第二章【⑨】宝田杏花の事件
夕暮れが色濃く室内を照らす事務室は、がらんとしている。
いつも事務所にいる時雨は、卯月たちが持ち帰った古文書を抱えて出て行った。専門の研究施設に解読の委託を取りつけているらしく、自ら社用車で運んで行ったのだ。
卯月は大きく伸びをした。
報告書はすでに書き終えて、送信している。
いつもいるはずの時雨がいないと、なんだか物寂しい。ぼうっと室内を見回した。貴一は奥のドアへ消えていったので、また仮眠室でゲームをしているのだろう。
女学生の笑い声が聞こえてきて、ここは変わらず平和だと感じる。
ふと今日のことを思い返し、卯月はこみ上げる苦いものを飲み下す。
水縁があれほど怒るなんて。
彼の穏やかな姿しか知らなかった卯月は、貴一の言葉によって豹変した水縁の表情に驚いた。梅原も、マザコンと呼ばれて豹変したのだろうか。
卯月が聞いた限り、梅原は常に苛立っている不良のような印象があった。だがもしかしたら、普段の彼は杏花を心配して声を掛けるような、素朴な優しい男だったのではないか。
卯月には隠していることがある。それが暴かれるようなことがあれば、卯月自身どんな暴挙にでるか想像できない。
もしかしたら、誰にもそんな一線があるんじゃないか。時雨にも、貴一にも。
だとしたら、杏花はたまたま梅原の逆鱗に触れて、殺害されたのか。運がなかったとでもいうように。そもそも、なぜ杏花は『マザコン』などと言ったのだろう。染谷が言っていたように、二人は親密な関係にあったのか。
ふと気づく。杏花にも、卯月の知らない顔があったのではないだろうか。
ぞわりとした言い知れぬ怖気を感じ、卯月はたまらず携帯電話を持つ。登録している数少ない連絡先から、以前に不成柿を調査した際に知り合った里中理恵を選ぶ。
杏花と同じクラスだったという彼女ならば、何か知っているかもしれない。
メールで連絡を入れる。要件と急がない旨を送信し、携帯電話を閉じた。
これ以上は考えるだけ無駄だ。そう言い聞かせて、思考を切り替えた。
今日は時雨が帰ってくるまで、お留守番という名の残業になる。せっかくだから、掃除でもしておこう。立ち上がろうとして、軽くよろける。
少しだけ休憩を取ろう。奥にある給湯室に向かおうと事務室を出たところで、休憩室の向かい側にあるドアが開いていることに気づく。
所長室だ。いつもは鍵が閉めてあり、守秘義務の観点から立ち入り禁止と言われている場所である。
閉めておこうと駆け寄った卯月は、室内に貴一の後ろ姿を見かけてぎょっとした。
彼は所長室のデスクに両腕を突っ張り、何かを懸命に見ている。
「ちょっと先輩。ここは所長から入っちゃ駄目だって言われたじゃないですか」
ドアを開きながら声をかける。しかし貴一は動かない。
「先輩、どうかしたんですか」
不安がこみ上げてきて歩み寄る。
デスクには青いバインダーと複数のノートが広げてあった。ノートには新聞記事の切り抜きが並び、時雨の達筆で注釈や見解が書き込まれている。
何気なく覗き込んだ瞬間、卯月は冷水を浴びたように硬直した。視界が揺れ、血の気が引いていく。
「僕は今日の調査で、改めて人の数だけドラマがあると思った」
氷のような貴一の声に、卯月は反射的に声をあげた。
「振り返りなら、向こうでやりましょう。この資料、片付けます」
デスクに手を伸ばした卯月の手首を、貴一が掴む。
「僕にもドラマがあってな。この資料がここにあるのを見て、もしかしたら、今なお舞台に上がっているんじゃないかと思った」
貴一が、スクラップブックを指でとんとんと叩く。
「ここにあるのはすべて『古坂部事件』の記事だ。卯月くんは当時まだ赤子だったから、知らないだろう。この事件が、僕の人生を大きく変えたんだ」
卯月は答えようと口をひらいたが、すぐに閉じた。知らないはずがない。
古坂部事件は、日本を震撼させた連続殺人事件なのだから。
*
貴一は事件の資料を睨みつける。
忘れたくても忘れられない事件だ。それでもできる限り、日常を歩もうと心の深い場所に沈めてきた。だというのに、なぜここにこんなものがあるのか。
その事実に愕然としたまま、貴一の意思に反して記憶が過去へと遡っていく。
「大丈夫ですか、顔色がよくないですよ」
気づかわしそうに卯月が声をかける。無意識のうちに卯月を振り返ると、すぐ近くに彼女がいた。視線が合う。
いつもは日光や蛍光灯の下で見る彼女の瞳が、仄暗い部屋では赤く見えることに気づいた。両目ではない。右目だけだ。だからこそ、彼女の瞳が血のように真っ赤であることが明確にわかる。
「痛っ」
