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除夜の鐘が鳴るまでに、帰ってきて。—年越し食堂ものがたり—

作者: 星渡リン

 大晦日の夕方、辺境の町ハルツは雪より先に湯気で白んでいた。

 路地の角、灯りの色がやわらかい一軒の食堂――木の看板には、丸い文字でこう書かれている。


【年越し食堂 カエリの灯】


 扉の鈴が鳴るたび、鍋の香りがひとつ増える。干し肉の旨味、根菜の甘み、香草の青さ。そこへ、ほんの少しだけ――鐘草の粉が落とされると、匂いは「帰り道」の形を帯びる。


 店主のユエンは、いつも通りの顔で忙しかった。

 背は高く、腕は太い。肩口には古い鎧傷がある。腰には長剣。だが鞘から抜かれることはない。


 「はい、年越しスープ。――熱いから、ゆっくりな」


 旅人は両手で器を包み、目を細めて息を吐いた。

 湯気の向こうで、衛兵が笑う。


 「ユエンの飯を食うと、不思議と帰れるんだよな。道に迷っても、腹が減っても」


 「迷うような道に行くな」


 ユエンが言うと、店の隅でパンを切っていた少女が、ふふっと笑った。


 レオナ。

 ユエンが三年前、森のはずれで拾った養子の娘。

 瞳は琥珀色で、雪の夜に似合う明るさを持っている――ただし、今日は少し落ち着きがない。


 「ねえ、ユエン。薪、足りる?」


 「足りる」


 「ほんとに? 今日は鐘が鳴るんだよ。夜中までお客さん来るよ。ね、行ってくる。森の端の薪置き場、すぐそこだし」


 言いながらレオナは、肩掛けの袋をつかんだ。

 ユエンの手が、鍋をかき混ぜる動きを一瞬だけ止める。


 「……鐘が鳴る夜だ」


 「知ってる」


 「知ってるなら、なおさらだ。今日は道が増える。増えるってことは、消える道も増える」


 レオナは、わざと明るく笑った。


 「大丈夫。わたし、帰る場所、ちゃんと知ってるもん」


 その言い方が、ユエンには引っかかった。

 帰る場所を「知っている」ことと、帰れることは、別のものだ。――彼は、戦場でそれを嫌というほど見た。


 カウンターの上で、小さな精霊がぴょこんと跳ねた。鈴みたいな音が鳴る。


 スズ。

 鐘の音にだけ敏感な、白い毛玉のような精霊だ。

 今夜は、耳を立てて窓の外を見ている。遠い鐘楼の方角へ。


 「……スズが落ち着かない」


 ユエンが呟くと、レオナは一瞬だけ唇を噛み、すぐに笑い直した。


 「ちょっとだけ。ほんと、ちょっとだけだから。戻ったら、皿洗い手伝う」


 その「約束」を置いて、レオナは扉を開けた。

 鈴が鳴り、雪の匂いが入り込み、そして――彼女は白い夕闇に溶けるように消えた。


 ユエンは鍋に蓋をし、火を弱めた。

 大晦日の湯気は、待つための湯気だ。帰ってくる足音が聞こえるまで、温度を落とさない。


 それから一刻。

 客は増えるのに、扉の鈴が鳴っても、軽い足音は戻らない。


 「……レオナ?」


 呼んでも返事はない。

 ユエンの胸の奥で、冷たいものがじわじわと広がっていった。


 外に出ると、町の端の林から、薄い霧が立っている。雪ではない。湿り気のない、影の匂いがする霧。

 通りを掃いていた老人が、箒を止めて言った。


 「今夜は年の狭間だ。鐘が鳴る前は、境が薄い。迷い子が出る。……あんたのところの娘さんも、森に?」


 ユエンは答えない。答えられない。

