第二章【②】宝田杏花の事件
「よし」
卯月は事務所の前で気合いをいれる。
K市の調査を始めて一か月。昨日無事に、奥背山以外の調査を終えた。
この一か月は『全力で仕事に取り組めばぎりぎり終わる量』の仕事が毎日振り分けてあった。帰る頃にはへとへとだが達成感のある心地よい疲労なので、ぐっすり眠れば翌日に疲れを引きずることがない。
時雨は、仕事を振り分ける采配がとにかく優れていた。一度、どうして一日の仕事量をぴったり振り分けることができるのか、尋ねたことがある。すると彼女は当たり前のように、「初日に伝承調査を頼んだとき、報告書を見たからね」と答えた。たった一日で卯月の実力を把握していたのだ。
事務所の呼び鈴を鳴らすと、時雨が笑顔で出迎えてくれる。おはようございます、と挨拶を交わして玄関をくぐった。
事務所の鍵は、時雨だけが所持している。
卯月と貴一は呼び鈴で事務所にいる彼女を呼び出し、鍵を開けてもらうのだ。
事務所にはすでに、貴一がいた。
いつもは早く出勤してもギリギリまで仮眠室でゲームをしているのに、珍しい。
「おはようございます、先輩」
「おはよう」
卯月がデスクにつくと、時雨が意気揚々とホワイトボードを引っ張り出した。
「ついに今日から、奥背山の調査だ。さっき明智くんにはちょっと話したけど、今日からとある事件も含めて調査してほしい」
時雨がホワイトボードにペンを滑らせる。
――『宝田杏花刺殺事件』
そこに書かれた言葉に、息を詰める。時雨は後ろを向いたまま、事件の概要を綴っていく。貴一が気づかわし気に視線を寄越したので、大丈夫だというように首を横に振った。
「今後は私も時間を作って調査に加わるようにするけど、しばらくはこれまで通り二人で頼むよ」
「所長はまだお忙しいんですか」
「毎日割り当てられた仕事があるからね。夏休みの日記みたいなもので、その日じゃなきゃできないものがあるんだ。それを今、先取りで仕上げてるところ」
「日記を、先取りで」
そんなこと可能なのだろうかと、つい言葉を繰り返してしまう。
「大丈夫。私は夏休みの宿題を最初の日に終わらせるタイプだったから。日記もね」
謎の自信に胸を張った時雨は、ふと表情を改めた。
「この事件、卯月ちゃんは知ってるんじゃないかな。約半年前、奥背山で暮らす十八歳の女子高生が、帰宅途中に同じ集落で暮らす男性に刺殺された事件だ」
「勿論、知っています」
当時のことを思い出し、唇を噛む。
時雨は静かに事件の概要について説明を始めた。
宝田杏花刺殺事件は、当時十八歳だった宝田杏花が学校からの帰宅途中に、同じ集落で暮らす梅原陣に刺殺された事件だ。
パチンコからの帰り道、梅原は下校中の杏花を見かけて声をかけた。十月も半ばの時期、すでに辺りは暗く、知り合いであったことから梅原は「送ってやる」と声をかけたという。しかし梅原が地元で素行不良が目立つ存在であったことから、杏花はこれを拒否。
逆上した梅原は持ち歩いていた折り畳み式ナイフで、怒りのまま数回に渡り杏花の顔や腹を刺した。
梅原は自ら警察に電話をかけ、現場に駆けつけた警官によって現行犯逮捕される。
「梅原は、もともと奥背山で浮いた存在だったらしい。というのも、彼の父親が原因でね。今は他界しているけど、生前はひどいものだったそうだよ。地元のルールを守らず周囲に攻撃的で、自治会費すら払わなかったとか。母親は梅原が幼い頃に家を出ているから、彼は親の財産を食い潰しながら実家で一人暮らしをしていた。自治会費は支払ってたけど、浮いた存在であることに変わりはなかったんだって」
「それなのに、宝田杏花と面識があったのか」
貴一の疑問に、時雨が頷く。
「あくまで、梅原の証言を借りるとそうだね。親同士が同級生で、杏花が小さなころに面識があったとか」
まさか杏花の事件に、触れることになるなんて。
卯月は事件当時を思うだけで苦々しい思いがこみ上げてくる。連日大勢の記者やレポーターがやってきて、事件について根掘り葉掘り探ってきたのだ。
当初、メディアは被害者である杏花について報道した。だがしばらくすると、梅原の残忍性を取り立てるワイドショーが現れた。彼の家の都合から奥背山の田舎独自の関係性にまで、専門家を交えて語ったのだ。
あくまで推測だと番組は念を押したものの、全体的に加害者の生い立ちに対する憐憫が押し出された番組となった。結果、メディアで「田舎の閉鎖性」「村八分」といった見出しが躍り、梅原の生い立ちに同情が集まった。
そうして、被害者である杏花の遺族がすっかり参ってしまう状況に追いやられてしまったのだ。心無い世間の声にさらされて自宅から出られなくなった宝田夫妻のために、卯月は自ら買い出しや便利屋を買って出た時期もあった。
当時のことを思い出して胸を痛めていると、貴一が質問をした。
「その事件と連続少女失踪事件の関連性はなんだ」
「わからないから、調べるんじゃないか」
当然だというような時雨に、貴一はさらに口をひらこうとした。だがそれを時雨が軽く手をあげて制する。
「まぁ、一応根拠ならある。宝田杏花が殺害されたのは、十月の半ば。そして連続失踪事件が起き始めたのが、その直後だ。刺殺事件のすぐあとから、失踪事件が始まっているとも考えることができる」
卯月は膝の上で握り締めていた拳を、さらに強く握りこむ。
やはり、杏花が怨霊となってしまったのか。失踪しているのは皆、杏花と近しい年齢の少女ばかりなのも、死んだ無念が嫉妬となって、生者に危害を加えていると考えることができるのではないか。
「時雨は、宝田杏花刺殺事件が事件の発端だと言いたいのか。例えば、梅原陣が宝田杏花を刺殺したのは、怨霊が彼の体を乗っ取ったから、だというような」
ハッ、と卯月は顔をあげた。
「そんなことがあるんですか」
「前例はあるよ。でも、今の時点で決めつけるのは時期尚早かな。奥背山の怨霊、宝田杏花刺殺事件、連続少女失踪事件。この三つが関係しているのか、しているのならどんな形で関係しているのか。それを今日から調査する」
時雨は、胸の前で両手を打った。
「そういうわけだ。必要以上に宝田杏花刺殺事件に積極的になる必要はない。あくまで目的は奥背山の怨霊だから。でも、関係があるかもしれないということは、情報として頭の片隅に置いておいてほしい」




