その5
「……大変申し訳ないが、今夜は君と初夜の契りを結ぶことは出来ない」
しばしの沈黙の後、マーガレットは勇気を振り絞って今日妹の夫となったばかりの青年に問うた。
「――理由を、お伺いしてもよろしいのでしょうか?」
侯爵家の侍女たちに隅々まで洗い清められ、煽情的な夜着を身に纏っているこの状況で。
夫婦の寝室のベッドに座り、己が純潔を捧げる覚悟で待ち構えていたこの状況で。
まさか土壇場になって拒絶されるとは思ってもみなかったマーガレットの声には、僅かに悲壮感が滲んでいた。
それは任務が遂行出来ないことへの焦りが主な理由だったが、そんなことは知る由もないパーシヴァルは慌てて下げていた頭を上げると、
「すまない、順番を間違えた……! 最初から説明させて欲しいんだが、問題ないだろうか?」
ひどく申し訳なさそうな表情を浮かべながら、真摯な言葉を口にする。
勿論マーガレットとしても否やはない。というか、説明して貰わないと困るのはこちらの方なのだ。
マーガレットが同意を示すとパーシヴァルは少しだけ表情を緩めた。そして椅子の上に掛けられていたバスローブを手に取り、マーガレットに差し出してくる。
「では、こちらへ。少し長い話になると思うから」
ありがたくバスローブを羽織り、マーガレットは勧められるままに椅子へと腰掛ける。
それを見届けてから対面に座ったパーシヴァルは、ひとつ咳払いをすると穏やかに話を切り出した。
「こうして直接二人きりで話すのは初めてだから、改めて自己紹介からさせて貰いたい。ストラウド侯爵家のパーシヴァル・ストラウドだ。職業は外交官で年齢は二十二歳。俺のことはパーシヴァルと呼んでくれ」
「……ご丁寧にありがとうございます。それではお言葉に甘えてパーシヴァル様と呼ばせていただきますね。私のことはどうぞお好きにお呼びくださいませ」
「君の名前は――ジュリア、で間違いない?」
その質問には思わず首を傾げたくなったが、素直に「はい」と返答する。
すると僅かにパーシヴァルの表情が翳りを帯びた。大聖堂で見た時にも覚えた違和感が甦る。
「あの……私の名前に、何か問題でもあるのでしょうか……?」
「あ、いや……失礼した。少し君のイメージにはそぐわないような気がして」
「えっ……?」
その言葉にひやりとする。まさか正体を見抜かれているのではないかと、マーガレットは思わず胸元まである髪に視線を落とした。自分のものではないチョコレート色に思わず安堵する。魔法が解けたわけではないようだ。それでも不安が拭いきれないマーガレットに、パーシヴァルは言う。
「君さえよければ……そうだな、リアと呼ばせて貰っても?」
「あ、はい。もちろん構いません。パーシヴァル様のご随意に」
「ありがとう、リア」
彼の柔らかな表情と声に、マーガレットは人知れず罪悪感を抱く。
(……優しい方だわ。それなのに騙してしまって本当にごめんなさい……)
決して口にすることは赦されない謝罪を心の中で呟きながら、マーガレットは気持ちとは正反対に微笑みをパーシヴァルへと返した。
「さて……リアは今回の婚姻についてというか、俺の事情をどこまで把握しているのかな?」
「と、仰いますと……?」
「先月まで俺に別の婚約者がいたことは、知ってる?」
「……はい、存じております」
気まずげなこちらの反応で察しは付いたのだろう。パーシヴァルは話を続ける。
「彼女とは幼馴染だったんだ。それこそ十年来の婚約で……病気が発覚した後も、いつかは治ると信じていたんだけど……」
言葉に詰まったパーシヴァルの心中を思い、マーガレットも胸が苦しくなる。
だから本来であれば言うべきではないと分かっていながら、自然と口が動いていた。
「パーシヴァル様……その、無理して私を受け入れる必要はありません。婚約者様のこともですし、此度の急な婚姻に戸惑われるお気持ちは理解しております」
いくら政略とはいえ、たった一ヶ月では気持ちの整理もままならないだろう。
そんな状態で新たな花嫁を迎えることになったパーシヴァルに対して、すぐに気持ちを切り替えろだなどと言えるはずもない。
そんな風に考えて発したマーガレットの言葉に、パーシヴァルのサファイアの瞳が驚きをもって揺らめいた。
「……君は、とても優しい人だね」
ぽつりと落とされた声を、マーガレットは心の裡で否定する。
(そんなことない。本当に優しい人ならば、貴方のような人を騙すことなんて出来ない)
十年以上、生家で虐げられてきた痛みとは別種の鈍い痛みがマーガレットの胸の奥を襲う。
初めて感じる種類のそれを甘んじて受けながら、それでも決して表には出さない。
自分にはそんな資格はないと分かっているから。
「リア」
「はい、パーシヴァル様」
「しばし俺に時間を……半年ほどの時間をくれないだろうか?」
「時間……ですか?」
「正直な話、元婚約者のことを悼む時間が欲しいんだ。彼女のことは俺なりに大切に思って来たから、きちんと気持ちに整理をつけたい」
「それは……はい、当然のことかと思います」
マーガレットは心から同調し肯定する。
もし自分が彼と同じ立場だったら、きっと同じように時間が欲しかったと思うから。
彼の提示した半年という区切りは、おそらくそれ以上の先延ばしは双方の家から圧力が掛かる可能性を考えてのものだろう。パーシヴァルもジュリアもまだまだ十分に若いが、世継ぎに関しては早ければ早い方が好ましい。
「それに俺たちは今日から夫婦になったけど、互いのことはまだ何一つ知らない。そんな状態で、君と初夜の契りを交わすことを俺は望まない」
だから、とパーシヴァルは真剣な表情をマーガレットに向けた。
「俺に……君を心から受け入れるだけの時間をくれないだろうか? そして出来れば君にも俺のことを知って貰いたい。その上で、きちんとした夫婦として契りを交わしたいんだ」
それは、貴族としては子供染みた甘い考え方だと思う。
だけどマーガレットは、そんな甘い考えのパーシヴァルを好ましく思った。
不都合を包み隠さず、真摯に歩み寄りの姿勢を見せた彼を尊重したい――だから。
「承知いたしました。すべてパーシヴァル様のお望みのままに……」