第二章【⑧】宝田杏花の事件
奥背山寺へと続く上り龍のごとき細道は、何年も前に舗装されたきりのようでコンクリートがあちこちひび割れていた。
卯月と貴一がそちらへ向かう背後から、二人の刑事がついてくる。染谷は厳しい顔をしているが、伊藤はにこやかに声をかけてきた。
「以前も思ったんですけど、奥背山の坂道はトレーニングにちょうどいいですね」
卯月は彼女を見返して、小首をかしげた。
「トレーニング、ですか」
「はい。仕事柄デスクワークが多いので、こういった坂道は大歓迎です」
「はぁ、なるほど」
伊藤はにこやかだが、彼女の少し後ろを歩く染谷は滝のような汗を流しており、呼吸も荒い。熱中症が心配になるほどだ。
そういう卯月も体力にはあまり自信がないので、そろそろ呼吸が上がってきた。
「刑事なのにそんなに体力がなくて大丈夫なのか。持久力不足か」
貴一が軽く後ろを振り返り染谷へ言う。その口調は揶揄うというよりも抗議しているようで、彼への反感がにじみ出ていた。
「刑事は体力があってなんぼですからね。染谷さん、頑張ってくださいよ」
伊藤までそんなことを言う。さすがに心配になって、卯月は染谷に水筒を差し出した。
「これ、まだ口をつけてないのでよかったら。うち、すぐそこですから、全部飲んでもらって大丈夫です」
染谷は逡巡のちに、恥じたように水筒を受け取った。一気に煽ると袖で額をぬぐう。
「悪りぃな。今年は天気がおかしいとは思ってたが、奥背山の暑さは異常だろ」
「染谷さん、地域でそんなに差が出るわけないじゃないですか。さすがに言い訳が甚だしいですよ」
「うっせぇ」
伊藤につっこまれて、染谷が声を抑えて怒鳴る。
卯月は何げなく空を見た。雲一つない晴天が広がっている。貴一を見ると彼も空を見上げていた。ふと視線が合う。お互いに同じことを考えているようだ。
――怨霊は、自然に介入できる。
報告書に記載するかどうか一考する余地はありそうだ。
こうして少しの休憩を挟みつつ坂道を登りきると、築地塀の向こうに寄棟造の立派な建物が見えてくる。
開かれた薬医門の傍に、屋根付きの屋外掲示板が立つ。掲示物はなく、板面は雨風に晒されて歪み、色も褪せていた。
「立派な建物だが、ずいぶんと古いな」
寺を眺めながら貴一が呟く。
「水縁家が先祖代々引き継いできたお寺らしいです。水縁さんはご高齢のお寺さんで、いつも親身になってくださるんですよ」
「そういえばさっき、宝田杏花と水縁のおかげで奥背山に馴染めた、と言っていたな」
「そうなんです。二人がいなかったら、田舎暮らしを満喫できなかったと思います」
そんな会話を交わしている間に、刑事二人が門をくぐって母屋のほうへ向かう。
二人の背中を眺めていた卯月は、彼らが見えなくなると視線を貴一へ向ける。貴一は寺の外観や周辺を、順々にじっくりと眺めた。
「なんとなく感じる。ここは特に」
彼は軽く額の汗を手の甲で拭う。
「ここにも、あの木が多いな」
「あの木?」
貴一が顎をしゃくり、塀の向こうに植えてある木を示す。柿の木だ。寺を囲むように柿の木が植えてある。さらに視線を巡らせると、墓地に続く山肌にも柿の木を見つけた。
「祭事に使うため、でしょうか」
いくら特産品だからと、寺の敷地内で柿を育てはしないだろう。となれば、やはり祭事に使うためと考えるのが妥当だ。
卯月はそれらを写真に収め、貴一と共に門をくぐる。
石畳を向こうから歩いてきた染谷伊藤のコンビとすれ違う。伊藤が軽く手を振ってくれたので、卯月は小さく手をあげて会釈をした。
母屋の玄関までたどり着くと、引き戸の擦りガラスの向こうに動く紺色の影が見えた。ガラスを軽くノックして声を掛ける。
「こんにちは、卯月です。お電話させて頂いた件で、お伺いしました」
紺色の影が近づいてきて、そっと引き戸が開かれる。現れたのは法衣姿の老齢の男――水縁だ。
「卯月ちゃん、よぉ来てくれた。あがりや」
彼は卯月を見ると笑み崩れ、歳を感じさせない足取りで引き返していく。上がり框を登ったところで、水縁が奥へあがるよう促す。卯月はそれを「少し話をお聞きしたいだけなので」とやんわり断った。
