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第二章【⑤】宝田杏花の事件

 公造の軽トラックを庭先で見送りながら、卯月たちも坂を下りて行く。

「集落には、そんなに祭りがあるのか」

 卯月は首を横に振る。

「私が奥背山に越してきた二年前には、すでになかったので。……祭りがなくなった、というのはなんだか不吉な気がします」

 祭りには遙か昔から、特別な願いを込められてきた。

「ところで卯月くん。さっき、しきりに家の奥を気にしていたようだが何かあるのか」

「なんのことですか」

「宝田氏との話が終わった頃だ」

 そう言われて、卯月は納得した。

「おばさんの姿が見えないかな、と思ったんです」

 杏花の母は、事件のあとずっと臥せっている。公造がなるべく自宅にいて彼女を介抱しているというが、やはり心配だった。

「私、杏花ちゃんの家族を見るのが好きだったんです。私にとって理想的な、幸せいっぱいの家庭でした。杏花ちゃんの笑顔も大好きで。……本当に良い子で」

 卯月が杏花と最後に話をしたのは、彼女が殺害された日の朝のことだ。卯月は役場へ行くために、バス停を目指して歩いていた。そこに、自転車に乗った杏花がやってきたのだ。通学途中の彼女は自転車を降りて、卯月の隣に並んだ。

 いつものように他愛ない話をして、そろそろバス停に着こうかというとき。

 ――『お姉ちゃん、あたし、進路で悩んでるの』

 小さく唇を尖らせてそう言う杏花を、卯月は微笑ましいと感じた。

 進路について悩むなんて、自分にはなかったことだ。中学を卒業してからは地元の工場で事務の仕事をすることが決まっていて、選択肢などなかったから。

 もじもじする杏花は続きをなかなか話そうとせず、ついにバスがきた。

 ――『次に会ったとき、相談に乗るから』

 卯月はそう言って、自分の用事を優先した。バスに乗り込み、自転車を止めてこちらに手を振る杏花に手を振り返す。いってらっしゃい、とお互いに言い合って微笑んだ。

 それが、卯月が見た杏花の最後の姿だった。

 結局卯月は、杏花が将来何を目指しているのか知らないまま、彼女の葬儀に出た。宝田夫妻はまだ杏花の死を受け入れられないようで、卯月もそれは同様だった。全部嘘で、悪い夢で、ひょっこりと「嘘でした」と笑いながら杏花が現れる気がした。

 だが、葬儀の終盤。献花を棺に供える頃だった。

 棺に横たわっているのは間違いなく杏花で、化粧を施されているものの、青白く冷たい皮膚は死人のそれで。献花が終われば、杏花が去ってしまう。ここからいなくなってしまう。当然だ、そのための葬式なのだから。

 ――これは、別れの儀式なのだ。

 そう悟った瞬間、渇いていた心が熱く震え、悲しみの渦が腹の底から込み上げて目から溢れた。行き場のない激情を嗚咽と共に吐き出しながら、卯月は宝田夫人と抱きしめ合って泣いた。彼女も卯月同様、棺で眠る杏花を見て娘の死を理解したようだった。


 *


「ぼうっとしているな」

 貴一の声で我に返った。蘇る熱に気づかないふりをしながら、卯月は謝罪する。

「次は、情報通の西尾さんのところへ行きます」

 貴一が頷きながら携帯電話を見て、顔をしかめた。

「これだから田舎は嫌なんだ」

「大丈夫です、中央道に出れば繋がりますから。多分」

 坂道を下り終えると、無事に電波が繋がった。

 しかしその電波も時々途切れるからか、結局貴一は携帯電話をポケットに押し込む。もとはいえ、彼の眉間の皺が深くなったのは、陽射しが強いせいもありそうだ。

「この近くに、小休止にちょうどいい木陰があるんです。一度そこへ」

 行きましょう、と続くはずの言葉を飲み込んだ。

 目当ての木陰に、二人の先客がいたのだ。

 中央道に繋がるあぜ道があり、そのあぜ道が大きく広がって広場のようになっている箇所がある。そこには大きな桜の木が立ち、青々と茂った葉が木陰を作っていた。側にはザリガニが捕れる小川があって、涼むには絶好の場所なのだ。

「先客がいるな。こちらに気づいているようだ」

 貴一の言うように、桜の木の陰で涼んでいる二人が卯月たちを見ていた。

 卯月は迷ったすえに、静かに息を吐いた。

「このまま、会釈だけして通り過ぎましょう」

 貴一が訝っている気配がしたが、無視を決め込んで歩き続ける。

 二人の側を通り過ぎる際、卯月は会釈をした。すると、二人のうちの片方、横井幸子が会釈を返した。恰幅のよい四十代の女性で、ヘルパーとして奥背山に通っている。彼女は車椅子の取っ手を握りしめており、その車椅子には芦山トヨが座っていた。よそ行きの花柄のシャツを着て、上品なチェック柄の布を膝に掛けている。

