葬花の徒と影の器 ―太陽の下、君の木陰で僕らは笑う―
意識の底、光すら届かない奈落で、朱色の髪を振り乱し少年は蹲っていた。 左目から溢れ出したドス黒い執念が、彼の輪郭を塗り潰していく。 「僕がいなくなる」 絶望が肺を満たしたその時、暗闇の奥底から、一筋の清冽な香りが立ち昇った。
それは、戦塵を、呪詛を、そして彼の孤独さえも静かに澄まし込む、温かな一輪の花だった。 浅葱色の光が波紋のように広がり、澱んだ闇を次々と白く染め変えていく。
――気がつけば、頬に柔らかな熱があった。 呪いの冷徹な重みではない。自分を丸ごと肯定するように包み込む、確かな誰かの腕の温もり。 「……もう、大丈夫だ」 浅葱色の髪を揺らし、青年が微笑んでいた。その瞳に映る自分を見て、少年は初めて、奪われかけた自分の名前を思い出したように、堰を切って涙を流した。
絶望の旋律
呼吸を整えろ。心を凪に保て。
少年は胸の中で、呪文のようにその言葉を繰り返していた。朱色の髪が、激しい逃走のせいで額に張り付いている。
「いたぞ! あっちだ!」 「化け物め、村から叩き出せ! 殺せ!」
背後から迫る怒号は、もはや人間の言葉には聞こえなかった。それは実体を持った泥のような悪意となって、少年の背中を突き飛ばそうとする。
少年は、残された右腕で必死に茨の藪を掻き分け、斜面を駆け下りた。視界の端、疼き出した左目を抑える。
(まだだ……まだ、僕でいられる……!)
だが、運命は非情だった。 開けた場所に出たと思った瞬間、足元に違和感が走る。巧妙に隠された捕縛網の縄が、少年の足首を無慈悲に跳ね上げた。
「がっ……!?」
天地が逆転し、背中が硬い地面を叩く。激痛。肺から空気が押し出される。
即座に立ち上がろうとしたが、遅かった。四方から村人たちが躍り出、手に持った鋤や鍬を突きつける。
「いたぞ! 呪い付きだ!」 「殺せ! あの女の再来だ、生かしておくな!」
逃げ場はなかった。背後は断崖、前は憎悪に歪んだ隣人たちの顔だ。
「よくも……よくも俺たちの村に紛れ込んだな、この『呪い付き』が!」 「その目はなんだ、その不吉な色は! お前がいるだけで災いが降りかかるんだ!」
村人たちもまた、恐怖に支配されていた。恐怖は容易に殺意へと変換される。
背後から迫る怒号。かつて僕を産み落とした母が、一夜にして村の半分を血の海に変えたという伝承。その恐怖が、数十年を経た今も彼らを突き動かしている。
(母の手記:二十八歳の誕生日に死にたいな。これ以上は生きていたくない。首を絞めても息ができた。思考が生きていた。この世界に興味を持った私は間違っていない。けれど、生きることがしんどい。もう、生きるの疲れたよ)
母さんの声が聞こえる。僕の左目は、母さんが死にきれずに地中深く埋められた際、その指先から溢れ出した「遺恨」と「私怨」の塊だ。僕は人間として産まれたんじゃない。彼女の絶望が、物理的な形を成して這い出してきた「擬人化された呪い」なのだ。
一人が、震える手で石を投げつけた。
石は少年の頬を切り裂き、鮮血が舞う。
「……やめて……ください……僕は、何も……」
掠れた声は、誰の耳にも届かない。 さらなる石が、罵声が、棒切れが、少年の痩せた体を打ち据える。守るべき腕は、もう片方しかない。
その時だった。
少年の内で、何かが「ぷつり」と音を立てて千切れた。
(死んだ人が羨ましかった。でも、私は死ねなかった。だから、死してなお生きようとするあなた方と、混ざり合うことにしたの。私の絶望で、あなたたちを具現化させてあげる。もう、独りで耐えるのは疲れたの。この瞳に宿る渦が、いつか世界を白く染め変えてくれますように)
(もういいよ。心臓も、細胞も、この不自由な肉体も全部あげる。私の代わりに、あの子を泣かせて。私が我慢して、飲み込んで、腐らせてしまった全ての声を、あの子の目から吐き出して。この一刺しが、私の生きた証になるように。眼に宿す怨念の束。それは支配しようと浸透していく)
張り詰めていた心の糸。平穏という名の防波堤。
それが崩壊した瞬間、抑え込んでいた左目の奥で、数多の亡者たちが歓喜の叫びを上げた。
「あ……ああ、あ…………っ!」
少年の喉から、人間のものではない異質な呻きが漏れ出す。 左目が熱い。まぶたの裏で、どろりとした黒い執念が「出せ、出せ」と門を叩いているのがわかる。
左目の瞳孔が、まるで生き物のように蠢き、ひび割れた。そこから溢れ出したのは、涙ではない。どす黒い影の触手であり、怨嗟を研いで造り上げた「刃」だった。
少年の意識は、急速に冷え切っていく。
自分の叫び声が、遠くの誰かのもののように聞こえる。
目の前の村人の驚愕の表情が、スローモーションで流れていく。
――次の瞬間、少年の意志とは無関係に、黒い刃が爆発的に空間を「刺した」。
僕の意志ではない。土の下で今も目を見開いている母の執念が、現世を射抜こうとしている。 黒い刃が空間を突き刺し、襲いかかる村人たちを次々と刻んでいく。悲鳴。鮮血。僕の心はボロボロと崩れ、意識は急速に冷え切った暗闇へと墜ちていく。
(……ああ、もう、僕じゃなくなる)
真っ暗な、音のない世界。
意識の底、光すら届かない奈落で、朱色の髪を振り乱し少年は蹲っていた。 左目から溢れ出したドス黒い執念が、彼の輪郭を塗り潰していく。 「僕がいなくなる」 絶望が肺を満たしたその時、暗闇の奥底から、一筋の清冽な香りが立ち昇った。
それは、戦塵を、呪詛を、そして彼の孤独さえも静かに澄まし込む、温かな一輪の花だった。 浅葱色の光が波紋のように広がり、澱んだ闇を次々と白く染め変えていく。
浅葱、黄、薄紫、朱。五色の光が万華鏡のように重なり、僕の心を蝕んでいた黒い粘り気をさらさらと解かしていく。
――気がつけば、頬に柔らかな熱があった。 呪いの冷徹な重みではない。自分を丸ごと肯定するように包み込む、確かな誰かの腕の温もり。
「……もう、大丈夫だ」
目を開けると、そこは真っ白な世界だった。 正面から僕を包み込み、抱きしめている人がいた。何度も僕を気にかけて手を差し伸べてくれていた、浅葱色の髪を持つ青年。
彼の身体から伝わる、植物のような穏やかな拍動。
女の人が「雨音に傘はいらない」と願った、あの自然の在り方そのものが、今、僕を抱きしめている。
「……う、あ…………っ」
言葉にならなかった。
呪いの冷徹な重みではなく、自分を丸ごと肯定してくれる「体温」に触れ、僕は堰を切ったように涙を流した。
浅葱色の青年が優しく微笑む光景。黒い世界が白く塗り替えられていく光景。
その中で、僕は初めて、奪われかけた自分の名前を思い出したように、呪いではない「自分の呼吸」を取り戻していた。




