2.地下層の住人たち
天月蔵馬__。
いや、『レーヴェンシュタイン』と成った彼は地下層で出会った魔族の少女ミリナに希望を与えて立ち上がらせた。
だがまだ終わりでは無い。
「まだ、他にも捕らわれてる魔族がいる……」
ミリナの呟きであたりを見渡すレーヴェ。
粗末な石造りの牢屋。誰かのすすり泣く声。
重い鉄格子。腐臭。光の差さない世界。
(ここが、彼らのいうゴミ捨て場か)
「よく生きてるな、坊主」
突然、鉄格子の向こうから声が飛んできた。
薄暗い通路の向こう側。ひときわ異様なオーラを放つ男が、こちらを見ていた。
獣のような耳と鋭い目。背には鎖が巻きつき、両腕は拘束されている。
どう見ても“人間”ではない。
「お前さん、上から落とされたんだろ。よくまあ、その体で動けるもんだ」
「そういう体質なんだ」
レーヴェンシュタイン__レーヴェは簡潔にそう返し、地下層を怖がる素振りもなくミリナと歩いていく。
ふらつきもない。足元も確か。だが、それを疑問に思う者など、この空間にはいないらしい。
「ふん、珍しいヤツだ。……名前は?」
「あま……じゃない、レーヴェンシュタイン。レーヴェで良いよ」
「ああ? なんだそりゃ……」
男は鼻を鳴らし、肩をすくめた。
「ま、いい。ここに落ちてくる奴は、大抵三日と持たずに死ぬ。飢えか、毒か、魔物か、他の囚人か……。お前もせいぜい気をつけろよ。それと、ステータスは他人から見られないようにロックしておいた方が良いぞ、家畜さんよ」
“家畜”。
(ああ、そういえばそうだった)
世界が天月蔵馬だった彼につけた、レッテル。
でもそれは、いい仮面になる。
レーヴェはゆっくりと歩き出す。
壁に手をかけながら、ひび割れた石の隙間に目をやる。
血痕。爪痕。獣の咆哮。
数多の怨嗟と絶望が積み重なった場所。
それでも、彼の足取りは重くならない。
この世界がいかに歪もうと、いかに偽りに染まっていようと__
彼は、もう決めていた。
この闇の底から、すべてを見下ろす存在になると。
「……さて。遊びはここまでだ」
低く呟いた言葉は、誰の耳にも届かない。
けれどそれが、すべての始まりだった。
偽りの神々を討つため。
真実の世界を取り戻すため。
そして何より__
かつて“最高神”と呼ばれた男が、今一度、救いの手を差し伸べるために。
薄暗い牢の空気に、かすかな血の匂いが漂っていた。
どこからか、水の滴る音が響いている。それは、時を刻むように単調で、それでいて静寂を際立たせていた。
レーヴェンシュタインと名乗った男は、ただゆっくりと歩いていた。まるで、そこが初めて訪れる地ではないかのように。
「……名前は?長くて忘れちまった」
再び声をかけてきたのは、先ほどの獣のような男だった。
彼は鉄格子の奥、壁にもたれかかりながら腕を組んでいた。
「だから、レーヴェでいいって言っただろ」
「そうか。……まあ、こっちの世界の奴らからすれば、『家畜』のままかもしれねぇがな」
レーヴェは笑った。
皮肉でも怒りでもなく、ただ愉快そうに。
「家畜……うん、悪くないよ。その呼び名、欺くには便利だし」
その言葉に、男は少しだけ眉をひそめた。
「変わった奴だな。普通は、そう呼ばれりゃ怒るもんだが」
「そういうフリをしてもいいけど、疲れるからね。ここでは楽をしたい」
レーヴェは腰を下ろし、石の床に背を預けた。ひんやりとした感触が背中に伝わってくる。
「ここ、どれくらい広いの?」
「……かなり、だ。階層ごとに違う奴らがいる。魔族、妖精、元人間……混ざり物もな。ここは、“死にそこなった者の吹き溜まり”みたいなもんだ」
「ふーん」
まるで他人事のように、レーヴェは短く相づちを打った。
獣の男は、そんな彼をじっと見つめる。どこか腑に落ちないような目だった。
「坊主、何者だ?」
唐突な問いに、レーヴェはほんの少しだけ、目を細めた。
「ただの“家畜”だよ」
「……」
「それとも、こう言った方が信じられる? “スキルなし、職業:家畜”の無能くんだって。さっき俺のステータス見たんだろ?その通りだよ。だからこんな所に落とされたんだ」
肩をすくめて笑うその仕草は、まるで真剣味がない。だがその言葉には、奇妙な重みがあった。
獣の男は、それ以上何も言わなかった。ただ、静かに視線を外す。
その時、地の底を揺らすような重い“咆哮”が、奥の方から響いてきた。
「……なんだ?」
「魔獣だ」
男が立ち上がる。
「皆が簡単に出られるはずの牢から出ない理由だ。この時間になると、あいつらが動き出す。牢の外に出たやつから順に食われるんだ。俺も何度か酷い目にあわされた」
「へぇ、随分アクティブな歓迎だね」
「笑い事じゃねえ。俺だって、いつまで持つかわかんねえ」
獣の男は唸るように言いながら、牢を出てレーヴェの隣に座った。
「名前、なんて言ったっけ?」
「ガルド。元は魔族の兵士だった」
「よろしく、ガルド」
その瞬間、さらに強烈な咆哮が鳴り響き、鉄格子が小刻みに揺れた。
壁の奥から、重い足音が近づいてくる。
「来やがった……!」
ガルドが立ち上がろうとした瞬間、レーヴェが軽く手を上げた。
「ガルド。俺、ちょっと試したいことがあるんだ」
「は?」
「まあ、見ててよ」
ガルドが眉をしかめる中、レーヴェはゆっくりと立ち上がり、魔獣の前に立った。
暗闇の中から、巨大な影が姿を現す。
異形の魔物。牙が生え、無数の目がぎらついていた。
血に飢えたそれは、レーヴェに気付くと咆哮し__
「……吠えるな。うるさいよ」
レーヴェがそう言った瞬間。
“ズンッ”
魔獣の動きが止まった。
そこに残るのは沈黙。
まるで何かに押しつぶされたかのように、魔獣はその場で震え出した。
一歩、レーヴェが前に出ると、魔獣は後ずさりする。
「なっ……!おい坊主、何を……」
「……大丈夫、ただ家畜が魔獣に下克上しただけ」
その笑みは、どこか“人ならざるもの”だった。
レーヴェは、背を向けて再び腰を下ろす。
震えながら逃げていく魔獣を、誰もがただ見ていた。
そしてその瞬間、ガルドは確信した。
この少年は、“ただ者ではない”。
だが、彼が知る由もない。
この少年がかつて“最高神”と呼ばれ、すべてを超越していた存在だったことを。
まだ、その名の意味を誰も知らない。