18.交渉とは、テーブルに着いた時には結論が出ているものである。
パチリ、と突然空色の瞳が開かれる。
じっとグレイを見た後で、にやーっと揶揄うような笑みを浮かべ、
「少しは見られる顔になったではありませんか?」
おそようございます旦那さまと歌うように口にする。
「起きてたのかよ」
手を止めたグレイに猫のように自ら頭を擦り付け、撫でろと催促するパトリシアは、
「寝ておりましたよ?」
と自己申告する。
「……いつまでだ」
疑わしいと言わんばかりのじとっとした目で尋ねてきたグレイに、
「"重っ"あたりまででしょうか?」
悪びれることなく答えるパトリシア。
「最初からじゃねえかよ」
そう言ったグレイは撫でる代わりにぺしっと軽くパトリシアの頭をはたいた。
「まぁ、失礼な。ちゃんと寝ていましたよ。暇すぎて」
あれから3日経ちますのでと現状を伝える。
取り乱す事なく、そうかと返したグレイは、
「"傲慢"と呼ばれていたな」
記憶を呼び起こし、パトリシアに尋ねる。
「ええ。7大悪魔がひとり"傲慢"。通り名はプラド」
「その名は異界大戦の記録で読んだことがある」
それは随分と古い記録で、古語で書かれたその話の中で"傲慢"は随分と人類に恐怖を植え付けた存在として描かれていた。
魔王の最側近として。
「ヒトがどのように伝承しているかは分かりかねますが、アレは本物です」
残念ながらとパトリシアはため息をつく。
「傲慢。その名に相応しく、傲慢でプライドが高く、そして異界大戦前よりその座についている古参。彼はただの一度もその籍を譲った事がないのです」
嫉妬の最期がどうなったか、自分の目で見て知っているグレイはそうかと小さく返す。
つまり傲慢の強さは本物で、ただの一度も敗北したことがない、という事だ。
攻撃されたことすら認識できなかった。底の見えない真っ暗な谷底を覗き込んだような恐怖と絶望。
このまま無策に立ち向かえる相手ではない、というのは確かだ。
「なんで、そんなやつとユズリハは一緒に? まさか、ユズリハが契約者ってやつなのか?」
「聞いてどうするのです」
「情報が欲しい」
「負け戦です。相手が悪い。万に一つもあなたで太刀打ちできる相手ではないのです」
「なら、何故俺を生かした?」
淡々とした口調に怒りはなく。
シーブルーの瞳は殺しをする時のように冷静で。
「嫉妬をあっさり撃退したパトリシアですら手首を落とされるまで気づかなかった相手だ。おそらく万全の状態で挑めるあちら側においても同格、あるいはそれ以上なんだろう」
グレイは自分を見返す空色の瞳を見ながら言葉を紡ぐ。
「だから、あなたがいるほうが勝率が上がる、と?」
勘違いも甚だしい。
パトリシアは嘲笑し、首を振る。
「渡り合うどころか、囮にもならない。いるだけではっきり言って邪魔なのです」
人間らしく、不様に地べたに寝転がっていてはいかがです? と連れて行く気はないとそう尊大に言い放ったパトリシアに、
「なら、何故パトリシアはまだここにいる?」
グレイはその手を掴み問いかける。
「見捨てるなりあの場で食糧として喰うなり、選択肢は他にもあったはずだ」
生かす方が難しい、といったパトリシアはどこまでも効率重視で。
そこには"情"などといった人間の原動力に成り得るものは介在しない。
だとすれば、そうせざるを得ない理由があるはずだ。
「俺はお前に多少なりと、気に入られてはいるんだろう。が、リスクを冒してまで俺を連れ帰るなんて合わないんだよ」
今までのパトリシアの行動と、とグレイは矛盾点を指摘する。
「縛りプレイとやらの条件に、俺の生存が関係するんだろ」
悪魔である以上、パトリシアもこちら側では誓約を受けている。
「だとすれば、その縛りプレイが達成されなかった場合、パトリシアはどうなるんだろうな」
トンっと自身の心臓を指差したグレイは、
「悪いな。俺が怖いのは、死ぬことじゃねぇんだよ」
監視下に置いた方が手間は少ないだろ、と言って言葉を締め括った。
「……脅し、のつもりですか?」
「脅しになっているなら良かった」
うーんと唸ったパトリシアが宙を仰ぎ思案すること数秒。
「私の旦那さまはとっても面倒臭いですわね」
出てきた言葉はいつもの軽口だった。
「お前ほどじゃねぇよ」
「まぁ、そんなにお褒めいただいても何も出せませんわ」
肩をすくめたパトリシアは、
「本当は私の正体にも気づいていらっしゃるのでしょう?」
と尋ねる。
「さて、な? 解答権は一回きり。使える手札は取っておく派なんだよ」
「左様でございますか」
唇で綺麗な弧を描くと、
「ユズリハの現在の契約者は私。"傲慢"ではございません」
ヒトの身では悪魔との二重契約はできませんからとパトリシアはグレイに告げる。
「私的には心地よくはあるのですけれど、話を聞く気があるのなら殺気をお納めください、旦那さま」
パトリシアに指摘され、大きく息を吐いたグレイは、
「続き、話せ」
と先を促す。
「及第点、と言ったところですわね」
ふふっと笑ったパトリシアは、どこから話しましょうかと空色の瞳を瞬かせ、
「それは、ヒトの歴史でいうところの遥か大昔。それでも私達にとっては、昨日の事のように鮮明に覚えている確かにあった過去の出来事ですわ」
静かに物語のはじまりについて話しはじめた。