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ウエンディがレヴァーゼ王国の王女として人々の注目を集めたのは、ほんの一週間ばかりのことだった。
なかなか子供に恵まれない正妃のために集められた、由緒正しい側妃たちの中の一人が母親で、ウエンディは9番目の赤ん坊だった。
父譲りの青い目をしている。
髪は母によく似た地味なブラウンで、残念ながら王家のブロンドは引き継がれなかった。
それでも、王の血筋には違いない。
一番年の近い姉はすでに5歳で、一番年上である11歳の兄と共に、慰問や外交に顔を出していた。
ウエンディは、久しぶりの赤ん坊だった。
側妃の子であれば、女子である方が望ましい。
母も無駄に後継者争いには巻き込まれないだろうと、ほっとしていたそうだ。
ウエンディという名をもらい、王城はお祝いムードで、城下も便乗してメモリアルスプーンがたいそう売れた。
その生誕から、一週間。
たったそれだけの後、なんと、正妃の妊娠が分かった。
父王は正妃を愛していた。
四人の側妃を娶ったのは、王として、国家を存続せしめるものとして、後継を誕生させるためでしかない。
当の側妃たちも、それをよく分かっていた。
すでに男子は三人いたが、正妃の子が男児ならば、その子が第一等の継承権を持つ。
そのこともみなが承知していた。
正妃の妊娠を、王は喜んだ。
それはそれは、喜んだ。
ゆえに、王妃を気にかけ、公務を最小限にし、暇さえあれば訪ねてその腹を撫でた。
愛する妻との子を授かれることを神に感謝し、万が一のことがないよう、警護を増やして片時も油断することはなかった。
結果、義務としての側妃たちへの対応が、非常に難しくなる。
ゆえに、王は、側妃たちに宣言した。
以後、側妃たちは現在の待遇を維持したまま、王子、王女の母として仕えてほしい、と。
つまり、今後のお渡りはないという話である。
もしも望むなら、実家に戻っても構わないという寛大な話さえあった。
側妃たちもそれで構わなかった。
王を愛して嫁いだわけではなく、彼女たちは、美貌と家柄と知性だけで上から順に集められただけの関係だ。
実家ともいまだつながりを持ち、側妃という地位でその繁栄に寄与している。
また、それで十分だと考える謙虚さも、選定の条件であった。
ゆえに、四人の側妃のうち、二人は実家に戻り、王家からの手当てもそのままに、別の貴族と婚姻した。
王家と王国は、安泰だ。
誰もが国の繁栄を喜び、そのムードが国中に行き渡っていた。
そして誰もが、ウエンディの存在を忘れた。
乳母はついていた。
生まれる前から手配されていた子爵家の次女で、騎士号を持つ夫との間に、同時期に赤子をもうけていた。
のんびりした気質で、乳を与えれば、あとは実家と同じように刺繍やお茶会をして過ごした。
もちろんそれが乳母の仕事であり、彼女にそれ以上を求めることはできない。
母は、臣籍に下った。
つまり、側妃を降り、実家に戻って別の婚姻を結んだ二人のうちの一人だった。
王女であるウエンディを連れて行くことはもちろん出来ないし、そんなつもりもなかった。
曲がりなりにも王の子であり、王宮で暮らせば幸せになれると信じていた。
ウエンディが生後一か月の頃のことだった。
父は、忙しかった。
一国を導き、国勢を読み、他国と交渉し、その全ての判断を担い、同時に正妃とも睦まじい時間を出来る限り持った。
本気でウエンディを忘れていたわけではないが、ほとんど気にかけてはおらず、ただしそれは他の王子王女についても同じであった。
子供たちの世話は側妃と乳母とその側近たちの仕事であり、衣食住の面倒を直接みることは王の仕事ではない。
