第4話 霧の流れ、風の形
――結論から言おう。
風は見えない。
だが、見えないものほど、空に近い。
私は先ほどのことを思い起こしていた。
転がる視界の中で、風を見た。
乱れ、ねじれ、流れる。
「……風は、形を持たないからこそ、形を変えるのか。」
コウモリたちはすでにいない。
空には、静かな風だけが残っていた。
私は崖の縁に立ち、考えた。
「風を観測するには、目に見えねばならない。
では、見えるようにすればいい。」
骨の指を鳴らす。
「――死の霧、展開。」
地面の裂け目から、白い霧が滲み出た。
霧は生き物のように蠢き、やがて風に乗って流れ出す。
ゆらり、ゆらり――淡い糸のように、空気の通り道を描いていく。
「おお……見えるぞ。風が……流れている。」
霧が揺れるたび、空気が歌っているようだった。
押し返すでも、殴るでもない。
ただ撫でて、包んで、形を変える。
「……これは、繊細な観測が必要だな。」
私は感心した。
「なるほど、風を読むとは、風を壊さぬことでもあるのか。」
その時だった。
「ひっ……ひいいいっ!!」
遠くからゴブリンの叫び声が響いた。
「出た出た出た出た! リッチの“死の霧”だーっ!!」
「やっぱあいつ危険じゃん!!」
「でも、殺されるよりマシだろ!? 他の上位種、退屈したらすぐ殺すし!」
「うわああ流れてきた! 吸ったら死ぬ!? 死ぬ!?!?」
モンスターたちが、四方八方に逃げていく。
足音、羽音、悲鳴。
霧がそれを追いかけるように流れていった。
私は骨の頭を傾けた。
「……危険な実験は好まれないらしい。」
そして、やや誇らしげに付け加えた。
「だが、理解されぬ試みほど、尊いものはない。」
地面の陰でぷるんと音がした。
小さな半透明の塊――逃げ遅れたスライムだ。
「ほう……君、そんなところでまだ生きていたか。」
「ひぃっ……! す、すみません!動けなくて!」
「いや、いい観測対象だ。」
「えっ」
リッチはしゃがみ込み、興味深そうに覗き込んだ。
「そういえば、君たちスライムは流体だったな。
なるほど、風に近い。しかも毒耐性持ちか。」
「ど、毒!?」
「安心しろ。死んでも問題ない。」
「問題しかないですよ!?」
リッチは嬉しそうに頷いた。
「柔軟性、適応力、形状変化――理想的だ。
……ちょっと引き延ばしてみるか。」
「えっ」
骨の手が、ぐい、とスライムの端をつまんだ。
ぐにゅぅぅぅ……。
スライムはみょーんと伸びて、風を受ける薄膜のようになった。
「なるほど、透過性もある。
これなら翼膜としての機能も……」
「の、伸ばされるのは別に平気ですけど……!」
スライムは目を逸らした。
「だが、重量が問題になるな……粘性が高すぎる。浮力に影響する。」
「えっと……それなら……」
スライムは少し恥ずかしそうに身を揺らした。
「ぼ、僕の……分泌膜なら、もっと軽いです。
乾くと透明になりますし……!」
リッチの眼窩がかすかに輝いた。
「……自ら、理を補おうというのか?」
「い、いえそんなつもりじゃ……!」
「素晴らしい!! 君はいいスライムだな!」
スライムは泡をはじけさせて固まった。
「(え、褒められた……の?)」
リッチが霧を操るたび、薄い白が風の線を描いた。
スライムは、その線が自分に触れるたび、
身体の表面が「ちりっ」と震えるのを感じた。
「……これ、風って……動いてるんですね。押されたり、逃げたり……」
リッチがぱちりと眼窩を光らせた。
「ほう。君は風の“変化”を感じたのだな。
それこそ理の入口だ。」
スライムは一瞬びくっとしたが、
次には少し誇らしげにぷるりと震えた。
夜。
霧の残りが月明かりを映して揺れていた。
――観測記録第21号:死の霧は風を映す。
――補足:観測者は逃げた。被験者は流体。
――結論:風は見えない。見えないままで、正しい。