水縁は高齢の一人暮らしだ。いくら好々爺然としていても手間を掛けさせたくない。それを察したのか水縁のほうもすぐに引き下がり、上がり框で待つように言う。
貴一と二人で上がり框に腰を下ろすと、網戸にした玄関から心地よい風が廊下の奥へと吹き抜けていく。
「暑かったやろ」
水縁がガラスのコップを二つ乗せたお盆を持ってきた。慣れた手つきで二人の前に布コースターを置くと、その上にコップを乗せる。卯月はお礼を言って、それから貴一を紹介した。貴一と水縁はお互いに頭を下げて、改めて自己紹介をする。それが終えたタイミングで、卯月が口を開いた。
「可愛いコースターですね」
犬の刺繍が施されたそれを示すと、水縁は嬉しそうに微笑む。
「二人目の家内が昔作ってくれたんやわ。こういうんが好きでなぁ」
二人目、という言葉に思わず目を瞬く。水縁はそんな卯月に微笑んだまま、「後妻を二度迎えとるんや」と言う。
知らなかった。なんと返事をしていいかわからず、そうでしたか、と答えるに留めると、水縁は目を細めた。
「おぼこいなぁ」
「揶揄わないでください」
恥ずかしくなってついむっとする。水縁は楽しそうに笑ったあと、姿勢を正して貴一のほうを向いた。
「それで奥背山について聞きたいいうことですけど、お役にたてますやろか」
貴一が公造に話したのと同様の説明をする。水縁は静かに頷いた。
「奥背山の歴史からお話しましょか」
水縁は慣れた様子で、淡々と語り始めた。
奥背山に人が住まうようになったのは、六百四十五年頃。
唐の僧がこの地へ越してきたことがきっかけだった。当時、この辺りは争いや疫病が多く、住処を追われた者が寄って集落となったのが奥背山である。
唐僧は人々に、これからも安寧が続くようにとカミ様を崇めるよう説き、その風習が今なお色濃く残っているという。
「奥背、という地名は、この唐の僧によってつけられたものや謂れてます。山、という字がついて、奥背山と呼ばれるようなったんは、もう少しあとの、平城京の頃です。ここいらは、都の後ろいうことで、やましろと呼ばれるようになりました。字は、山の背、山の代、と書きます」
水縁は指で床をなぞり、「背中の背」「一代目の代」と説明する。
「歴史があるんですね」
卯月が驚くと、水縁が「ほんまやね」と頷いた。
「カミ様というのはどういった神なのですか。当時は仏教だったように思うのですが」
貴一が尋ねると、水縁が頷く。
「カミ様、いうんは、今の呼び方ですわ。これはわしの推測やけど、昔は別の呼び方やったんちゃうやろか」
「それが時代のなかで、カミ様、と呼ぶようになったと」
「平安時代頃、神仏習合いう考えが広まったんは知ってはるやろか。仏さんが神様の姿で現れる――いわゆる本地垂迹説ちゅうやつですわ。この頃に、奥背山でも呼び方に変化があったんかもしれまへん」
貴一は次の質問をした。
「現在、奥背山では祭りがなくなったと聞きましたが、なぜでしょうか」
途端に、水縁は悲しそうな顔になる。
「事情はいくつかありますわ。一つ目は、金銭的問題です。奥背山は毎年人口が減少してますんや。せやけど、祭事に必要な費用は変わらへん。一人の負担が大きなる」
「資金面で、奥背山住人の負担になっているということですね」
「その通りです。それでも長年続けてこれたんは、町からの補助金があったからですわ。伝統を守るべき取り組みの一環として、一部の費用負担がありましたんやけど。それも市町村合併の際に、無くなりましてな」
市町村合併からすでに十年以上経過している。祭りがなくなったのが同時期ならば、怨霊は関係ないのかもしれない。
貴一が質問を続ける。
「市町村合併からこっちは、一度も祭りをされていないんですか」
「なんとか、二年前まで行ってましたわ」
驚いて、卯月は体を乗り出した。
「そうだったんですか」
「せやで。卯月ちゃんがくる、少し前までやってたんや。費用は有志と水縁家の財産から捻出してな。せやけど、それも限界や。高齢者には、奥背山はとにかく不便や」
「奥背山は、坂道が多いですね」
貴一が頷くと、水縁は続けた。
「二つ目の問題が、祭りを行う者がおらんようになったことや。人手不足ですわ。まだそれなりに住民はおりますけど、準備に集まるんは難しい。坂道で転びでもしたらえらいことやし、こちらからも積極的に声を掛けづらいんですわ」