やがて、王妃は男児を生んだ。
待望の後継ぎだ。
王の治世は順風満帆と、王宮内は浮かれていた。
ともかくも、正妃の妊娠から出産まで、王宮は正当な後継者のための準備で大いに忙しく、あらゆる人員の手には仕事がごったがえしていた。
結果、ウエンディは、元側妃の部屋であった場所で、乳母によって乳を与えられ、やがて食事を与えられ、あとは放っておかれて育った。
実質的に彼女の面倒をみていたのは、城のメイドだ。
これは、元々側妃であった母についていたもので、配置換えがなかった、あるいは忘れられていたために、その部屋に出入りせざるをえなかった。
途中、人員配置を見直す時期にメイド長が気づいたが、何をしているのかと問われたメイドは、王女様の世話をしていると答え、結局そのまま配属は変わらなかった。
メイドはもちろん、赤ん坊が、長じて幼児が、そこに放置されていることには気づいていた。
しかし、だからどうしたというのだろう。
メイドの仕事は掃除やお茶や、身の回りの世話であり、王女であるウエンディの処遇に考えを巡らせることではない。
ただ、着替えはメイドの仕事だ。
放置されたウエンディには、赤子の時に事前に準備されていた肌着や産着しかなかった。
もちろん途中からサイズが合わなくなり、さすがに困って、メイド長に相談した。
メイド長はそれを侍女頭に伝えた。
侍女頭は、実務に関しては有能だった。
衣服が足りないならば、与えれば良い。
宰相と打ち合わせののち、上の兄姉と同じように、一年ごとに採寸し、必要と思われる衣服が届けられるように手配された。
これは、王宮内で王家の人々が過ごす際の、寝間着やデイドレスだ。
夜会や慰問、外交の際には、それぞれ相手に合わせて特注することになる。
10人いる子供たち、王と王妃、二人の残った側妃達、そのそれぞれにいつどんなお召し物を作ったか、記録はきちんとされた。
見返すことのない、単なる記録である。
食事は、同様に人数分作られ、必要に応じて運ばれた。
ウエンディは、赤子の頃は乳母の乳を、その乳母の指示で少量ずつ離乳食が与えられ、やがて一人前の食事がとれるようになると、メイドが運んで置いていった。
その頃にはもう、乳母の仕事はなくなり、彼女は退職していった。
そうして16年が経った。
ウエンディの名が再び王の口から出たのは、彼女の婚姻が決まったからだった。
世界情勢はゆっくりだが流動的で、このレヴァーゼ王国の安定はゆるがないものの、他国の趨勢は様々に変化した。
中でも、小国だったある国が、王太子を亡くし、将軍だった次男を王に迎えたとたん、軍事外交を敷いて強気な攻勢をかけてきたことは、大きな変化だった。
ティアドリィ王国というその国は、ほんの5年で近隣の国を掌握して取り込み、ティアドリィ連合国を樹立した。
その規模は、この国に匹敵、あるいは軍事でははるかに上回る力をもっていた。
このティアドリィ連合国の一地方に、元はアウリラ王国、現在をアウリラ地方国とする地域がある。
連合国は各国の主権を認めているため、元々王政であったこの地方は、今も王家が存在した。
一地方とはいえ、この国は、ティアドリィ元首国に匹敵する軍事力を持ち、かつ、国王同士が遠縁で、実質元首の後ろ盾があると言えた。
この国が、レヴァーゼ王国から姫君を迎えたい、と打診してきたのだった。
『貴国と当国とが互いに手を取り、さらなる国々と絆を深めるにふさわしい、外交に有能な王女を望む』
その文言から、あからさまに外交に強いことで有名な、ダリア王女を求めていることは明白だった。
もちろん、打診とは、通告の意味である。
お前の国は当国と良好な関係を結ぶつもりがあるか、ないか?
