3、記憶消し屋のもう一つの顔
今すぐに記憶を消すことはできない。残念に思ったグロリアは帰ろうかと考えた。
冷静になったからか、最初よりも店の様子が目に入った。古そうな外観に反して、綺麗な内装だ。そこで1つ疑問が生じる。
「店主様。半年に1回だと生計を立てられませんよね? 普段は他に商売でも?」
好奇心でつい聞いてしまった。尋ねた後で余計なことをきいた、こんなことをきいて店主の気分を害するかもしれないと焦りを感じたが、ソムヌスは表情を変えずに頷いた。
「ああ。この部屋よりも表通りに面した部屋で、魔法書専門店をしている」
魔法書。それは、魔法についての説明がされている本だ。それを専門にしているということは、来る客は限られるだろう。
「見てみたいです! もし問題がなければそちらを見せてもらえますか?」
グロリアは魔法が好きだ。結婚の話がなければ、王宮の魔法科に所属していたかもしれない。それくらい魔法好きなので、魔法書の専門店と言われるとすごく興味がわく。
しかし、「魔法」という言葉に紐付いてか、トニトルスから闇魔法への適性を貶されたことを思い出した。グロリアは苦い唾を飲み込んだ。
「ああ。構わないが……。大丈夫か?」
「……大丈夫です」
自分はどんな顔をしていたかは分からないけれど、ソムヌスには気づかれてしまったらしい。グロリアは慌てて笑みを浮かべた。
「こっちだ」
立ち上がったソムヌスはそれ以上何も尋ねずに、廊下の奥を手で示した。
ソムヌスに案内してもらった場所は、天国のようだった。広い部屋に所狭しと置かれた本。本棚に整理が追いついておらず、箱に入っているものもある。
「すごい……」
圧巻だった。感動するほど本がある。なんで今までこんな素晴らしい本屋を知らなかったのだろうか。
「この本屋は、もしかして会員制ですか?」
「そうだ。それに事前の連絡もお願いしている」
徹底している。記憶消し屋との経営も兼ねてなのだろう。個人の秘密を守らなくてはいけない記憶消し屋と、魔法を専門に勉強や研究をしている人間が来るであろう魔法書専門店。
「……もしかして、記憶消し屋の方も先に連絡が要りましたか?」
「まあ、一応」
「ごめんなさい」
急な来客だったから、ソムヌスを驚かせてしまったはずだ。だから少し訝しげだったのだろう。グロリアの謝罪にソムヌスは苦笑した。
「記憶消し屋の方はそういう客は多い。切羽詰まっている人間ほどそうだ。仮に魔法書専門店の方に約束があれば、記憶消し屋に来た人の方は後日にお願いしている。さっきは大丈夫だ」
グロリアはソムヌスをじっと見つめた。この人は見た目は近寄りがたいのに、内面は丁寧な人のようだ。先ほどから色々きいているのを、ちゃんと答えてくれる。
トニトルスはどうだっただろうか、と元婚約者のことを思い出す。出会った当初はちゃんとこちらの話をきいてくれていたはずだ。それがいつからか、自分で決めるようになって……。そこまで考えたグロリアは首を振った。思い出してどうする。
何かに打ち込みたい。忙しさで思い出す時間を減らしたい。
もし、大好きな魔法に関する本がたくさんあるこの場所で働くことができたら。
「店主様」
「なんだ?」
「私をここで働かせてくれませんか?」
駄目元だった。断られると思っていた。黙り込むソムヌスを、グロリアは祈るように見つめる。
「あまり記憶消し屋には関わらない方がいい」
口ではそう言うものの、ソムヌスには拒絶の色はなかった。ただ、グロリアのことを案じている表情であった。
まだ頼み込む余地はある。そう思ったグロリアは諦めなかった。
「お願いします。半年間。あなたが私の記憶を消すまでの半年で構いません。お願いします」
「記憶を消すまでなら、構わない」
記憶を消すまで。それをいうと、ソムヌスは少し考え込む様子を見せた後で頷いた。
「いいんですか?」
「ああ。その代わり、記憶を消し終わった後はここには来ないほうがいい」
「なんでですか?」
ソムヌスは表情を暗くした。そしてつぶやく。
「忘れたら、それに関するものには触れないほうがいい。何かのきっかけで思い出してしまったら困るから。苦しいことは、思い出さないほうがいいだろう?」
