れのアルバムに手が伸びたと正樹が言う。
「昔のままでおったわ。ありがとうな、今から芦山のおばちゃんに謝ってきますわ」
卯月は通話を切ると、ほっと息をついた。
「解決しそうです。ありがとうございます」
「へぇ、さすが明智くん。名推理だ」
二人から褒められても、貴一は憮然としたまま「よかったな」と言うだけだ。
少なくともこれで、卯月は芦山から泥棒扱いされることはなくなるだろう。それだけでもかなり救われた気持ちになる。
「だが、シチューの味が変わっていたことが不明のままだ。舌が痺れるなど、余程のことだぞ」
「大袈裟に言っただけじゃないかな。実際に常温で置いておくと、気温が高くなったときに一気に傷むし。それにしても、証拠もないのに泥棒扱いはひどいなぁ。卯月ちゃんは災難だったね。辛かっただろう、私の胸を貸してあげよう」
時雨が両手を広げるのを見て、卯月はにっこり微笑んだ。
「ありがとうございます。気持ちだけで充分です」
*
「では、お疲れ様でした」
時間は六時半になろうとしている。
バスの時刻まで余裕があるので、どこかで買い物でもしようか。そんなことを考えていると、時雨に呼び止められた。
すでに貴一は退勤しており、事務所には時雨と卯月の二人しかいない。
「報告書にあった、梅原陣についてだけど。ちょっと引っかかるんだよね」
卯月は報告書に、西尾の元へ刑事たちが話を聞きにきたことも記載した。宝田杏花刺殺事件は、怨霊と関係している可能性があるためだ。
「やっぱり、怨霊が人を操ったんでしょうか」
梅原に殺意を芽生えさせた。あるいは、杏花に暴言を吐かせた。
そんなことを考えるが、時雨は首を横に振る。
「まだなんとも言えないなぁ。刺殺事件についてもっと詳しく知りたいんだけど、さすがに聞き込みだと限度があるよねぇ。あ、そうだ。もうさ、本人に直接聞いてみよう」
時雨は名案だと言わんばかりに手を打つ。
「直接、ですか」
「そう。日程が決まったら改めて連絡するよ。これで色々すっきりすると思う。あ、帰り際に引き留めてごめんね」
色々と尋ねたいことはあったが、結局卯月は会釈をして挨拶を述べると、事務所をあとにした。バス停に着き、ほどなくバスがくる。
上生菓子の入った袋を胸に抱き、定位置である一番後ろの左側の席に座った。
今日を思い出すと、所長室での一件が強く脳裏に蘇る。眩暈を覚えて、手すりを強く握りしめた。
自分は、変なことを言わなかっただろうか。自問するが、所長室で自分が何を口走ったかなど、ほとんど覚えていない。
記憶が曖昧なのは、それだけ衝撃が強かったからだ。
時雨は間違いなく古坂部事件を調べていた。
スクラップブックはかなり細部まで書き込まれており、複数冊に及ぶそれらの資料は一朝一夕で集められるものではない。ノートの劣化具合から見ても、作り始めてからそれなりの年月を経ているだろう。
それだけではない。貴一は被害者遺族だったのだ。
卯月の呼吸が、知らずに浅くなる。卯月は生菓子の入った紙袋を抱きしめる。
時雨が古坂部事件について調べていて、たまたま貴一が被害者遺族だった。それだけならば、まだ偶然だといえる。
しかし、ここには卯月がいる。
時雨が雇ったバイト二人のうち二人ともが、古坂部事件の関係者だなんて偶然がありえるのか。昨今近辺で起きた事件ならばまだしも、二十二年前に東京で起きた事件だというのに。
卯月はポケットから古坂部悠二の写真を取り出した。資料を片付ける際に、咄嗟に持ち出してしまったその写真を、じっと見つめる。
時雨は、あえて事件の関係者をバイトに雇ったのだろうか。
いや、考えすぎだ。貴一はスカウトされたらしいが、卯月は自分の意思でバイトに応募したから。応募当時のことを思い出し、ふと違和感を覚えた。
時雨は卯月以外に応募者がいないと言っていたが、本当だろうか。少なくとも卯月がすぐに応募したくなるほどの好条件だったし、他にも希望者がいてもよいはずだ。
そもそもあのチラシは、どこで配っているのだろう。
卯月がチラシを手に入れたのは、隣家の山川が回覧板と共に持ってきてくれたから。だが、卯月が取っている新聞のチラシには入っていなかった。スーパーなどのフリーペーパー置き場でも見たことがない。
もしかして、卯月が応募するように仕向けたのでは。そんな考えにたどり着いた途端、言い知れぬ恐怖を覚えて両腕を抱く。
しかし、優しく微笑む時雨の笑みを思い出すと、疑心が徐々に薄れていった。
初めて会った日も、同じ笑みで出迎えてくれたではないか。それに彼女は、頼りになる上司であり、人として尊敬できる。そうだ。確固たる証拠もないのに、いきなり仕事を辞めて迷惑をかけるわけにはいかない。それに、怨霊のことも放置はできない。
今日の水縁の反応から、奥背山に何かあることは理解した。それは時雨が話していた怨霊云々の推測を裏付けるには充分だ。
怨霊に関して調査を進めれば、結果として連続少女失踪事件を食い止めることができると、今の卯月はそう確信している。だからこそ逃げ出すわけにはいかない。
卯月はもやもやした気持ちを無理やり飲み下した。
時雨に直接、古坂部事件の資料について尋ねる方法もある。だが、そうなると卯月の隠している過去を話す必要が出てくるだろう。少なくとも卯月は、自分から過去について話すつもりはない。時雨が、あえて卯月を雇ったという確証がない限りは。
卯月は携帯電話を取り出し、逡巡したのちにメールを打つ。
送信して携帯電話をしまうと、紙袋を強く抱きしめた。
胸の奥がざらりとした。




