第二章【⑥】宝田杏花の事件
奥背山唯一の売店である『にしお酒屋店』は、西尾夫妻が経営している酒屋だ。
酒類やお菓子、アイス、日用雑貨まで、普段使いで重宝する品々が販売されている。
「醤油やみりんって重いじゃないですか。スーパーで買って帰ると大変なので、調味料はここで買うんです」
「通販は使わないのか」
「配達業者さんが嫌な顔をするので、あまり使いません」
どこかわからない。坂道を上がれる気がしない。配達時間頃になっても荷物が届かず自宅で待つ卯月に、そんな連絡がきたことは、一度や二度ではない。
申し訳のない気持ちが先立って、結局卯月は通販をやめてしまった。
「相手も仕事なんだ、気にすることはない――いや、あの坂道はなかなかだったな」
卯月は苦笑しながら、酒屋の引き戸に手をかけた。ガラスの引き戸なので店内がよく見える。カウンター向こうに小柄な老婆――西尾明子が座っており、近くの椅子にスーツ姿の若い男の姿があった。どこかで見た覚えがあるが、記憶が曖昧だ。
ぴこんぴこん。引き戸を引くと、来客を知らせる音がなる。気の抜けた玩具のような音だが、これを聞くとここに来たと実感する。
ひんやりとした空気に、ほっと息をつく。
「こんにちは」
「やぁ、卯月ちゃん。そっちが職場の兄ちゃんか。ほんまに男前やなぁ」
西尾が皺だらけの顔を益々皺くちゃにして、朗らかに言う。傍にいた男が卯月たちに会釈をし、広げていたパンフレットや書類を鞄に片付けはじめた。
「そんじゃ、俺はこれで帰るわ。おばちゃん、ありがとう」
「がんばりや」
男が店から出ていくのを見送り、卯月は西尾の傍へ寄る。
「すみません、お邪魔してしまったみたいで」
「ええんや。話は終わっとってん。いつもの契約更新やわ」
「契約?」
首を傾げる卯月に、西尾はニッと不揃いの歯を見せて笑う。
「心配せんでも詐欺やないで。さっきの子は、内山の倅やわ」
「あ、保険の営業をされてる方ですね」
納得して手を打つ。どこかで見た覚えがあると思ったのは、彼が奥背山の家々を回っているところを何度か見たことがあるからだ。
「人情は大事やさかい、頼まれたら入らんとなぁ」
「隣の山川さんもおっしゃってました。仕事も丁寧だし、孫みたいで可愛いって」
「せやねん。可愛いやろ、癒やしやわぁ」
西尾の視線が、戸口の傍で立ち尽くしている貴一へ向く。
「兄ちゃんもこっちきい。卯月ちゃんも座りや」
「お言葉に甘えて、座らせていただきます」
卯月は二人掛けの椅子に腰を下ろすと、隣の席に敷かれた煎餅のような座布団をぽんぽんと叩く。貴一がしぶしぶといったように、その座布団に腰を下ろした。
奥背山の住人は高齢者が多いため、店内にはいくつか椅子を置くようにしている。というのは西尾の言い分だが、実際には来客と世間話をするためだろう。
「外、暑かったやろ」
「すっごく」
力強く答えた卯月に、西尾が目を細めた。カタカタと叫ぶ緑色の扇風機が、西尾のふんわりと盛り上がった髪を揺らしていた。
「奥背山の歴史を知りたいんやてな」
「……なぜ知っている」
貴一がぼそりと呟くと、西尾がおかしそうに声をあげた。
「びっくりしたやろ。奥背山は狭いさかい、あっちゅう間に広がるんや」
「早すぎる」
「なんの話ですか?」
訳が分からず尋ねると、西尾が答えてくれた。
「卯月ちゃんが、奥背山の歴史を調べとる。そのことを、わしが知っとったやろ。それを驚いてはるんや」
「あ、そっか」
奥背山では、とにかく話がすぐに広まる。越してきた当初こそ驚いたが、今では当たり前になっていた。そもそもの話、自宅で山川に事情を話したときには、一日足らずで奥背山の住人のほとんどに話が伝わるだろうと確信があった。
山川が広めてくれるなら、むしろ有り難い。噂というのは、最初に話した者の感情が大きく反映するからだ。
