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第二章【⑦】宝田杏花の事件

 刑事たちが出ていくと、酒屋に居た堪れない静寂が下りた。

 いつも朗らかな西尾の憔悴した様子になんと声をかけるべきか迷っていると、貴一が立ち上がり、冷凍ケースからアイスを二つ取り出した。一つはソフトクリームで、もう一つは二つに割れるようになっているソーダのアイスキャンディだ。

 貴一は二つ分の料金をカウンターに置く。

「今日はこの辺りで失礼する。これをやろう、差し入れだ」

 ソフトクリームを西尾に手渡す。西尾は驚いた様子をみせたあと、破顔した。

「兄ちゃん、女たらしやなぁ」

「僕が男前なのは知っている」

 卯月も西尾に挨拶をして、貴一と共に酒屋を出た。


 *

 

 日差しがよりきつくなった道を行くと、田園に伸びる細道の手前に染谷と伊藤がいた。道沿いに建つ家屋の塀の影で日避けをしているようだが、大柄な染谷は体半分以上が直射日光に照らされている。脱いだジャケットを小脇に抱え、汗を吸いすぎて重そうに垂れるハンカチで額を拭っていた。

 卯月は意を決して、二人に歩み寄った。

「もう事件は解決したんですよね。どうして今更、梅原のことを調べてるんですか」

 まさか、梅原ではなく彼の実母が真犯人として浮上したとでもいうのか。

 そんな卯月の不安に気づいているだろうに、染谷は別のことを口にした。

「あんたを待ってたんだ」

「私を? どうして」

「あんた、被害者と仲良かったんだろ」

 杏花の事件の聞き取り調査を受けた際、それは卯月自身が話したことだ。卯月は大きく頷いた。染谷がさらに口をひらこうとしたとき、別の声が遮った。

「卯月くん、その前にこれを」

 貴一が半分に割ったアイスキャンディを渡してきた。咄嗟に受け取ったものの、今貰っても困ってしまう。すでにアイスの表面は溶けていて、今にも雫が滴ってきそうだ。

 染谷は小さく舌打ちをすると、顎で影をしゃくった。

「先に食っちまえよ」

「お気遣いありがとうございます。先輩、いただきます」

「ああ。そこ、影をつめてくれ」

 伊藤が染谷のほうに距離を詰めた。できた影に、貴一が卯月を押し込む。

「あ、私は大丈夫なんで」

 影が足りない。まともな日陰に入るには、酒屋の軒先に戻るしかない。

 染谷がまた舌打ちをして、影から出ていく。開いたところに、堂々と貴一が収まった。

「さすが警察、庶民のために身を挺してくれるとは」

「うっせぇ。さっさと食って、話を聞かせろ」

「口の利き方に気をつけるんだな。今の時代、警察の横暴はかっこうのネタになる。そもそも偉そうな男は嫌われるぞ」

 染谷は不機嫌そうに口をつぐむ。卯月は胸中で首を傾げた。

 染谷と伊藤の二人とは、貴一も少女消失の目撃証言を求められた際に顔を合わせている。初対面ではないから、お互いに何かしら思うところを含んでいてもおかしくはないが、それにしても貴一の態度には引っ掛かりを覚えた。

 貴一は、警察が嫌いなのだろうか。彼と出会って間もないころならば、軽口を叩くなぁくらいの感想しか持たなかっただろう。だが、ひと月間共に行動した今、卯月は貴一の言葉の端々から嫌悪を感じ取ることができた。