卯月が顔をしかめたことで、貴一は我に返った。遅れて彼女の手首を強く掴んでいたことに気づき、慌てて手を離す。
「すまない」
「いえ、大丈夫です。先輩こそ、少し休んだほうがいいんじゃないですか」
「ああ。……そうだな」
卯月がほっとしたように資料を片付け始める。それを眺めながら、貴一は口を開いた。
「僕が十歳の頃、両親が離婚した」
卯月が手を止めて貴一を見上げる。貴一は逃げるように視線を逸らし、一方的に続けた。
「双子の妹がいたんだ。妹は母と暮らすことになり、生活が一変したらしい。母はずっと働きに出ていて、妹は失踪する十三歳まで家事をこなしていたらしい。てっきり母方の実家へ戻ったのかと思っていたんだが、隣町のアパートで暮らしていたようだ」
「失踪、って」
卯月が何かを察したようで、広げられた記事を見た。
「僕が妹の失踪を知ったのは、妹が姿を消した三か月後のことだ。母の弟、僕にとっては叔父にあたる人物が尋ねてきた。……蝉のうるさい、夏休み前のことだ」
*
あの日、貴一はいつも通り学校から帰ってすぐに宿題に取り組んでいた。
母と妹が出て行った家は広く、父親は夜まで帰ってこない。エアコンの効いたリビングの食卓で、教科書やプリントを広げていた。
片付けなさいと叱る母も、自分の部屋でやりなさいよと文句を言ってくる妹もいない。正直にいえば、喧嘩ばかりだった両親が離婚したことによって、貴一は悠々自適な生活を手に入れたのだ。
このときの貴一は、母と妹が苦労をしているなど夢にも思わなかった。向こうもまた、貴一の世話をしなくていいのだから清々しているだろうとすら考えていた。
インターフォンが鳴り、面倒くさいと思いながらも応対する。叔父だったのでリビングに上がってもらい、麦茶を出した。父は不在だと伝えたが、彼は貴一に話があると言ったからだ。
叔父はインテリヤクザのような見た目をしている。だが彼はたたき上げの刑事だ。当時の貴一にとって刑事という職業はドラマのなかにあるもので、現実に刑事になった叔父に対して憧れがあった。
「咲良ちゃんの居場所、知らないか」
切羽詰まった表情で、叔父が尋ねた。意味がわからないまま固まる貴一に、叔父は妹の咲良が失踪したことを告げた。どうやら父が、心配をかけまいと失踪の件を貴一には黙っていたらしい。
知らないと答えると、叔父は落胆した様子で帰っていった。
来客用のコップを片付けているとき、社交的な妹が頻繁に友達の家に泊まりにいっていたことを思い出した。もしかしたら引っ越した先で新しい友達を見つけて、そこに入り浸っているのではないか。引っ越す前の友人の家にいる可能性もある。
叔父に知らせたほうがいいだろう。すでに知っているかもしれないが、もしかしたら父や母が知らない、貴一だけが知っている妹の友達がいるかもしれない。お母さんたちには内緒だよ、と妹はよく言っていたではないか。
貴一はすぐに家を出た。叔父は電車で来たと話していたから、今なら駅までの道を辿れば追いつけるだろう。
想定通り、叔父は駅へ向かう途中の公園にいた。すぐに駆け寄りたかったが、信号待ちで足止めを食らう。声を張り上げれば届く距離だが、住宅街のなかで大声を出すのは恥ずかしかった。信号が青になったら、全力で走ろう。
目の前で、公園にシルバーのバンが右折した。公園といっても車両の進入も可能な散歩道だ。別におかしなことではない。
だが、バンが叔父の姿を隠すように停車したことで、おや、と思った。
信号が青になって横断歩道を渡る頃にはバンは走り去っており、叔父の姿はなかった。
迎えが来たのだろう。走ってきたのに、と貴一は不貞腐れながら帰宅した。
その二か月後。古坂部事件が世間を震撼させる。
かの事件の代表的な被害者として取り立たされたのは、叔父だった。
*
一気に過去を話した貴一に、卯月は愕然とする。
「先輩の叔父さんが、あの事件の被害者だった……?」
ふと貴一が訝るように振り向く。
「卯月くんは、古坂部事件について知っているのか」
卯月はネットで見た事件の概要を思い返した。
――古坂部事件。
古坂部悠二――乳児から二十歳までの若い娘を攫っては、自宅の地下で惨殺したシリアルキラー。医者としての顔を持ち、外科手術の腕は一流だったとされる。
古坂部は、とにかく魅力的な男だった。
外見が整っていて背が高く、英語とドイツ語が堪能であった。それらのことから事件発覚後に熱狂的ファンがつき、日本でもっとも美しいシリアルキラーと祀り上げる集団まで現れる。
尚、古坂部事件における被害者の明確な人数は不明。