「すっかり卯月ちゃんも奥背山の人間やなぁ」
「なんだか誇らしいです」
胸を張ると西尾が破顔する。
「あの、よかったらなんですけど。西尾さんにも、奥背山についてお聞きしたいんです」
「具体的には、集落独自の文化や事件など、特殊なことがあれば教えてもらいたい。どんな変わったことでも構わない」
貴一が付け足す。西尾に対してはなぜか強気のようで、いつも通りの態度だ。西尾の大らかで人に好かれる性分を感じ取ったのだろうか。
「せやなぁ。ここいらで事件いうたら、昨年の杏花ちゃんのことやろか。かわいそうになぁ、まだ若いのに」
真っ先に杏花の名前が出たことに、卯月は静かに力を抜いた。まだ杏花は西尾の記憶にいるのだ。
「他にはどうですか」
貴一がちらりと卯月を見たあと、尋ねた。
「そういえば、戦時中にも何やえらい騒ぎがあったわ。わしはまだちいこくてな、よく覚えてへんのやけど、誰も当時のことをしゃべらんのや」
視線を空中に漂わせていた西尾が、ふと振り返った。
「わしが嫁ぐ前の日、父に聞いたんや。昔、この辺りで起きた事件はなんやったんや、って。実家を出るんで、昔の想い出に浸ってたら、小さい頃のことを思い出してな」
「お父さんはなんておっしゃったんでしょう」
卯月の質問に、西尾はため息をついた。
「えらい叱られたわ。『縁起でもない話はするな、うちまで呪われたらどうするんや』て。それ聞いて怖なってもうてな、それ以上聞けんかった。八十過ぎとるわしですら、幼かったからなぁ。当時のことを知っとるやつはおらんのちゃうか。あ、水縁なら知っとるかもしれん。わしよりも六つ年上なんや」
卯月はそれらをメモに取りながら、次の質問を考える。
ぴこんぴこん。何気なく戸口を振り返ると、厳めしい顔をした黒いスーツ姿の男と、グレーのパンツスーツ姿の美女がいた。
あ、と思わず声が漏れる。先日、卯月たちが事情聴取を受けた際の刑事たちである。確か男のほうが染谷、女のほうは伊藤だ。彼らも卯月たちに気づいたらしい。
「あんたら、この前の――」
「ゴリラと美女の刑事コンビか」
染谷の声を遮るように、貴一が声をあげた。
「ちょっ、先輩。そんな正直に言っちゃだめです」
慌てていたせいで失礼を重ねてしまう。咄嗟に口を押さえる卯月を、染谷が睨んだ。
「まぁまぁ落ち着いてくださいよ、染谷さん」
伊藤が体を割り込ませた。
「お久しぶりです。明智さん、守屋さん。お二人は変わらず美しいですね。いやぁ、目の保養になります」
「おい、やめろ。今のご時世、色々うるせぇんだよ」
「セクハラだって言うんですか。別に抱き着きたいとか言ってないのに」
「もう黙ってくれ。なんで俺が、お前なんかとバディを組まなきゃなんねぇんだ」
二人は西尾の前へ進むと警察手帳を見せて名乗り、話を聞きたいと申し出た。
卯月たちは割り込まれた形になったが、相手が警察なので黙って譲ることにした。椅子に座り直すと、染谷が忌ま忌ましそうに卯月たちを見た。
「おい、映画じゃねぇんだ」
目の前で事情聴取が行われるのだから、特等席に相違ない。しかしいくら刑事でも、卯月らを追い出す権限はないはずだ。
「営業妨害や。客に文句言わんでくれへんか」
西尾が染谷を睨み、彼は憮然としながらも「失礼した」と謝罪した。
「今、奥背山の住人に聞き込みをしてるんだ。あんたにも話を聞きたい。西尾さん、あんた奥背山では大の情報通なんだって」
「なんの聞き込みや」
首を傾げた西尾に、答えたのは伊藤だ。
「宝田杏花さんが殺害された事件について、調査をしています。犯人である梅原陣の母親についてお聞きしたいのです」
卯月は思わず伊藤を見た。なぜ、杏花の事件を調査する必要があるのだろう。すでに梅原陣は逮捕されているし、本人が控訴しなかったことで、実刑判決が確定している。