「まだおったんか」

 芦山トヨの苛立ちがこもった声で、空気が張りつめた。

 卯月は内心の緊張を押し隠しながら、笑顔で芦山を振り返る。

「こんにちは、芦山さん。横井さんも」

 横井が笑顔で挨拶を返すが、芦山は目を吊り上げて睨んでくるばかりだ。

「あ、紹介します。こちら、職場の先輩の明智です。今、奥背山の歴史を――」

「はよ出て行け」

 敵意のこもった声が、卯月の言葉を遮る。その力強さに小さく体を震わせる。咄嗟に黙り込むしかできず、慌てた横井が窘めるように芦山さんと呼ぶ。

 芦山は取り合わず、さらに目くじらを立てて卯月を睨みつけた。

「よそ者は信用できん、出ていけや」

 そうおっしゃらず、仲良くしてください。よろしくお願いします。越してきたからずっと、そういった言葉を重ねてきた。しかし、今では卯月も仲良くすることを諦めた。公造や山川から、芦山が余所者を嫌う理由を聞いたからだ。

 だが悪罵を浴びることに慣れるはずはなく、こうして敵意を向けられるたびに、胸の痛みを笑みで必死に隠す。いつものように、タイミングを見計らって立ち去ろう。

 そう考えていた卯月は、芦山が続けた言葉にぎょっとした。

「こいつは泥棒や。うちに盗みに入っとる犯罪者なんや」

 泥棒呼ばわりされたのは初めてだ。言葉を失う卯月を見て、横井が顔を青くした。

「言い過ぎです、芦山さん。卯月ちゃんに謝ってください」

「なんで泥棒に謝らなあかんねん。奥背山から出ていけ言っとるんや!」

 このままでは、芦山と横井の関係まで悪化してしまうかもしれない。慌てて一歩踏み出した卯月の肩を、大きな手が軽く叩いて引き留める。

「穏やかではありませんね」

 貴一の声が響き、卯月を含めた全員が振り返る。彼は芦山の側へ歩み寄ると目線を合わせるように身を屈めて、彼女に語りかけるように話す。

「あなたの訴えから、切実さを感じました。何があったのか、彼女を泥棒と呼ぶ根拠を教えて頂けませんか」

「な、なんやのあんたっ。あたしは、顔のいい男は信用せぇへんのやっ」

 芦山が顔を反らす。だが、ちらちらと貴一の顔を見ると、鼻息荒く前に向き直った。

「そこまで言うんなら、教えたるわ」

「ぜひご教示お願いします」

 貴一の穏やかな微笑に気を良くしたらしく、芦山は満足そうに笑って話し出した。

 芦山が部屋の異変に気づいたのは、デイサービスから帰宅した夕方頃だという。玄関付近やリビングに置いてある物の配置が換わっていたのだ。

「具体的には、どういったふうに代わっていたのですか」

「玄関の靴の位置やな。それから、裏返しておいた写真が起こしてあった」

 芦山があげるのはどれも些細なことだが、卯月が思っていたより遙かに具体性がある。

「盗まれたものはありますか」

「今はあらへん。けど、時間の問題やわ。あんた、うちの押し入れに触りよったやろ」

 あんた、というのは卯月に向けての言葉である。

 覚えのない卯月は首を横に振るものの、芦山は露骨に嫌悪を浮かべるだけで、卯月が犯人と決めつけているようだ。

「押し入れには、大事なもんをしまっとる。大方金庫が目的なんやろ」

「それは盗まれたのですか」

 貴一の質問に、芦山が鼻で笑う。

「アホ言わんといて。厳重に施錠しとる。せやから、手を出せんで帰ったんやろ」

「つまり、押し入れが開かれた根拠がある、ということですね」

「せや。あそこは建て付けが悪いからな、開きやすいようにいつも少し空けてあんねん。それがあの日、閉まってたんや」

 貴一が神妙に頷くと、芦山がさらに続けた。

「それだけやない。あたしを殺そうとしてん。毒殺や」

 卯月は息を呑む。芦山の口の端が震えていた。触れれば折れてしまいそうな皺だらけの手を、強く握り込んでいる。

「うちのシチューが変な味やってん。舌がビリビリしたからすぐ吐き出したんやけど、飲み込んでたら死んでたわ」

 貴一はそのあとも幾つか芦山から話を聞くと、次に横井を手招いて少し離れたところへ移動した。その際、卯月も呼ばれたので慌てて駆け寄る。

「卯月ちゃん、ごめんなさいね。芦山さん、思い込みが激しいのよ」

 卯月は横井を安心させるように微笑んでみせた。ほんの少しだけ頬が引き攣ってしまうけれど、誤魔化せているだろう。

 けれど、本当に『思い込みだから』と決めつけていいのだろうか。芦山の表情には、嘘偽りのない恐怖が浮かんでいたのに。

「横井さん、でしたね。明智と申します」

