コウタローは私の家族
我が家は4人家族。夫の智久と高校生になった娘の佳奈、犬のコウタロー、そして私。私たちは郊外に一軒家を構え、そこで何気のない慎ましい生活を送っていた。そう、それはどこにでもある、有り触れた生活だった。
私の日課は娘の弁当を作るところから始まる。特に手の込んだものではない。取り分けておいた昨晩のおかずと冷凍食品を駆使して何とか余白を埋める。それと同時並行で朝食作り。夫も娘もまだ寝ているが、コウタローだけは早起きで、私の頑張りをいつも見ていてくれる。
夫と娘を見送ると、回しておいた洗濯物を庭に干す。陽当たりはいいが小さな庭なので、余す事なく干すにはコツがいる。それが終わるとコウタローの散歩だ。初めは佳奈が飼いたいと言い始めて迎え入れたコウタローだが、今ではすっかり私の心の支えになっている。序でに運動不足も解消してくれている。
散歩を済まして、掃除もして、私はやっと自由になる。私の気が休まるのは、ここから娘が帰ってくるまでである。この時期の家庭には有り触れたことだが、最近の娘は私に当たりが強く、また夫も反応が冷たい。こんな環境で尽くし続けるには、心を休める時間が必要なのだ。
私がソファにだらしなく座り、テーブルにお菓子を広げ、テレビドラマを流し始めると、コウタローが甘えてきてくれる。これが可愛いのだ。私はコウタローを甘やかしながら、夫がああだの娘がこうだのと、日々の愚痴をコウタローに溢す。それでも嫌な顔一つせず、コウタローは尻尾を振ってじゃれついてくれる。私の気持ちを分かってくれるのはコウタローだけだ。
そう、これはどこにでもある、有り触れた生活。有り触れた生活だった。私は悪くない。
ある朝、酷い臭いに目を覚ます。外はまだ仄暗かった。全く嗅ぎ覚えのない臭いに寝室の電気を付けると、ベッドが赤く染まっていた。私の手や肩や髪にも赤い液体が付着している。私は慌てて夫の顔を覗く。夫は青白くなっていた。冷たくなっていた。首には生々しい傷が口を空けて、赤い血をダクダクと吐き出していた。死んでいたのだ。私は頭が真っ白になって夫から離れた。吐き気が込み上げる。訳が分からない。自分の呼吸の音だけが鼓膜に迫る。
――ワン!!
犬の声、コウタローの鳴き声。声がした方に振り向く。そこにはコウタローがいた。私を見つめる黒い瞳、愛嬌を振り撒く揺れる尻尾、つんと立った耳、そして血塗られた口許。私は理解した。コウタローが夫を殺したのだ。
――コウタロー?
呼び掛ける。コウタローはいつも通り、溌剌とした声で鳴く。それから私の足元に駆け寄り、体を擦り付けてくる。何故コウタローは夫を殺したのか。それなのに何故コウタローはこんなにもいつも通りなのか。いつも通り私に甘えて、いつも通り"構って"と言わんばかりに私を見つめてくるのか。私の頭はすっかり置いていかれていた。
ただ、ある考えだけが頭に明確に浮かんだ。今後コウタローはどうなるのか。人を、飼い主を殺した犬の末路など、想像を働かせるまでもない。私は血に濡れた手でコウタローを抱き上げた。
娘は風呂上がりの私の様子を訝しんでいたが、触れることはなかった。更に娘は異臭のこと、夫の姿が見えないことについてのみ問い掛けてきたが、異臭については明言を避け、夫は風邪で寝込んでいることにしてその場をやり過ごした。
娘が家を出ると、私は庭に穴を掘って、埋めて、それから洗濯物を干した。臭いがかなりきつく、洗濯物に移ると思うと気が滅入った。
私はコウタローを撫でた。コウタローはいつも通りに甘えてくる。愛くるしい瞳で見つめてくる。私はコウタローを守った。これでコウタローは今後も生きていける。まだ暮らしを続けられる。私は家族を守ったのだ。私は目一杯コウタローを甘やかした。
その夜、私とコウタローは広くなったベッドで一緒に眠った。多少異臭はしたが、久々に熟睡できた気がした。
翌朝、コウタローの声で目を覚ます。コウタローは相変わらず黒い瞳で私を見つめ、尻尾を楽しげに振っている。そして、口許からは鮮血が滴っている。
私はコウタローを膝の上に招いた。そうだ、コウタローは私の家族だ。コウタローは家族である私の気持ちを汲んで、やってくれたんだ。私は誇らしい気持ちでコウタローを抱き寄せた。
――コウタロー。さすが私の家族だね。
コウタローは溌剌とした声で返事した。
こんな話を書いておいてあれですが、筆者は犬も猫も飼ったことがないです。これと言って嫌な思い出も恨みもありません。