それを問われているのだ。
父王は、争いを好まない。
必要があれば打って出るが、勝てない戦いは挑まない主義だ。
もちろん、受け入れるしかない。
問題は、誰を行かせるかだ。
この国の王女は6人で、その内4人がすでに婚姻済み、残りの2人のうち、21歳の娘ダリアは外交に強く手放しがたい。
「ウエンディを呼べ」
それが、16年ぶりに呼ばれた名前であることに、誰もが目を瞬かせた。
そういえば、そんな方もおられたな、というのが、率直な側近家臣らの感想だった。
騎士号のある王子は騎士たちに、慰問に熱心な王女たちは財務官たちに、外交に精を出す王子王女たちは外務官たちに、それぞれ認識されている。
逆に、それ以外の王子王女たちにはうとく、全員を把握している家臣などいない。
ゆえに、久しぶりに名を聞いたな、というだけで、特別おかしいとは思わなかった。
「呼ばれてるって聞いたんですけど」
ただ、会議の場に呼ばれてやってきたウエンディを見て、外務官たちだけは首を傾げた。
あのドレスは、この場にふさわしくないようだが、侍女は何をしているのだ。
品格とTPOを重視する彼らだからこそ、そう思った。
次に、そのぎこちないお辞儀に、全員が首を傾げた。
国王陛下の前であれば、最上級のカーテシーか、そうでなくとも上位貴族のスカートのつまみかたであるべきなのに、それはただぺこりと頭を下げるだけの平民の仕草だった。
「そなたの婚姻が決まった。半年の後、ティアドラ連合国アウリラの第二王子に輿入れする。
準備をしておくように」
首を傾げつつも、これは議会の承認を得、決まったことではあったので、話はそのまま進む。
ただ、彼女の返事を議事録に記し、国家の決定とするだけのことであった。
かしこまりました、の一言を、記録官はすでに書きかけていたほどだ。
だというのに、ウエンディ王女の口から出たのは、笑いを含んだ別の言葉だった。
「面白いことを言うんですね」
時が止まった。
陛下の言葉に対しては承諾以外にない。
それ以外であってはならない。
会議の出席者たちは、自分たちの耳を疑ったほどだ。
王でさえ、驚きというよりは、意味が分からず止まってしまった。
その間に、王女はさらに言葉をつむぐ。
「私、ダンスすら踊れませんよ?」
ダンス?
ダンスがどうしたって?
もはや口がぽかんと開いた人々の中で、真っ先に立ち直ったのは、宰相である。
宰相、ローワン・スティール。
「お、王女よ、仮令つたないダンスであろうと、第二王子は怒りはしませんでしょう、冷静な方だとうかがっておりますゆえ」
その場をなんとかおさめ、だからはいと言うだけでいいのだと、祈るような気持だった。
返って来たのは、真っ直ぐに見つめ返してくる瞳の蒼さ。
まさしく、王とうりふたつの蒼だ。
「いいえ、全く踊れないってことよ。だって、習ったことがないから」
何かがおかしい。
会議とは、おおむね流れが決まっているもので、多少の話し合いはあるものの、最善と皆が思う事柄が選ばれ、想定されないことはめったに起こらない。
こんなふうに、何か言うべきことを探して迷うなど、今までなかったことだった。
「ダンスの時間を遊んですごしていたということか?」
王の低い声は、事態は分からないものの、かすかに王女を責めるものだった。
なるほどそういうことか、と納得する空気が流れかけたが、すぐに、また王女によってそれは霧散させられた。
「ダンスなんか習ってないって言いませんでした?」
沈黙。
沈黙、また、沈黙。
誰が何を言うべきか、譲り合うような時間があったが、言葉を継いだのは当の王女だった。
それも、王女にあるべき微笑みすらない、表情のない顔で。
「ちなみに、他の何も習っていません。マナーも、ええと……他に何を勉強するのか分かりませんが、とにかく、何ひとつ、です。
だって、教えてくれる人がいませんから。
私は正しい食事の仕方も知らないし、正しい言葉遣いも知らないし、ましてや王族としての慣習や振る舞いも何もかもしりません。
だから、他国に嫁ぐなんて、とんでもないことだと思いますよ?」
ローワンの心臓が、まるで止まる寸前のようにどくりと大きく動いた。
冷や汗がどっと流れてくる。
そんな御方もおられたな──ウエンディの名を聞いた時の自分の感想が、改めて思い出される。
思えばその時、他の誰もが、同じような表情を浮かべていなかったか?