 代わりに、店へ引き返し、棚から準備の袋を取った。


 灯りパン。割ると中から柔らかい光が漏れる、小さな丸パン。

 鐘草の束。匂いが「鐘」に向かう道を教える。

 そして、年越しスープの素――干し肉と香草と、帰還蜂の蜜。


 「店、任せる」


 常連のパン屋が頷いた。


 「行ってこい。あの子の『ただいま』、今日はまだ聞いてねえ」


 薬師が小瓶を差し出す。


 「霧が濃いなら、鼻に塗れ。匂いを拾えなくなる」


 衛兵が槍を持って立った。


 「鐘が鳴る前に帰れ。――いや、帰ってこい」


 ユエンは深く息を吐き、スズを肩に乗せた。

 腰の剣に手を添える。抜かない。ただ、そこにあることを確かめる。


 「……レオナを迎えに行く」


 誰に言うでもなく呟いて、ユエンは森へ入った。



 森の入口を越えた瞬間、音が変わった。

 雪を踏む音は残るのに、遠い町のざわめきが、まるで水の底みたいに遠ざかる。


 道はある。だが、次の瞬間には分かれている。

 三つに、五つに、十に。


 ユエンは鐘草の束を鼻先に持っていく。青い匂いが、かすかに鐘楼の方角へ流れる。

 だが霧が匂いを食う。道標が薄れる。


 スズが、鈴音を鳴らした。

 遠くで、試しに打たれた鐘の音が一度だけ響く。


 ――ゴォン。


 その音に合わせて、目の前の道が一瞬だけ、光った。

 光ったのは、一本。ほんの呼吸の間だけ。


 ユエンは迷わずそこへ足を踏み出した。

 道はまた分かれ、消え、現れる。森は森ではなく、境界の縫い目になっていく。


 「……年の狭間か」


 霧が濃くなる。冷たくはない。温度を奪うのではなく、方向を奪う霧だ。

 この霧に絡まれた者は、自分がどこに帰るのかを忘れる。


 ユエンは袋から小鍋を出し、雪をすくって火打ち石で火をつけた。

 干し肉、香草、蜜。ほんの少しの鐘草。

 煮立つ匂いが、湯気になって立ち上る。


 湯気が広がると、周囲の霧がよろめいた。

 よろめいた霧の隙間から、道が一瞬だけ「線」になる。


 「……ここだ」


 湯気の線を辿るように、ユエンは進んだ。


 やがて、森の奥のはずなのに、石の門が現れる。

 門の向こうは暗い空。星がない。雪もない。


 門前に立つ者がいた。

 人の形をしているが、輪郭が薄い。目だけが澄んだ銀色。


 「来年へ行けぬ者が、また来る」


 声は冷えた鐘の余韻みたいに響いた。


 「ここは年の狭間。門は閉じる。鐘が鳴り終われば、帰れぬ者は置き去りだ」


 ユエンは頭を下げもしない。

 ただ、真っ直ぐ言った。


 「娘を探しに来た。レオナを返せ」


 銀の目が、ユエンを見た。


 「返すも何も、迷い子は自分で迷う。……おまえは誰だ」


 「ユエン。『カエリの灯』の店主だ」


 「店主」


 その言葉に、銀の目がわずかに揺れた。


 「……かつては別の名があったはずだ」


 ユエンは答えない。

 答えれば、剣の名が口から出る。英雄だとか、最強だとか、そういう名が。

 それは彼が今年、置いていこうとしているものだった。


 番人は言った。


 「ミソギ。私は境を祓う者。鐘が鳴るまで時間は少ない。娘を連れ帰りたいなら、対価を払え」


 「対価?」


 「今年に置いていくものだ。来年へ渡るには、荷が軽くなければならぬ。未練や誇りは重い。――何を置いていく?」


 ユエンは喉の奥で、苦いものが転がるのを感じた。

 置いていく? 今年に?

