第33話:懐かしい味_1
驚いて横を見ると、トイレから戻ってきた母が、眉間に皺を寄せて私たちのほうを見て立っていた。
(やばっ……!)
ドキドキと心臓が鳴るのがわかる。――しまった。父と話をしていて、母が戻ってきているのに全然気が付いていなかった。一体、どこから話を聞いていたのだろう。いつからそこにいたのだろう。……たった今戻ってきたことを祈りながら、私は頭をフル回転させた。
「あーあーあーのさお母さん! 角煮できあがったから! ちょっと席に戻ってくれる⁉︎」
素っ頓狂な声を上げながら、母を席へと促す。とりあえず今は、父との距離を少しでも稼ぐことしか浮かばなかった。我ながら大した策もなく情けない。首を傾げながら戻る母の後を追って、先ほどよそった角煮と箸を持って行くと、気になって仕方がないのか、もしくは私の反応に全く納得がいっていないのだろう。まだその眉間に皺が寄ったままだった。
「あ、味見してみたんだけど! めっちゃくちゃ美味しいよ! 食べてみて!」
何だか不審に思っている空気を醸し出す母を『何も気が付いていません』とでも顔に書くように軽く無視して、そのまま手に持っていた角煮を差し出した。まだ温かい……熱いくらいだ。器を動かすと湯気に混じって美味しい匂いがふわっと漂った。
「ねぇ、さっきの話はなんだったの?」
「何でもない! とにかく気にしないで!」
「そんなこと言われたら、余計に気になるじゃない……」
こういう時の母はしつこい。よーくわかっている。話すまで言い続ける。この性格のお陰で、今まで何度言いたくないことを言う羽目になり、嫌な思いをしたことか。……しかし、今回は、まだ言うわけにはいかない。私と母との意地の勝負だ。
「良いからさ、とにかくこれを食べてからにしようよ。ね? ね?」
「変よ、美代」
「そんなことないって! 美味しいから冷める前に食べて欲しいだけ! 冷めたら脂固まるかもよ? お母さん、脂身の冷たいの嫌いでしょ? ね? ホラホラ」
「納得いかないけど……良いわ。……じゃあ……まぁ食べてみるから」
ホッとした私は席につき、家族みんなでその動向を伺う。
父はまだ、キッチンにいてもらった。片付けという名目だ。
雪は気にすることなくジュースを飲んでいたが、大人は母がどんな反応をするのか気になって仕方がない。飲み物にも手を付けず、ただその様子をじっと見ていた。
「……ちょっと。そんなに見られたら、気味が悪くて食べられないんだけど」
「え……あ……ご、ごめん!」
そりゃそうだ。みんなに見つめられながら何か食べるのは、非常に食べ辛いだろう。テレビの撮影でもないのに。
「もう、何なのよ……はぁ……」
溜息を吐きながら、母はお肉に箸を入れた。
「あら、随分柔らかいわね」
スッと半分に切れたお肉を、そのまま口へ運ぶ。
「……んんっ! 美味しいわね! これ!」
驚いた顔で私の顔を見る。そしてそのまま、次は大根へと箸を移し、半分に切って食べた。その後は卵、そしてまたお肉と、箸が進む。
始めのうちは何か考えるようにして食べているようにも見えた。が、一口、また一口と箸が進むにつれて、ただただ料理を味わうように、ゆっくりと咀嚼しているように感じた。
「……はぁ……美味しかった。ごちそうさまでした」
あっという間に器の中身は空になり、母は箸を置いて手を合わせた。
「……良いわねぇこの味……。はぁ……懐かしい。……嫌だわ……お父さんの味だわ」
(やった……! わかってくれた!)
母のその言葉に、思わず笑みが零れる。キッチンに居る父を見ると、母の言葉を聞いてか小さくガッツポーズをしていた。見たことのない父のそんな姿。親なのに、不覚にもちょっと可愛いなと思ってしまった。
だが、本番はこれからだ。この、父の角煮を試食した流れから、どうやって父が今ここにいる話へと持っていくか。これだけは、シミュレーションしてもどうにも上手くいかなかった。良いパターンも悪いパターンも考えてみたが、結局最終的には、母に怒られて終わってしまう。いつも最悪のことを視野に入れている私だが、今回ばかりは少し自分でイライラしてしまう。
「不思議だわ。匂いだけじゃなくてこの味付け、本当にお父さんの角煮と同じ味ね。……また、この味が食べられるなんて思ってなかったわ」
ふぅ、と溜息を吐きながら、空になった器を母はジッと見つめていた。
「……美味しかった?」
「もちろんよ。だって、お父さんと同じ味なんだもの。まずいはずないじゃない。匂いだけかと思ったけど。味もなのね」
「だよね、だよね!? 美味しいよね⁉︎」
「ちょ、ちょっと……そんなに興奮して一体どうしたのよ……。今の味見よね? あー、本当に美味しかったわ。お米がほしくなっちゃうわね、一緒に食べなきゃ、何だか勿体ない気がしちゃうわ」
チラリと俊君、そしてコウを交互に見た。二人とも、こちらを見て小さく頷いている。
(今! 今しかない……!)
「……あのね? お母さん。……これ、お父さんが作ったのよ」
私は落ち着いた声のトーンで、そして、できる限りの真剣な顔をして、母にその言葉を告げた。