 無言のまま、しゃりしゃりとアイスキャンディを食べる。

 ソーダ味のそれは冷たくて、身体と共に卯月の熱した頭も冷やしてくれた。

 ――刑事に食って掛かったところで何も解決しない。

 卯月はできるだけ客観的に考えようとした。杏花の事件から半年が経過した今、梅原について捜査しているのはなぜか。

 アイスキャンディを食べ終えると、卯月は影を出た。染谷に譲ろうと思ってのことだったが、彼は軽く首を振って断った。

「お待たせしました」

「いや、こっちも配慮が足りなかった。熱中症にでもなられたら困るからな」

 染谷はそう言うと、がしがしと頭の後ろを書く。

「守屋卯月、だったか。奥背山に来て二年だったな。あんた、梅原と交流はあったか」

「いいえ。顔を合わせたこともありません」

「一度もか」

 卯月は頷く。奥背山は、少子高齢化が進んでいるとはいえ、その人口はまだ三桁に上る。一度も顔を合わせていない住人は、梅原だけではない。

 そう説明すると染谷が頷いた。納得したのかどうかは、表情からは読み取れない。

「だが、梅原陣のことは聞き知っていた。そうだな」

「勿論です。気をつけるようにって言われましたから」

 つと染谷の目が鋭くなる。

「誰からそう聞いた」

「お隣の山川さんからです」

「具体的に、どう気をつけろと言われた?」

 少し考えてから、ぽつぽつと答える。

「今はどこも物騒だから気をつけて、という話でした。奥背山にも引きこもりで怖い感じの人がいるから、あまり関わらないほうがいいと」

 伊藤が手帳にメモを取る。染谷はハンカチで額をぬぐいながら、さらに質問を続けた。

「梅原陣の母親については、何か聞いているか」

「いいえ、聞いたことがありません。刑事さん、どうして今頃になって梅原陣のことを調べてるんですか。……先日の失踪事件については、解決したんですか」

 後半は極秘事項なので声を潜めた。染谷は素早く周囲に視線を巡らせて、「そっちは目下調査中だ」と言う。それから卯月を見て、何か思案したのちにぽつりとこぼした。

「マザコン」

「はい?」

「梅原の証言だ。梅原は、宝田杏花からマザコンと言われて激昂したと自供している。声をかけたら、開口一番にそう言われたんだと」

「そんなの嘘です」

 杏花を侮辱する発言だと肩を怒らせるが、染谷は構わず続けた。卯月のどんな反応も見逃さないというような視線を寄越しながら。

「さっきの話を聞いてただろ。家庭崩壊の根源になった女で、自分と父親を捨てたんだ。憎んでいてもおかしくねぇ。だが、梅原は会えなくなった母親を恋しがっていた。会えないからこそ、愛されたくて堪らなかったんだとよ。なんでだと思う?」

 卯月は唇を噛む。

「なんでって。いないからこそ、理想的な母親を想像できてしまうんじゃないですか」

「そういう考え方もあんのか。まるで経験したことがあるような口ぶりだな」

 卯月は嫌な心地を覚えて、咄嗟に染谷を睨みつける。彼は気にしたふうもなく目を細め、話を続けた。

「梅原にとって、マザコンというのはトリガーだった。だが、俺は違和感を覚えてしゃあねぇんだ。さっきも話したが、梅原は奥背山で孤立していた。そんな相手に対して、開口一番にマザコンなんて言葉がでるか?」

 ここまで来て、卯月は染谷の言いたいことを察した。

「梅原と杏花ちゃんが、以前からの知り合いだったって言いたいんですか。それも、とても親しい間柄だったって」

「それなら知っててもおかしくねぇし筋は通る。けどな、もしそうだとしたら、なんで出会い頭に罵倒したんだ」

「でも、梅原が嘘をついてるのかもしれません」

「なんで嘘をつくんだ。梅原は現行犯逮捕された。実刑判決も降りて、やつはムショのなかだ。隠しておくことなんか何もねぇだろ」

「刑事さんは、一体何が言いたいんですか」

「筋が通らねぇんだ。刑事の勘だよ。こういうちょっとした違和感をそのままにしておくと、あとからしっぺ返しがくる」

「例えば、犯人は他にいるといった具合にか」

 割り込んできた貴一の言葉に、卯月はぎょっとした。

「そうなんですか? でも、犯人は梅原だって」

「落ち着いてください、守屋さん」

 静かな声で伊藤が口をはさんだ。

「凶器や指紋、殺傷や現場の状況などから、梅原陣が犯人で間違いありません。今回の追加捜査は、あくまで染谷刑事の独断によるもので、確認程度のものです。すでに宝田杏花さんの事件は解決しています」