 置いていきたくないものばかりが、彼にはある。


 それでも、迷っている時間はない。

 遠くで鐘の試し打ちが、もう一度鳴った。


 ――ゴォン。


 門の向こうの暗さが、少しだけ濃くなる。


 「……レオナはどこだ」


 ミソギは、門の奥を指した。

 暗い空の下、白い影がうずくまっている。


 ユエンは門をくぐった。

 足元の感触がない。雪を踏む音もしない。自分の心臓の音だけが、やけに大きい。


 「レオナ」


 影が、びくりと動いた。

 顔が上がる。琥珀の目。頬が濡れている。


 「……ユエン?」


 呼ばれた瞬間、ユエンの胸が少しだけ軽くなった。

 呼ばれる名がある。それは帰り道になる。


 ユエンはしゃがみ、灯りパンを割った。

 柔らかな光が広がり、レオナの顔を照らす。


 「何してた」


 問いはきつくない。責めるためじゃない。帰らせるための問いだ。


 レオナは唇を震わせ、無理に笑おうとして、笑えなかった。


 「……薪、取りに行っただけなのに……道が……道が増えて……」


 「迷った?」


 首が小さく横に振られる。


 「迷ったんじゃない。……怖くなった」


 声が、細い。


 「今年が終わるのが。……わたし、拾われたでしょ。ここで、あったかいの、もらった。名前も、寝る場所も、スープも。……でも、来年になったら、また……」


 言葉が詰まる。

 “また失う”が、言えない。


 ユエンは、すぐに抱きしめたりはしなかった。

 そうすれば、彼女が自分の足で立つ前に、彼の腕だけが帰り道になってしまう。

 帰り道は、持ち歩けない。作るものだ。


 ユエンは小鍋を取り出し、雪のない空気の中で火を起こした。

 年越しスープの素を入れる。

 湯気が立った瞬間、暗い空に薄い「線」がいくつも浮かぶ。帰り道の候補だ。


 器に注ぎ、レオナに差し出す。


 「飲め」


 レオナは両手で器を包んだ。

 湯気を吸い込んだ瞬間、目が少しだけ丸くなる。


 「……匂い」


 「店の匂いだ」


 レオナが一口飲む。

 二口。

 三口目で、涙がぽろぽろ落ちた。


 「……扉の鈴……」


 レオナの声が、さっきより太くなる。


 「パン屋のおじさんの笑い声。……薬師さんの、変な薬の匂い。……ユエンが鍋を叩く音。……スズが、鈴みたいに鳴く……」


 スズが肩の上で、ちりんと鳴った。


 「……帰りたい」


 言えた。

 それだけで、暗い空に浮かぶ線が一本、強く光った。


 だが背後で、ミソギの声が響く。


 「時間がない。鐘が鳴れば門は閉じる。対価を」


 ユエンは立ち上がり、ミソギと向き合った。

 レオナは器を握ったまま、怯えた目をする。


 「わたしが……払う。わたしの今年を……」


 「違う」


 ユエンは即座に言った。

 その声には、剣の鋭さが混じっていた。抜いていないのに。


 「おまえは払わない。払うのは迎えに来た者だ」


 ミソギの銀の目が細まる。


 「なら、何を置いていく。おまえの記憶か。おまえの痛みか。おまえの愛か」


 ユエンは一瞬、息を止めた。

 記憶は置けない。愛も置けない。痛みも――置けば、彼は軽くなるかもしれない。だが、その軽さは空っぽだ。


 ユエンは腰の剣に手を置いた。

 抜かない。

 鞘のまま、ただ確かめる。


 そして言った。


 「俺の誇りを置いていく」


 ミソギが黙る。


 「俺は今年まで、最強の剣士だった。英雄と呼ばれた。……その名が、俺を戦場へ戻す。剣を抜けと、何度も」


 ユエンは続けた。


 「来年、俺はそれを名乗らない。英雄でも最強でもない。――店主だ。迎える者だ。鍋をかき混ぜて、扉の鈴を待つ者だ」


 レオナが目を見開く。


 「ユエン……?」


 ユエンは振り返って笑った。

 派手じゃない。だが、あたたかい笑いだ。


 「大丈夫だ。俺の強さは、名じゃない」


