第二章【④】宝田杏花の事件
「そういえば、何か感じますか」
舗装された坂道を上りながら、卯月は貴一に尋ねる。彼はグレーのハンカチで額の汗を拭いながら、息を吐いた。
「ああ、ずっとぞわぞわする」
「ぞわぞわ、ですか」
「よい気配じゃない。土地が呪われているような感覚だな」
知りたくなかった。卯月のなんともいえない視線を受けて、貴一が「きみが聞いたんだろうが」とふてくされたような声をあげた。
「それにしても、まだ着かないのか。ああ、ここか」
少しあがったところの左側に、竹を組んで作られた垣根が覗く。瓦屋根の大きな屋敷で、広々とした庭に軽自動車が止めてあった。
「ここは違います。突き当たりまで行きますよ」
「そうか。……こっちか」
「現実逃避しないでください。突き当たりですって」
そんな問答をしながら向かうのは宝田家だ。今日は、奥背山でも代表格といえる三人に話を聞く予定になっている。その一人が、杏花の父親でもある宝田公造だ。
公造は奥背山の世話役というリーダー的な立場にあり、困ったことがあれば公造さんに相談を、というのが暗黙の了解となるほどに慕われている。
公造の穏やかな人柄を思い出して、卯月は微笑んだ。
「いいのか」
「何がですか」
振り向くと、貴一は言いにくそうにもごもごと口を動かしながら話し始めた。
「きみの友人の自宅だろう。行くと、色々思い出すんじゃないか」
彼は事務所でも卯月を気に掛けてくれていた。早くからデスクについていたのも卯月を気遣ってのことかもしれない。考えすぎかな、とくすりと笑う。
貴一の不機嫌そうな鼻息が聞こえた。
「僕は本気で心配してるんだ」
「ありがとうございます、大丈夫です。事件のあと、何度も杏花ちゃんの家には足を運んでますから。ご両親が塞ぎ込んでいて、買い出しや家事を手伝ったりしていたんです」
明るく答えてから、卯月は声を落とす。
「世間って残酷ですよ。何も知らない人たちが杏花ちゃんを悪く言うんです。夜中に帰宅する不良娘だとか、善意で声を掛けた男を馬鹿にする勘違い女だとか」
眉をひそめた貴一が、酷いなと言漏らす。
「今は落ち着いているのか」
「少なくとも世間の感心は、他へ移ったみたいです」
まるで流行でも追うような世間の有り様に、鬱屈としたことを思い出した。
口を開くと皮肉を重ねそうで、そっと視線を下げる。こんな態度では、杏花の両親に顔向けできない。卯月は、あえて明るい声を出した。
「杏花ちゃんは、私のことを『お姉ちゃん』って呼んで慕ってくれていました。彼女と水縁さん――奥背山の住職さんなんですけど、のおかげで、奥背山に馴染むことができたんです。近くの住人たちに私のことを紹介してくれて」
高齢者ばかりの奥背山では、最年少の杏花は皆から孫のように可愛がられていた。素直で明るく、気の利く彼女の性分も好かれる所以だっただろう。その杏花が連れてきた卯月のことも、住民たちは快く受け入れてくれたのだ。
坂道を登り切ると視界が開けた。広々とした庭の手前に、舗装された駐車スペースがある。軽トラックが止まっているが、さらに五台は止められそうだ。
手前には土蔵。白い壁が夏の光を鈍く反射している。その向こうに建つ、瓦屋根の木造古民家が母屋だ。
奥背山はどの家屋も古式ゆかしい立派な日本家屋だが、宝田の家は殊の外立派だ。
杏花から聞いた話によると、宝田家はもともと奥背山では名家とされていたうえに、公造から数えて三代前の当主が工場経営に着手し、大成功を収めたという。
けれど時代の流れとともに工場経営は行き詰まり、現在はM町に小さな工場を一つ残すだけになった。宝田邸が立派なのは、裕福な時代の名残だという。
感傷的になるのを懸命に堪えながら、中庭を横切っていく卯月の腕を貴一が引いた。
「おい、玄関は向こうだろう」
貴一が正面玄関を示す。
そちらには昔ながらの玄関ドアがあり、墨色の趣ある柱に表札がかかっている。濃茶色のインターフォンがあって、庇には防犯カメラが設置してあった。
「こっちに勝手口があるんです」
卯月は迷うことなく、宝田家の勝手口から土間へ上がる。上がり框に半身を乗り出して声を張り上げた。
「こんにちは、卯月です。おじさん、おばさん、いますか?」
「いきなり声をかけていいのか」
「奥背山では留守でも鍵を掛けない家が多いので、こうやって声をかけるんです。これで返事がなければ留守ってことですから」
「このご時世にか。不用心にもほどがあるぞ」
「そういえば、防犯を意識するようにって回覧板にも書いてありました。うちも防犯カメラを置いたほうがいいかも」
貴一は勝手口を見張るように設置された防犯カメラを軽く睨み、渋面をつくる。
「鍵をしめずに、何を見張るつもりなんだ」
「鍵なんて、泥棒が本気で入ろうとしたら簡単に外されますよ」
「ものによるだろう。というか、だからといってガバガバでどうする」
貴一が呆れたようにそうこぼしたとき、奥から足音が近づいてきた。