「店主様も……」
「ソムヌスで構わない」
「わかりました。ソムヌス様も消した記憶はあるんですか?」
苦しいことは思い出さないほうがいい。そう言ったソムヌスの表情は確信に満ちていた。自分が経験したかのように。
「ある。勿論覚えていないから説明はできないが」
あっさりと答えたソムヌスは、懐かしむような笑みを浮かべた。
「俺の知っている人間で、苦しい記憶をわざと覚えている人間もいた。『その記憶すら抱きしめて生きる。それが愛だ』と。俺はそうは思わない。辛いなら、忘れてしまえばいい。忘れたら、自分の中ではなかったことと一緒になるのだから」
辛い記憶すら、愛する。それを言ったのは強い人間なのだろう。自らに忘れないことを課して、相手のことを思い続ける。
それは、その人なりの愛だろう。間違いない。綺麗だと思う。それでも、グロリアには真似できそうもない生き方だ。
今のグロリアがほしかったのは、ソムヌスの言葉だ。彼の考えの方が染み渡るように心に広がった。
「忘れたら、なかったことに……」
「ああ。特に、本人は何も悪くない場合はそうだ」
それは、ソムヌスが記憶消しを対応するかどうかの基準の1つなのだろう。ソムヌスは傷つけられた側の人間のことを考えてこの店を始めたのかもしれない。
「それで、グロリア・ノーティカ嬢。君は魔法が好きなのか? それとも本が好きなのか?」
グロリアは漆黒の瞳を瞬かせた。
「グロリアで構いません。魔法が好きです。なんで分かったのですか?」
「この部屋に来たときの反応でわかる」
そんなに顔に出ていたのだろうか。顔に手を当てていると、ソムヌスはくすりと笑った。
「表情に出ている」
「そんなにですか?」
納得がいかない。自分はわかりやすくないはずだが。そう考えていると、ソムヌスが気遣うような表情を浮かべた。
「魔法が好きなのに、その魔法が理由で結婚を断られるのは辛かっただろう?」
ひどく優しい声だった。先ほどグロリアが事情を説明したときの内容を細かい部分まで覚えていたのだろう。
彼の表情から本気でグロリアのことを心配してくれているのがわかる。
「私は……」
気がつけば、声が震えていた。浅く呼吸をする。辛かったか? そうに決まっている。だって。だって。
「私は自分の魔法を愛しているのに。恥じたことなんて、ないのに。なんで貶されなくてはならないか分からない。なんで……。しかも、それを愛した人に言われるだなんて。トニトルスは私のことを、闇魔法に適性があるというところも含めて私を愛してくれると思っていたのに。今までの時間は全て嘘だったように感じて……」
ぽろぽろと涙が零れてくる。ソムヌスはグロリアにハンカチを手渡し、ただ黙って背中を撫でてくれるだけであった。彼が何も言うことはしなかった。まるで幼子を慰めるように、ぎこちなく背を撫でるだけだった。その空間は居心地が悪いものではなく、グロリアの気持ちを少しずつ落ち着けた。
しばらく泣き続け、気持ちが落ち着いたグロリアは羞恥心が一気にやってきた。
「……申し訳ありません。ソムヌス様」
「謝ることではない」
この人はぶっきらぼうな口調であるけれど、良い人だ。まだ出会って短時間だけれど、それが十分に伝わってきた。
「……記憶は、忘れようとすればするほど、まとわりつく。ここが記憶消し屋だと意識すればするほど、忘れたいという感情が触発されるだろう。ここで働くのは、やめておいた方がいいんじゃないか?」
ソムヌスの言葉に、再び涙が出そうになった。初対面のこの人はグロリアのことを慮ってくれる。グロリアを雇うのが面倒だから言っているわけではない。ソムヌスの表情はまるで本人が傷を負ったように苦しげにグロリアを見ている。
この優しい人は、記憶を消すたびに人の痛みまで抱えるのだろう。それにグロリアは心が苦しくなった。
「いいえ。やめません。お願いします」
「……わかった」
理解してみたいと思った。この優しい記憶消し屋を。半年でどこまで知ることができるかは分からないけれど。初対面の相手をここまで気遣ってくれるこの人の近くは、どんな景色だろうか。