古坂部が育った実家や通っていた大学の近辺でも失踪者が頻発していることから、彼は定期的に犯罪を繰り返していたと思われる。具体的な被害者の数は不明。特定できたのは僅か数名である。
事件発覚当時、古坂部は住宅地にある戸建てで暮らしていた。
自宅の地下室から、事件を極秘で捜査していた刑事が一人、死体で発見されている。
酷い拷問ののちに四肢を切断、その後、斧で首を落として殺害したとみられ、発見時、遺体は腐敗して無残な状況だったという。
古坂部の完璧だった犯罪は、一人の少女により幕を閉じる。助手として傍に置いていた少女Aが、古坂部を殺害。彼女自ら警察に通報したことにより、事件が発覚した。
卯月は、静かに頷いた。
「ネットでわかる範囲なら。以前、検索したことがあるので」
貴一も頷き、当時のことを語る。
「事件のあと、メディアはこぞって『古坂部事件』を取り上げた。事件の残忍性、加害者の自己中心的な行動、被害者遺族の心情など、話題に事欠かないからな。古坂部の、医者として有能だった側面がよりセンセーショナルを産んだ」
「先輩も大変だったんじゃないですか」
「マスコミにとって格好のネタだった。一日中追い回されたこともあるが、幸いというべきか父は神経がなかなか図太くてな。友人の弁護士に訴える旨をちらつかせて、マスコミを追い払っていた」
苦笑を浮かべた貴一が、ふと真顔になる。
「マスコミは、すぐに離れていった。古坂部悠二が同居していた少女の存在が明るみに出るなり、世間の関心がそちらへ移ったからだ。やはり被害者遺族よりも加害者に関するネタのほうが大衆受けするんだろう」
「少女Aですね」
古坂部が同居していた少女だ。
当初は古坂部の親戚だと報じられたが、実際は血のつながりのない他人であった。
やがて少女は未成年であることから少女Aと呼ばれ、古坂部が児童養護施設から引き取った義娘であることが判明する。報道が過熱したのはその直後だ。
古坂部が最初から、手駒にするために引き取った。世間がそう疑うのは当然だった。
そうするうちに、少女がいた施設が「認可外」であることが発覚する。人身売買施設だと、世間の批判は施設へ集中した。
「叔父は妹の行方を捜査していた。そのなかで古坂部に行きつき、口封じされたというのが警察の見解らしい。妹はこの事件の被害者の可能性が極めて高いとされたが。証拠が何一つなかった。妹は失踪扱いとなり、十年が経過してやっと葬儀をあげてやれた」
卯月は息を呑む。
殺害された可能性が高いのに、死亡が正式に認められない。失踪からの死亡認定までの十年間、遺族はどんな気持ちで生きてきたのか。
「生きているかも、などという希望は微塵もなかった。叔父が殺害されたことからも、妹がこの世にいるとは考えにくいからな。……妹は将来モデルになりたいと言っていた。叶えられるはずもないと、僕や両親は笑ったな。叔父はたたき上げの刑事だった。だがもっと頭がよければ検事になりたい、と話してくれたことがある」
モデル。検事。
――資格というなら明智くんはすごいよ。大学在学中に司法試験に合格してるんだ。
時雨の言葉が脳裏に過り、ハッとして貴一を見た。
「先輩は、二人の夢を叶えようとしてるんですか」
「よくわかったな」
貴一が自嘲する。
「あのとき僕が声を掛けていたら、叔父は助かったかもしれないという自責の念が、そうさせた。……だが、それも辞めた。僕が何をしようと過去が変わるわけではない」
「……それで、自分探しの旅の途中、なんですね」
なぜここで働いているのか尋ねたときに、確か彼は、そう答えたのだ。
「ああ。僕は僕だ。それなりに歳をくってしまったが、今からでもやりたいことを見つけると決めた」
卯月は黙って貴一を眺めた。
すぐ傍にいるのに、彼の存在が遠く離れたような錯覚に陥った。
――僕は僕だ。
その言葉の力強さに胸が締めつけられた。
玄関のほうでオートロックが解除される音がした。続いて、時雨の「ただいま」と言う声が聞こえる。
「しまった。つい話し込んでしまった。片付けよう」
貴一がスクラップブックをそろえ、卯月がファイルを片付けていく。途中でぱらりと開いたページに、古坂部悠二の写真があった。
中性的な顔立ちの美男子で、長く艶やかな髪を後ろで一つに纏めている。職場の病院で撮った写真らしく、白衣を羽織っていた。カメラに向かって微笑む表情は優しく、これまでネットでは見たことのない姿だ。
貴一のほうを見た。彼は卯月に背を向けて、棚にスクラップブックを片付けている。
ファイルから古坂部悠二の写真を抜き取り、ポケットにしまうのに五秒もかからなかった。
卯月は何食わぬ顔でファイルを閉じ、それを棚に片付けた。




