第1話:一周忌
母が泣いている。今日は私【茅美代】の父である【乙瀬孝夫】の一周忌だ。この一年、父の話をする母【乙瀬佐和】が、涙を流すのを何回も何十回も見てきた。
やめてくれ、私も泣きそうなんだ。きっと、誰もいなかったら泣いているだろう。……そう思いながら。
――私だってまだ、父が亡くなったことに対して、折り合いをつけられていない。
父・孝雄は病気で亡くなった。手術後は退院して自宅療養しており、体力は落ちたものの、食事へ行ったり買い物へ行ったり。経過としては良好で、投薬は続いていたものの比較的元気だった。……が。運悪く別の病気に罹ってしまったのだ。本当に、運悪く。そうなっては、今まで飲んでいた薬の服用はできない。
……そこからの悪化の一途は凄まじいもので、成す術もなく【人が変わっていくというのはどういうことなのか】【人が弱っていくとはどういうことなのか】をまざまざと見せつけられた。元気な時期があったからこそ、そのまま年をとっていくんだと思っていたからこそ、私は気持ち的になんの準備もできていなかったのだ。
「美代から見たら、お父さんが死ぬ、って、どんな気持ちだったの?」
ある日突然母から投げかけられた言葉に、私は上手く答えることができなかった。母があれだけ目の前で泣いていたのに、目の前では葬儀以外泣いていない私が『同じように辛かったよ、悲しいよ、苦しいよ』とはとても言えなかったから。それに、父に関する思ったことを言葉にしようとすると、一緒に涙が溢れそうだったから。
泣いている母を見ると、なぜだか自分は泣いてはいけない、そんな気持ちになった。怒りが湧いた時、自分以外の人が先に怒ると、意外と冷静になるのと変わらないのかもしれない。だから、私の気持ちは、母は今も知らない。そんな私が時々父を思い出しては、夜中に涙を流しているなんて、誰も知らない。
会えるものなら、もう一度父に会いたい。会って、『愛していた』は恥ずかしいけれど『大好きだった』と『今でも大好きだ』と、伝えられるものなら伝えたい。父が亡くなる前日、伝える時間はあったのに。私は伝えなかった。いや、伝えられなかった。何か言おうとすると言葉に詰まり、父はまだ目の前で生きているのに、間違いなくこの後やってくるだろう【死】ばかりがダイレクトに心を抉り、言葉にできなかった。言葉にすれば、死を認めてしまうと感じたから。心のどこかで『まだ大丈夫』と思い……いや、自分に言い聞かせ、くるはずの最期を迎えたくなかった。それだけではなくて、恥ずかしさや戸惑いもあった。けれど、多少の恥ずかしさなど捨てれば良かった。この後悔は、もう二度と取り返すことはできいのに。
――それでも一つだけ、今私の腕の中でスヤスヤと眠る息子が、お腹の中にいることだけは伝えることができた。その時まだ妊娠は確定していなかったが、言うなら今しかないと、亡くなる前日伝えることができたのは、本当に良かったと思っている。
目も虚で空をぼんやりと見据え、呼吸は荒くまるでいびきのようで、今すぐにでも消えそうな命を前に、私は父にフライングで伝えたのだ。『娘がお姉ちゃんになるよ』と。
私は、過去に流産していた。まさかその時は、父の病気が再発するかも、弱った身体が別の病に侵され悲鳴をあげるかも、なんてそんなことは考えてなかった。……父がこのまま死んでしまうなどと、考えていなかった。だから、また次を目指そう、そう思っていたのだ。
自分自身の心が折れそうな中、私の元に息子はやってきた。息子はお腹の中で元気に育ち、四か月前この世に誕生した。娘は念願のお姉ちゃんになった。そして私は、嘘吐きにはならなかった。このことは、人の誕生と終焉を、今までにないほど深く私の心に刻み込んでいる。
妊娠を伝えた時、ほとんど反応のなかった父がこちらを向いて、その目線を合わせ、この手を握り返してくれたこと。私は一生忘れないだろう。
言葉は交わせなかったが、多分『良かったな、おめでとう』そう言ってくれたと思っている。小さく聞こえた『あぁ……』という音は、私にとって最期の父の言葉と声になった。まだ忘れていない。父の声はこの耳に残っている。
生きていたなら、父にも抱いてもらったはずの息子。退院してから、娘と同じように一番最初に父にお風呂へ入れてもらっただろう息子。写真に向かってその姿を見せることしかできないが、はたして父には見えているだろうか。
(……ダメだ。感傷的になっちゃう)
私の目からも堪えていた涙が溢れた。
「ママ、なかないで? ゆきがいるよ?」
「……ゴメンね、大丈夫だよ」
一年経っても、気持ちは簡単に変わらない。
あの時『ありがとう』の一言も『お疲れ様』の一言も『サヨナラ』の一言も、棺に横たわる父の亡骸に向かって言え中った。言おうとしたら、言葉が出てこず、全て涙と嗚咽に変わってしまったから。心の中で言うことが、その時の私にできる精一杯で、今でも口にできない。
目を閉じて冷たくなった父を、それでも今にも目を開けて起き上がりそうな父を、呼びかけたら返事をしてくれそうな父を、私は忘れられない。
……父の一周忌は、静かに幕を閉じた。