 貴一が改めて自己紹介をすると、横井が姿勢を正して頭をさげた。

「窃盗や殺人となれば、穏やかじゃない。あなたの意見を聞かせて貰えませんか」

「私の意見、ですか。はぁ、何をお話しすればいいんでしょう」

「物が移動していたというのは、事実ですか」

「私にはわかりません。物の配置も、私は覚えてませんし。覚えていても、芦山さんが動かしたものかもしれません。私には判断がつきかねます」

「襖の件は、警察に連絡されましたか」

「まさか。和室にある襖のことなんですけどね。芦山さん、頻繁にあそこを開けるんですよ。だから、自分で間違えて閉めてしまったのを、誰かの仕業だって勘違いしてるんだと思います」

 横井の話は納得のできるものだった。

 貴一がシチューについて尋ねると、やはり横井は否定した。

「あの日は、今日みたいに暑い日でした。シチューは、前日に作ったものだったんですよ。冷蔵庫で保存しておいてほしいって言ったのに、常温で置いてあったんです」

「当日、あなたもいらしたんですか」

「ええ。私がそのシチューを温め直して、出したんです。そしたら味がおかしいって言うもんだから、私も味を見たんです」

「横井さんも食べたんですか!」

 思わず声をあげる卯月に、横井は苦笑いする。

「どうせ、私を困らせたいんだろうって思ったのよ。いつも大袈裟に言う人だから。味見をして何もなかったら、そのまま食べてもらおうと思ったんだけど」

「それで、味は如何でしたか」

 貴一の問いかけに、横井は自嘲気味に笑う。

「確かに味が変わってました。傷んでたんですよ。でも、舌が痺れるは言い過ぎです」

「最後に、芦山さん宅の防犯についてお尋ねしたいんですが」

「ああ、それならしっかりなさってますよ。芦山さんは偏屈な方ですけど、奥背山では垢抜けているというか。外出時の服装も整えておられますし。田舎だからといって鍵を開けっぱなしになさることはありません。ご在宅の際も鍵をかけておられるんですよ。なんでも昔、息子さんの借金取りがきたことがあってから、習慣になったと聞いています」


 *

 

「随分と詳しく聞きましたね」

 次の目的地へ向かう道すがら、卯月は貴一に目を向けた。彼は真剣な顔をしかめる。

「卯月くんがはっきりと反論しないからだ。大きな騒ぎになったとき、なぜ否定しなかったのかと指摘されたらどうする」

「もしかして私のために事情を聞いてくれたんですか。興味本位じゃなくて」

「興味本位なわけないだろうが!」

 不機嫌な顔になる貴一に、卯月は「すみません」と謝罪した。

「言葉に心がこもってないぞ」

「以前から思ってたんですけど、先輩って優しいですね」

「知っている」

 真顔で頷かれて、卯月もなんとなく真面目な顔で頷き返した。

 時雨がいたら、何やってんのと笑うだろうが、あいにくここには二人しかいない。

「芦山さんは独身なんです」

 卯月は声を落として口をひらいた。

「独身で出産してから、お一人で息子さんを育ててこられたんです。結婚を誓った男性がいたそうなんですけど、出産ギリギリになって都会の女性と駆け落ちをしたとかで」

 貴一は眉をこれ以上ないほどひそめたまま、何も言わない。

「芦山さん、そのことでご両親に勘当されたらしいんです」

「なぜだ」

「……他に、ご両親が決めた婚約者がいたらしいんですよ」

 沈黙が降りる。ややのち、貴一が鼻を鳴らした。

「確かに時代を考えると相当苦労しただろう。だが、卯月くんに八つ当たりをしていい理由にはならない」

「それから、芦山さんの最愛の息子さんなんですが」

「まだ何かあるのか」

「都会の若い女性に騙されて、多額の借金を背負わされたらしくて。息子さんは自己破産後に自殺未遂を起こして、今も入院中なんですよ」

 貴一は益々不機嫌そうに顔をしかめた。

「親子二代で、都会の若い女に煮え湯を飲まされたのか」

「なので、芦山さんが私を警戒するのも仕方ありません。実際に余所者ですから」

 卯月は自分に言い聞かせるように頷いた。

 万人に好かれることなどありえないとわかっているし、卯月はすべてを受け入れてでも、奥背山で暮らしていくと決めた。だから耐えられる。耐えてみせる。

「……卯月くんが受け入れているのなら、僕は何も言わない」

 貴一は、卯月の頭をぽんぽんと撫でた。


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