卯月は冷たい番茶で喉を潤して、そっと続きを促した。
「その二つが原因で、お祭りがなくなったんですね」
「もう一つ、肝心な理由がある。『祭りを執り行う者の不在』や」
祭りの実行委員のような立場だろうか。そんなふうに考えた卯月だったが、水縁の返事は想像していたものと違っていた。
「水縁家の世継ぎがおらんいうことですわ。祭りや呼んでますけど、屋台が並ぶわけやない。水縁家が主体になって行う祭事のことを言いますんや」
祭事という言葉に卯月はハッとした。貴一も驚いたようだが、頷いて言葉を紡ぐ。
「儀式のようなもの、という認識でよろしいでしょうか。だから、補助金制度がなくなっても費用を出し合って行ってきた。それほど、奥背山では大切なことだった」
水縁が大きく頷き、ふと、自嘲気味に微笑んだ。
「水縁家は奥背ができた頃から一度も途絶えてへん家系やったが、わしの代で終わりですわ。三度結婚して、誰とも子宝に恵まれんかった。誰が悪いいうわけやあらへんのです。これも、世の成り行きですわ。資金不足、住民の高齢化、世継ぎの不足。式役檀家ももうおらんのです」
聞きなれない言葉に、卯月は顔をあげた。
「式役檀家とは何でしょうか」
尋ねたのは貴一だ。水縁は驚いたように顔をあげ、すぐに照れたように微笑んだ。
「奥背の風習ですわ。水縁家を補佐する五家を式役檀家言いますんや。祭事のときは、それぞれの家長が各々の役割を担ってくれてはりました」
「式役檀家、という五家は、今はもうないのですか」
「ほとんどが、奥背山を出ていきはりました。今ではもう、家長が残ってるんは宝田のところだけですわ。公造の坊には頼ってばかりおる」
ふいに飛び出した公造の名前に、卯月は納得した。
宝田が皆に頼られているのは、式役檀家という家系だからだったのだ。
「その式役檀家を、他の家が継ぐことはできないのですか」
貴一の問いに、水縁が苦笑する。
「今時、そないな役をやりたがる家はありまへん。……このまま、奥背山寺はわしの代でなくなることになります」
「しかし、廃寺になれば檀家の方々が困るのではありませんか」
貴一の質問に、水縁が声をあげて笑った。
「奥背山寺は、水縁家の所有物なんですわ。いわゆる、宗教法人の寺やないんです。わしも僧籍なんぞ持っておりませんわ」
「お寺じゃないんですか!」
声をあげた卯月に、水縁はおかしそうに笑みを深めた。
「驚いたやろ。奥背山の住民は、隣のT山寺の檀家なんや」
「じゃあ、このお寺は何のためにあるんですか」
「奥背山寺は、カミ様を祀り崇めるためだけに存在するんや」
やんわりと、だが水縁は言い切った。卯月は息を呑み、貴一が前のめりになる。
「たったそれだけのために、寺を模した建物を作ったと?」
「水縁家は元来、奥背山の名主でしたんや。今はもうそないな力あらへんけど、わしの曽祖父の時代はまだ相当な力があった聞いとります。せやから、この寺を継ぎ、守るんは、水縁家の役目なんですわ」
――奥背山寺は、カミ様を祀り崇めるためだけに存在する。
水縁の言葉からは誇らしさすら感じ取れるが、肝心の祭事は二年前に取りやめになっているという。卯月は急いでメモを取り、改めて考える。
祭事が行われなくなったのが、二年前。宝田杏花の事件や連続少女失踪事件が起こり始めたのが、半年前。
関係があるのかは微妙なところだ。どれだけ考えても答えは出てこなさそうなので、早々に考えるのを止めた。こういったことは、時雨に聞くのがいいだろう。
「もう一つ、お尋ねしたいのですがよろしいでしょうか」
貴一に、水縁が頷く。
「なんですやろか」
「戦時中に、奥背山で大きな事件があったと耳に挟んだのですが」
「あらへん」
コップに口をつけていた卯月は、水縁の返事の速さに驚いて顔をあげた。
ゾッとする。水縁は笑みを消し、能面のような無表情で貴一を見据えていた。
貴一は手の中で弄んでいたコップから一口番茶を飲むと、彼らしい不敵な笑みを浮かべる。
「確かな情報だ。ここだけの秘密にするから、教えてくれないか」
「知らん」
一拍、静寂が降りた。水縁と貴一は、お互いに視線をそらさない。
「水縁さんがご存じないなら、奥背山の住人らに聞いて回ることになるが」