この王女の母親は誰だったか。
そう、すでに降った公爵家の長女、セシリア様だ。
では乳母は。
誰だったか。
誰だ。
「せ……専属侍女は、本日お連れでいらっしゃいますかな」
事情を聞きたい。
ドアの外に控えているだろう侍女を呼ぼうと合図をしかけたが、首を傾げるウエンディを見て、身体が動かなくなった。
「専属侍女?」
何が起こっているのだろう。
どうすべきか、何をすべきか、何を言うべきか、どう先を進めるべきか、頭が真っ白になる。
こんなことは、宰相になってから初めてのことだ。
思わず王を見る。
これ以上は自分の範疇ではない、王がこの場をどうにかしてくれないだろうか。
そう願ってすがるように見た王の顔は、青ざめていた。
ローワンの仕事は、なんとかこの場をおさめることだった。
「お……恐れ入ります、ウエンディ王女殿下。
ひとまずはこちらで確認を致したいことがいくつかございますゆえ、ご退室いただいて結構でございます。
本日のご予定は……この後、できれば自室で待機いただきたいのですが」
「ええ、いいわよ。私は、自分の部屋から出ませんから。もしかして出ても良かったの?」
出て行く際にちらりと見えたのは、ウエンディを迎えるメイドの姿だった。
下級メイドが、一人。
「メイド長と、侍女頭をここへ。
財務官、王女に関する出納帳を記録庫から可能な限り持ってこい」
ばたばたとした時間があり、やがて、様々な証言と記録を確認して分かったことは、ウエンディ王女の言うことはすべて事実であるということだ。
彼女は何の教育も受けず、どこにも出されず、誰にも気にかけられず16年を生きてきた。
判で押したように、年に10着の肌着と2着の寝間着、5着のデイドレス、年に一個の誕生石がルーティンとして届けられていた。
食事はメイドが運び、三日に一度、フランス窓から裏庭に出てはひたすらぐるぐると歩き回る。
ちなみにこれは、乳母であった子爵家の娘が、3歳だったウエンディにそう助言したものらしい。
その直後、乳母は退職した。
以降、ウエンディは誰の訪れもなく、誰と触れ合うこともなく、今まで過ごしてきた。
「なななななぜ、こんなことに!」
不運、としか言いようがない。
記録を辿れば、ウエンディが生まれた一週間後に王妃の懐妊が分かり、すわ跡取り王子の誕生だとみなが浮かれ騒いだ時期だった。
「言ってくれれば……!」
誰が?
乳母はおらず、侍女もおらず、メイドが一人食事を運んで着替えさせ、そうすると、『普通』を教える者は誰もいない。
普通は、侍女がつき、普通は教育が施され、普通は兄弟姉妹と交流を持ち、普通は親子で慈しみ合う。
誕生日を祝い、素敵な贈り物をして、時に叱って、世界を知って行く。
「陛下……」
じっと黙りこくっていた王は、宰相に促され、決断した。
「ウエンディにあらゆる教育を施せ。半年で最低限の淑女にしろ」
王の命である。
ついさきほど、その返事が諾以外にないと考えていたのは自分だ。
しかしローワンは、叱責覚悟で進言した。
宰相としてなすべきことはなす、それが代々この職に就いてきたスティール家の教えだった。
「恐れながら陛下……おそらく王女様は字も読めぬものと思われます。
今から教師をつけたとて、半年では……」
「ではどうしろというのだ」
「ダリア王女殿下がおられます」
その瞬間、王の顔に一瞬、怒りの表情がよぎった。
その反応は、予想されたことではあった。
ウエンディが生まれる前、五年間は誰の懐妊もなかった。
当時の末娘として生まれたダリアは、母親である側妃の美貌をあますところなく受け継ぎ、それはそれは可愛らしい子供だった。
親兄弟の愛情を一身に受け、美しく賢く育った王女は、その知性とやわらかな笑みを武器に、外国との交流を積極的にすすめた。
さまざまな輸入品がもたらされ、特産品の輸出で外貨を得られたのは、ダリアの尽力によるところが大きい。
それに、なにより、王が可愛がっていた娘だ。
生まれた時から5歳になるまで、すなわち正妃の御子が生まれるまで、目に入れても痛くない様子であったことは、誰しもが知っている。
今回の婚姻は、政略中の政略だ。
中立だが、いつ敵になるとも知れない国へ、単身行かせることに不安がないわけがない。
当然、向こうも人質を預かるようなつもりでいるだろう。
愛のある人生など、子供の見る夢のようなものだ。
「……二度は言わぬ。いいな」
ほんのわずかながら、迷いがあったことが救いだった。
それだけで、ローワンはそれ以上を言うことなく、王の命に従うのだった。