第8話:少しだけ耳を傾けて_4
「お父さん、もう一杯飲む? 紅茶」
「じゃあ、もらおうかな」
「うん」
私は自分の紅茶を淹れるついでに、父の分のカップも手に取った。再びキョロキョロと辺りを見回す父。特におかしなものを置いているつもりはないが、ふと一点を見つめる父の視線を追うと、リビングに飾ってあった一番大きな写真立てを気にしていることに気が付いた。
写真立てには、四枚写真が入っていた。全部で五枚飾ることができるが、良い写真がなかなか撮れなくて、今はまだ四枚に留まっている。中央を飾る大きな写真は入っておらず、手持ちの写真の中から選ぶことができなかった結果、買った時そのままのちょっとだけオシャレな台紙が納まった状態だ。
一枚目は、雪が生まれた時に、私の父、母、私、俊君、雪の五人で撮った写真。二枚目は、私の両親ではなく、俊君のご両親と撮った写真。三枚目と四枚目は、雪が大きくなって、司が加わった写真だ。そして、私の実家の前で撮った写真に父の姿はなく、母だけが写っていた。
「写真、気になるの?」
「うん? あ、あぁ。おとうさん、生きている時はあの姿だったなぁって」
「そりゃあ、お父さんだもん……って、今も同じだよ、おんなじ」
「死んでしまうと、容姿のことは気にならなくなるというか、なんだろうな。あの時、その写真を撮った時、もっといい格好をすれば良かったなぁ」
「えぇ? なんでよ」
「だって、写真、残るじゃないか」
「残るなんて今さらじゃん。ってか、写真なんだもん」
「飾ったら、みんなが見るだろう? どうせなら、カッコいい姿のほうが……」
「そんなの気にするタイプだったっけ?」
「……うーん。死んだからかなぁ」
「……ふふっ。変なの」
「死んだら撮り直しもできないだろ?」
「まぁ、言われてみればそうだけどさぁ」
「遺影用にも、ちゃんとしたもの撮っておけば良かったなぁ」
首を傾げ、指で顎を擦りながら写真を見つめる姿が可笑しくて、つい笑ってしまう。確かに、死んでしまったらそれ以上写真を撮ることはできないから、今残っているものよりも良いものが出てくることは二度とない。
遺影用の写真もそうだ。父は旅行に行っても自分が撮影者に回るタイプで、良い笑顔で写っている写真がほとんどなかった。私たち子どもが育ってからは、イベントごとで写真を撮ることもなくなり、ふとした時に撮ることもなく、見つけても昔の物だから色褪せていた。体調が悪化してからは笑うことも少なくなり、表情も乏しくやつれていたり不精だったりで使える物はなく、亡くなる数年前に家族みんなで旅行した際の写真を、何とか業者にトリミングしてもらって使用したのだ。
(あー……私は毎年写真撮るようにしようかな……)
父の姿を見て、自分の死期についてぼんやりと考えていた。小さな子たちを置いて、まだ死ぬわけにはいかないが。遺影のことは、ちょっとくらい頭の片隅に置いておくのもイイかもしれない。
「そういえば、美代の小さい時と、雪は本当にそっくりだよな」
「またその話?」
『また』と言う言葉が、思わず口をつく。父はいつもこの話をしていたっけ。私の子どものころ、というか、赤ちゃんのころの写真を見ると、本人かと見間違うほど雪に似ていた。少し大きくなってもなかなか増えなかった髪の毛の少なさは全く同じだ。ただ、モチモチしたほっぺたは、雪のほうが勝っている。ちょっと男の子顔だったのも、真っ赤で林檎みたいな顔色なのも、少しだけ口をとがらせて写るその姿も、私から見ても似ていた。
父は雪が生まれてから、ずっとこのことを話していた。それは雪が大きくなってからも続いて、体調を崩してからも変わることなく、雪にまで『じぃじそのはなしまえもきいた!』と言われるほどだ。『そうか?』と言いながらも、ニコニコとどこか嬉しそうな父の顔を今でも覚えている。
「おとうさん、最後のほうはもうあんまり自由に身体が動かなかっただろう? 動かせるけど、一人で歩くのは難しかったし、本当はもっと、孫と遊びたかったんだけどな。外に出て、公園に行ったり、散歩したり」
「雪とよく遊んでくれたよね。よくないけど、人のいないお店でかくれんぼしてなかった?」
「あー、ありゃまだ動けた時だな。雪は大笑いだったから、おとうさん嬉しかったぞ」
「すーごい楽しそうだった、どっちも」
「はっはっ。それに、司とも遊びたかったな。久し振りの男の子、楽しみだった」
「……遊んであげてよ。今からでも、その身体でも」
「それがな、楽しみなんだ。……お風呂も入れて良いかな?」
「勿論!」
あれほどあった警戒は、もう既になくなっていた。話しかたも話す内容も、ふとした時に見せる仕草も表情も、私の知っている父だった。父は死んでなんかいなくて、実はこっそり生きていて、どこかに隠れてたのをひょっこり表に出て来た――そう言われたって信じてしまいそうなくらいに。
心の中で『もっと警戒しなければ。信用してはいけない。疑ってかかれ』そう思いながらも『大丈夫。この人は父だ。信じよう』と思う気持ちが圧倒的に大きくなっていた。
起こりえない出来事に混乱しながらも、私は楽なほうを選んでいた。