 言い含めるような口調に、卯月は何度も頷く。事件は解決しているのだ。犯人も梅原で間違いない。だが、染谷は筋が通らないという。

 話を聞いた限り、確かに『マザコン』という言葉をいきなり投げつけるには違和感がある。しかし、だからなんだというのだ。

 杏花は梅原に殺された。それがすべてではないか。

「半年も経っているのに、気になるってだけで調べ続けるんですか」

「まだ半年だろうが」

 真剣な染谷の口調に、息を呑む。

 咄嗟に胸を押さえた手のひらに自分の鼓動が伝わってきて、静かに息を吐いた。

 マザコンという、たった一言。それが引き金になったというのなら、その背景には、卯月の知らない何かがあるのかもしれない。


 ◆◇◆


 私がここへきて、どのくらい経ったのだろう。

 檻のなかで何をするでもなく、ただ過ごす日々。

 時折少女が食事をもってきて、怪我の具合を見ていく。最初こそ少女が来るたびに問い詰めたり、嫌悪感を覚えて診察を拒絶したりしていたが、今ではそれもしなくなった。

 私にとって、少女の来訪だけが唯一の日々の変化だった。

 わかっているのは、ここが地下だということ。これは少女がいつも階段を下りてくることや、周囲から物音が一切しないことから判断した。

 何者かが私を攫ってここに閉じ込めていると考えるのが妥当だろう。

 ここへ来る前の最後の記憶は、買い出しの帰りだった。具だくさん味噌汁を作ろうと、その日半額に値下げされていた野菜をたくさん購入したのを覚えている。

 多少傷んでいたものもあったが、今日中に調理すれば問題ないだろうと考えながら自宅がある住宅街を歩いていた。そこから先の記憶がプツリと途絶えている。

 ごろん、と床に寝転ぶ。檻のなかは清潔だ。床に直接横になっても汚れない。温度は一定に保たれ、空調もよく、水洗トイレもある。

 世話さえされれば、永遠に暮らしていけそうなほどだ。

 ――私は、どうして攫われたんだろう。

 若い男が自分好みの女を育てるために、少女をさらって自宅で監禁していたという話を聞いたことがある。私もそういった理由で攫われたのかもしれない。

 これまで人から褒められてきた顔立ちが、今はただ煩わしい。そんなふうに考えたが、すぐに否定した。だったらどうして左手を切断されたのか。

 未だに痛むときがある。だが、現状の異常さへの不安が左手の消失を凌駕していた。

 私の耳は、近づいてくる足音をすぐに拾った。聞き馴染んでいる、少女の足音だ。

 ドアが開いて明かりがつくと、よい匂いが漂ってきた。彼女は食事の載ったトレーを持ってやってくると、床と檻の隙間からそれを差し入れた。

「ねぇ、あんた名前なんていうの?」

 少女は無表情だ。返事もない。

「名前くらい教えてよ。一人でいたら、狂っちゃうよ。お願いだからさ、呼び名くらい教えてほしい。なんて呼ばれてるの?」

 初めて少女は私のほうへ視線を向けた。

 私より少し年下だろうか。十二歳ほどの彼女は、感情の読めない仄暗い目をゆっくりと瞬く。

「ミヨって、呼ばれてる」

「ミヨちゃんね。ありがとう、教えてくれて」

 ミヨは小さく頷くと、前回持ってきた空のトレーを回収して部屋を出て行った。

 明かりが消える前に、食事の位置と内容を目に焼きつける。暗闇でも落ち着いて食べるためだ。よく噛んで満腹感を持たせながら、すべて食べ切る。

 今後ここを抜け出す機会がきたとき、空腹で動けないなんて馬鹿なことになりたくはない。食欲などあるはずもないが、とにかく体力を落とさないようにしよう。

 ミヨ、と口の中で少女の名前を呟く。彼女と仲良くなって、ここから出して貰えるように頼もう。おそらく、脱出の鍵はミヨにある。

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