現れたのは、痩せぎすな壮年の男――宝田公造だった。やつれた表情に浮かぶ笑みが、卯月を見ると明るくなる。だが、隣の貴一に気づいた瞬間、笑みが引いた。
「おじさん、こんにちは。今から仕事ですか」
公造はグレーの作業着姿だ。彼は自宅と工場を往復する生活を送っていたが、最近は姿を見る機会も増えていた。
「今日はこれから、夢村さんのとこへ片付けの手伝いに行くんやわ」
「夢村さん、ってスミさんのところですね」
夢村夫妻とは、週に一度の移動販売で何度か会って会話を交わしたことがある。そのときの記憶を頼りに卯月が言うと、公造は軽く頷いた。
「そうそう。介護のために息子さんが帰ってくるんやて。夢村さん大喜びでな、息子夫婦が暮らす離れを片付けるんやて」
公造は視線を貴一に向けて、すぐに卯月に戻した。瞳には警戒心が浮かび、表情は強ばっている。
「ところで、なんか用か」
「じつは今日、おじさんに奥背山の歴史についてお伺いしたかったんです。紹介が遅れてすみません。こちら会社の先輩で、明智といいます。今回、私の指導役なんです」
卯月の紹介に合わせて、貴一が一礼する。公造の表情が和らいだ。納得したように頷くと貴一に自己紹介をして、改めて卯月を見た。
「就職おめでとう。人伝に聞いたきり、なんも祝ってへんかったなぁ。前はよううちにも遊びに……」
途切れた言葉は発せられないまま、公造の視線が遠くを見る。
だがそれも一瞬で、わざとらしく明るい声を出した。
「奥背山を調べるなんて、なんの会社なん?」
「土地に関するリサーチ会社です。依頼に応じて歴史や風習を調べているのですが」
当然、作り話だ。調査で不審に思われないための芝居だが、公造の表情は決して明るくない。ふと、貴一は苦笑を浮かべて、視線をずらした。
「まぁ、見た目は怪しくないつもりなんですが」
「変わった仕事やなぁ」
公造は肯定も否定もせず、貴一をじっと見る。
「歴史なんて、おたくさんに依頼せんでも本に載ってるんちゃうか」
「もちろん、報酬に見合った情報を提供させて頂いております。詳しくは話せませんが、今回はご依頼主様が個人的に興味を持たれておりまして。報告書としてまとめてほしいそうです」
「ははぁ、なるほどなぁ」
公造は納得したように頷き、にやりと笑う。
「資産家の趣味やな。余生で好きなことやりたい、ってとこか。郷土資料でも作って図書館に寄贈し、生きた証を残したいんやろ」
「そうして資料が増えれば、図書館も充実していきます。郷土資料は貴重ですから、重宝されるでしょう」
「じゃあおたくらの仕事は、将来の市民のためでもあるってことか」
「その通りです」
公造が笑い声をあげる。ひやひやと見守っていた卯月は、ほっとした。
「わかった、俺も協力するわ。けど、昔の話やったら水縁さんのほうが詳しいと思うで」
「水縁さんにも伺う予定です。でも、おじさんしか知らないことがあるかもしれません。私、おじさんが皆から頼りにされてるの知ってますから」
卯月が期待を込めて言うと、公造はまんざらでもないように微笑んだ。
「せやかて、歴史となるとわからんのや。通り一遍のことでもええか?」
「勿論です。我々には貴重な情報ですから」
貴一が促すと、公造は「そうか」と呟き、しばらく考え込むような間を置いて、ぽつぽつと語り始めた。
「奥背山は、カミ様が守ってくだっている、有り難い土地なんや。オヤジが、カミ様のおかげで毎日平和に過ごせるんやて、よう言うてたわ。……懐かしいなぁ、昔は季節ごとに大きな祭りがあってな」
「お祭りがあったんですか?」
驚く卯月に、公造が苦笑した。
「今はもうあらへんけどな。あの頃は、家のあちこちで柿を見たわ」
呟くような声が、土間に柔らかく響く。
「祭りには、柿が欠かせへんのや。どの家も、干し柿や瓶詰めにして、一年中切らさんようにしててなぁ。昔、つまみ食いしてえらい叱られたことがあったわ」
「柿を供える祭り、というのは珍しいですね」
興味深そうな貴一に、公造が頷く。
「柿を供えんと呪われる、言うやつもおるくらいや。カミ様の好物ちゃうやろか」
声には、どこか懐かしさを含んでいた。話が供え物に及ぶと、目尻がゆるんでいく。
一方で、卯月は背筋に冷たいものを覚えた。不成柿は人々を救う木だと思っていた。だが、奥背山では、柿そのものに何かしら意味を持たせているようだ。
そう考えた瞬間、これまで美しいと思っていた奥背山の柿畑が、得体の知れないもののように思えた。
「そういや昔、偉い学者の先生が学術調査に来はったことがあってな。奥背山は祭りがやたら多いて、感心してはったわ。もう十年以上前やけどな。当時は季節の祭りに加えて、地区ごとの祭りもあって、年がら年中、何かしらの祭りの準備をしとったんや」
ふと、公造が時計を見た。
「そろそろ行かなあかんわ。俺が話せるんはこのくらいやし、やっぱり、水縁さんに聞いたほうがええ。あそこは代々、奥背山の名主やからな」
公造はそっと卯月の隣を過ぎ、靴に足を滑らせた。