途端に水縁の瞳に、怒りが燃えあがった。貴一の首を絞めに飛び掛かるのではないかとすら感じたが、水縁は怒りを深呼吸でやり過ごすと、諦めたように息をつく。
「あんた、何者や。卯月ちゃんを変なことに巻き込んだんちゃうやろな」
「ずいぶんと卯月くんを可愛がっているようだな」
「卯月ちゃんは奥背山の子や。わしにとっては孫も同然やから、可愛いに決まっとる」
卯月のことも敵であると認識されてもおかしくはないはずの状況下で、孫も同然と言ってくれることが嬉しい。奥背山に越してきてよかったと、心から思う。
「さっきの業者言うんは、嘘やな」
「この奥背山の土地には、禍々しいものが染みついている。僕たちはそれを解決するために、K市全体の郷土資料を集めているんだ」
いいかげんにせい、おかしなこと言うな。
そういった言葉を予想していたが、水縁はぶるりと体を震わせて貴一を凝視した。その顔は硬直し、血の気が引いたように青くなっている。
「この地にある穢れ。その理由を知りたい……終わらせるために」
水縁は小さく震えて俯くと、深く長いため息をついた。
「……これも時代の流れなんか」
それは諦めの色を宿していて、途端に水縁が一気に年老いたように感じた。
「ちょっと待っててや」
彼はそう言いおいて離れ、ややあって戻ってくる。手には、二十センチほどもある鉄の鍵を握り締めていた。
玄関を出て母屋を回り込み、土塀の蔵へたどり着く。奥背山の家々は土蔵を持つ家が多い。水縁家の蔵も同様の造りだが、ドアが重厚な鉄でできており、巨大な南京錠がついていた。水縁が南京錠を開ける。
「右奥のタンスに水縁家が管理してきた記録がある。わしには読めんもんや。解読できるんやったら持ってったらええ。解読した内容を、わしに教えるいうんが条件やけどな」
水縁が挑戦するように貴一を見る。
貴一は卯月に待つように言い、真っ暗な蔵へ入っていった。携帯電話のライトが蔵のなかでパッと辺りを照らすが、些細な光なので、卯月のところから様子は窺えない。
カビと古い土の匂いが、つんと鼻を刺激する。自然のなかに息づく人々の生活の気配が、卯月を懐かしい心地にさせる。
水縁がじっと蔵を眺めていた。
「水縁さん」
「なんや、卯月ちゃん」
振り返った水縁は、いつもの柔和な笑顔を浮かべている。先程のことなどなかったかのような振る舞いに、卯月の胸は寂しさできゅうと疼いた。
この老人は、一体何を抱えているのだろう。歳をとってすっかり背が縮んだという彼の小さな両肩に、どれほどのものを背負っているのだろう。
「全力を尽くしますから」
言葉が続かない。何を言っても言い訳のように聞こえるだろう。
水縁が目を細めた。静かな双眸は、長い人生を歩んだ彼だからこそ持つ、落ち着きがある。
水縁はゆっくりと卯月の傍までくると、握りしめていた鍵を懐にしまい、卯月の肩に手を置いた。
「背負うんは、しんどいなぁ」
その言葉は卯月の体の深い部分に落ちた。
「いつか荷を下ろせるときがくる。人生は長いんや。背負っとるもんが重うなってきたら、誰かに寄りかかったらええ。わしはそうやってこの歳まで生きたさかい。これはもうあかん、そう思っても、案外なんとかなるもんやわ」
それは水縁自身のことを話して聞かせているのか。それとも――。
卯月はサッと視線を下げた。自分の秘密が、水縁には筒抜けになっているかのように感じたのだ。
「わしに孫やひ孫がおったら、卯月ちゃんみたいに可愛いんやろなぁ」
「……私は」
そんなに純粋な人間ではない。喉まで出かかった言葉を飲みこむ。今すぐに帰りたい。水縁の視線から逃れたくてたまらない。
袖で鼻と口を押さえて、貴一が盛大に咳をしながら蔵から出てきた。
「古文書の類があった。あれのことか」
「せや」
貴一は携帯電話を操作し、耳に当てる。だがすぐに顔をしかめて画面を見た。
「山やからなぁ。鐘楼のほうやったら、まだ電波が届くんちゃうか」
水縁が示した方向に、玉砂利の庭が広がっていた。そこに立派な鐘楼があり、貴一がそちらに歩いていく。
電波が繋がったらしく、いくつか会話を交わして戻ってきた。
「上司と話がついた。条件を飲もう。古文書を解読のために借りていく」