西尾はまじまじと伊藤を見たあと、染谷を見た。
「なんでそんなん聞くねん」
「被疑者について知るのも仕事の一環なんだ」
西尾は曖昧に頷いた。納得できていないのは一目瞭然だったが、深く尋ねるつもりもないらしい。
「それで、何を話せばええんや」
「梅原陣の母親は、どのような人物でしたか」
伊藤が尋ねる。どうやら質問は彼女の役割らしい。
「まだ若い嫁さんで、べっぴんさんやったわ。せやからこそ、奥背山の暮らしに耐えられへんかってんやろ。はように他に男作って出ていったわ。陣ちゃんが生まれた頃は、ここへもよく買い物に来てたけどな」
「梅原陣は、母親のことをどう思っていたかご存じですか」
「さぁ。恨んでたんちゃうか」
「なぜそう思われるんですか」
伊藤の確認に、西尾が食い気味に答えた。その声音は興奮とも憐憫ともつかない色を乗せている。ただ、噂好きの人特有の喜色はない。
「勝治の坊……ああ、勝治いうんは陣ちゃんの父親や。その勝治の坊がおかしなったんは、嫁さんに捨てられてからなんや」
梅原勝治については事件当時『毒親』として報道された。梅原陣が世間から同情を買うことになった理由の一つだ。卯月は目を伏せる。
「勝治の坊はな、嫁さんが出ていくまでは、すれ違うと笑顔で挨拶するええ子やってん。陣ちゃんが小さい頃は、ほんまに幸せそうな家族やってんで。やのに、ろくでなしになってもうた」
「ろくでなし、というと、具体的にはどういったことですか」
「昼間から酒ばっかり飲んで、ろくに働かんようになってもうた。ついにおかしなったて確信したんが、いっちゃんの葬式のあとや」
誰のことだろう、と耳を傾ける。
どうやら、いっちゃんというのは勝治の父、つまり陣の祖父にあたる人物のようだ。
奥背山の発展に尽力した誠実な人物で、葬儀には奥背山の住民の多くが駆けつけたという。皆、ショックだろう勝治に温かい言葉をかけた。その日の勝治はまっとうに見えた。
最初におかしいと感じたのは、葬儀の香典返しがなかったときだ。田舎では、そういった義理が重視される。勝治がそのことを知らないはずがない。さらに葬儀の翌月から自治会費を支払わなくなり、家にゴミを貯めこむようになった。
ゴミを捨てられないのではなく、捨てに行くのが面倒くさいという理由からだった。
西尾は淡々と語り、首を横に振る。
「借金でもこさえて苦労してるんかと思ったが、いっちゃんの財産をまるまる受け継いだとかで、かなりの資産があったらしいわ。土地もぎょうさん持っとるしな」
「梅原勝治は、妻が出て行ったことで心を病んだ。そこに父親の死が重なった」
染谷が無表情を崩さず、淡々とした声で尋ねた。
西尾は頷き、深く長いため息をつく。
「杏花ちゃんの事件があってから、テレビやら雑誌やらで、奥背山では村八分があったとか言われとるけどな。ほんまは、勝治の坊から離れていったんや」
集会に顔を出さない、自治会費が支払われない。そうなると、回覧板を回すことすらできない。たとえ回覧板を渡したところで、ゴミに埋もれるだけで次に回すことをしないのだから、どうしようもない。せめて話し合いをと尋ねても、罵倒を浴びせて門前払い。
改めて考えると、梅原の家が奥背山で孤立するのも無理からぬ状況だったのだ。
「それは、どうしようもありませんなぁ」
渋面の染谷が同意を示し、西尾は昔を眺めるように目を細めた。
「結局、勝治の坊は陣ちゃんが大学の頃に首をくくって死んでもうた。陣ちゃん、いつの間にか大学辞めてもうてな。財産食い潰して暮らしとる聞いとったわ。……陣ちゃんもかわいそうな子やったわ」
西尾は眉をひそめて、空中をぼうっと見つめる。
「宝田の坊と勝治の坊は同級生でな。二人ともひとりっ子で気が合うたみたいやわ、仲良かったんやで。……せやのに、なんで、こんなことになってしもたんやろ」




