3.それが人だと教えてくれたから
レーヴェンシュタイン__。
影に沈み、再び現れたその者が、いずれ世界を変える存在になると知る者など、この地下層のみならず、この世界には誰一人としていなかった。
魔獣の咆哮は、地の底の闇の向こうに消えていく。
その背中を見送ったレーヴェは、壁に背を預けると、自分の手を見て何かを確かめるように静かに息を吐いた。
「……今のは、なんだったんだ……?」
沈黙を破ったのはガルドだった。声には警戒と疑念が混じっている。
レーヴェは目を伏せ、小さく笑った。
「ただのまぐれだよ。運が良かっただけ」
その言葉に嘘はなかった。実際、彼にとっては「運」など、いくらでも操作できる些細な因果に過ぎない。
けれど__今はまだ『家畜』でいい。
三大天により、家畜と蔑んだまま殺された哀れな少年・天月蔵馬でいい。
お前達が一体誰をこの地下層に落とし__誰と出会わせてしまったのか。
神を騙ることがどれほど愚かであったかを、思い知らせてやる。
レーヴェは立ち上がり、薄暗い周辺に視線を向けた。そこには、無数の牢が並び、それぞれに疲弊した人影があった。人間だけではない。魔族、妖精族、翼のもげた天使のような存在までもが、鎖につながれ、視線を伏せていた。
「……ここって、どういう場所なの?」
ぽつりと、レーヴェがつぶやく。
ガルドはしばらく黙っていたが、やがて重い口を開いた。
「……ここは、地下処刑場という名前ではあるが、三大天にとってはただのゴミ捨て場だ」
「ゴミ捨て場、ね」
「ああ。三大天……この世界を支配してる連中が、不要だと判断した者を捨てる場所さ」
ガルドの声には、怒りと悔しさが滲んでいた。
「従わない者、自分たちの支配にとって不都合な者……そういう奴らを、何もかもなかったことにするために、ここに送り込む。魔物の餌にし、苦しみの果てに死なせるためにな。死体の処理なんかも、ここに落としておけば魔獣が喰って簡単に証拠隠滅だ」
レーヴェは黙って耳を傾ける。
「俺もそうだ。かつて、三大天に仕えて戦った兵士だった。だが、ある時、奴らの嘘に気づいた。神を名乗っていたのが、実は……ただの化け物だったってな」
「それで、落とされたんだね」
「ああ。気づいた者から処分されていく。人間だけじゃない、妖精族も、聖女も、皆だ」
レーヴェは視線をめぐらせる。
(聖女……、ほとんど嘘っぱちだ。神の言葉などと言いながらほとんど誰も俺の声など聞き届けなかった。欲望のままに嘘を重ねる存在だ)
牢の中、鎖に繋がれた者たちは、確かに“普通の人間”には見えなかった。
魔族の少女、ミリナはレーヴェのマントに包まりながら未だに手を震わせて怯えた瞳でこちらを見ている。
妖精族の男は片翼を失いながらも、じっとレーヴェを観察していた。
聖女らしき女性は、両手を胸の前で組み、目を閉じていた。だが祈るのではない。彼女の口元は静かに動き、感謝の言葉を神へと届けているようだった。絶望の中でもなお神へ感謝を捧げる、その姿は凛としていた。
(感謝?自分が助かるような祈りではなく?……俺の知る祈りは、いつだって……。いや、やめておこう)
レーヴェは思う。
(この聖女は、他とはなにか違うのかもしれない)
三大天は、真の“神”などではない。
自らを神と称し、絶対の存在であると偽り、己の権威に従わぬ者を“削除”する。ここはそのための牢獄。力ある者の墓場。
世界の裏側__この世界における「失敗作」の最終処理場。
俺が救わずして、誰が救う。
神を辞めた身だ。もう救う理由はない。
しかし、だ。
レーヴェンシュタインはその数秒だけ、天月蔵馬としての記憶を辿った。
前世、最高神であった記憶を取り戻してからの人間としての生活は、大変だった。
常識という名の概念は、神だった頃の自分には存在しなかった。
靴を履いたまま玄関に上がり、箸を逆手に持ち、毎朝「今日は空が静かだな」と意味深に空を見上げては遅刻する。
そんな彼を、周囲は少し風変わりな子だと噂した。
それでも、理由もなく、まるで“当然”のように、手を差し伸べてくれた者たちがいた。
最初に手を引いてくれたのは、幼なじみの篠原あゆみ。
「蔵馬くんはちょっと変わってるけど、悪い子じゃないもん」
そう笑って、彼のズレた言動をさりげなくフォローし続けた。給食のパンを“神聖な供物”と呼んだ時も、遅刻して「時空が少し歪んでたから直していた」などと真顔で言った時も、彼女は怒らず、笑ってくれた。
あゆみのその優しさに引かれるように、少しずつ友人が増えていった。
冷静沈着で頭脳明晰な一ノ瀬理央は、蔵馬の奇妙な言動を理論的に分析しようと試み、最終的には「まあ、害はない」と受け入れた。
大雨にも関わらず「今日は天気がいいから登校をやめようと思った」と言った蔵馬に、「お前の脳内天気予報は信用ならないな」と淡々と返した彼は、それでも一緒に教室へ向かってくれた。
芸術肌の司悠人は、蔵馬の言葉をすべて詩として受け取っていた。
「今日の空には“意味”がある」と呟いた蔵馬に、「ああ、わかるよ。何か始まりそうな気配がするよね」と頷く彼に、逆に蔵馬が困惑したほどだった。
__そんな日々が積み重なって、蔵馬は少しずつ“人間”になっていった。
気がつけば、高校に入る頃には、常識ズレとまではいかず、「ちょっと天然でドジな可愛い弟キャラ」で通るようになっていた。
理由なんて、誰も聞かなかった。ただ、彼らは蔵馬を助けてくれた。
まるで、彼がそこにいていい存在であるかのように。
あの日々があったからこそ、今の自分がいる。
誰かの善意に理由などいらない。
救う理由なくとも、誰かを救う。
それが人だと教えてくれた。
レーヴェはゆっくりと目を閉じ、そして開く。
「俺は決めたよ」
「何をだ?」
ガルドが問うと、レーヴェは淡々と、しかしまっすぐに答えた。
「俺はここから、君たちを全員助ける」
その一言に、空気が止まった。
「……は?」
「この地下層も、魔獣も、三大天の偽りも、全部壊す」
「お、おい、正気か!? あの三大天に逆らうって……無茶すぎるだろ!」
「うん、そうだね。でも__」
レーヴェは静かに微笑んだ。
「“無茶”っていうのは、本気でやったことのない、願ってばかりの者の言葉だよ」
ガルドは言葉を失った。
それは、狂気にも似た宣言。
けれどなぜか、その背には何か抗いがたい力のような“確信”があった。
「レーヴェを、信じる」
ミリナの小さな声は、しっかりレーヴェへ届く。