 ミソギの銀の目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


 「……誇りは重い。置けば、おまえは二度と剣士として呼ばれぬ。戻れぬ道もある」


 「それでいい」


 ユエンは短く言った。


 「帰る道が一つあれば足りる。――この子が帰れる道が」


 ミソギは、ゆっくり手を上げた。

 暗い空に浮かぶ線が、一本だけ太く光り、門へ繋がった。


 「行け。鐘が鳴り終わる前に」



 門を抜けると、森の空気が戻った。雪の匂い。木の匂い。

 だが道は、さっきよりさらに不安定だった。線は細く、曲がり、途切れかけている。


 遠くで、鐘が鳴り始める。


 ――ゴォン。


 その音は、一年を終わらせる音だ。

 同時に、境界を閉じる音。


 「急ぐぞ」


 ユエンが言うと、レオナは頷いた。

 足は震えているが、止まらない。湯気が彼女の胸に残っている。


 スズが鈴音を鳴らす。鐘草の束が香る。

 灯りパンの光が、道の端を照らす。


 ――ゴォン。


 鐘が二度目に鳴ると、後ろの道がふっと消えた。

 レオナが息をのむ。


 「大丈夫。前だけ見ろ」


 ユエンは剣に手をやらない。

 代わりに、小鍋の蓋を開けて湯気を放つ。湯気は霧を押し返し、道の輪郭を押し出す。


 ――ゴォン。


 鐘が三度。

 森の影が濃くなる。霧が足首に絡む。


 レオナが小さく言った。


 「……ユエン、わたし……」


 「言うな」


 ユエンは遮った。

 言わせないためじゃない。鐘に言葉を奪われる前に、確かな言葉を取っておくためだ。


 「町に着いたら言え」


 ――ゴォン。


 鐘が四度。

 木々の間に、淡い灯りが見えた。町の灯りだ。食堂の灯りだ。


 そこから先は、道が一本になる。

 帰り道だ。


 雪の路地を抜け、食堂の扉が見える。常連たちが外に立って、鍋を持って、湯気を回している。

 ユエンの姿に気づくと、パン屋が叫んだ。


 「来たぞ! 帰ってきた!」


 薬師が笑って泣いている。


 「間に合った、間に合った!」


 衛兵が肩の力を抜く。


 「鐘、あと少しだ!」


 扉の前で、レオナが立ち止まった。

 息を整える。胸に残る湯気をもう一度吸い込む。


 そして、彼女は言った。


 「……ただいま」


 その言葉に、町の空気がふっと温まる。

 ユエンの胸の奥で、冷たいものが溶けていく。


 ユエンは、レオナの頭に手を置いた。

 硬い手だが、触れ方は驚くほど優しい。


 「おかえり」


 鐘が、最後の方へ向かって鳴り続ける。


 ――ゴォン。ゴォン。


 音が重なるたび、境界が正され、霧が薄れ、道が固定される。

 今年が終わり、来年が始まる。


 食堂の中へ入ると、湯気が待っていた。

 鍋の音、皿の音、鈴の音。


 レオナが、泣き笑いで言う。


 「ユエン……来年も、ここにいて」


 ユエンは一瞬だけ目を閉じた。

 英雄の名が遠ざかる感覚がする。最強の肩書きがほどけていく。


 代わりに、扉の鈴が近くなる。

 鍋の湯気が近くなる。

 帰ってくる足音が、近くなる。


 「いる」


 ユエンは短く答え、器を差し出した。


 「来年も、帰ってこい。――鐘が鳴る前に」


 レオナは器を受け取り、湯気の向こうで笑った。


 その笑顔が、ユエンにとっての来年だった。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


大晦日は、いちばん優しい日だと思っています。

一年の終わりに「よく頑張ったね」と言えて、

新しい年の入口で「また帰っておいで」と言える日。


あなたにも、今年の最後に――おかえりなさい。

そして、来年も。帰ってきてください。


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