その9
「だ、騙すなど……いったい何を仰っているのかしら、パーシヴァル様は」
「この期に及んで白を切ろうとする貴様の性根の方が私には信じられないが?」
心底呆れたように目を眇めるパーシヴァルに、ジェシカの蟀谷が怒りからかヒクヒクと動く。
一方、最愛の妻の常ならぬ態度から何かを察したのか、
「……ジェシカ、お前は私を騙していたのか……?」
顔から色を失せさせた伯爵がポツリと零した。その声は大きさに反して室内全員の耳を揺らす。
当然ながらジェシカは血相を変えて伯爵へと向き直り、眉を下げ瞳を潤ませた。
「酷いですわ旦那様! ワタクシが貴方を騙すなどあり得ません! そもそも、騙すとはいったい何を指しているのか――」
「貴様がワーズワース伯爵とマーガレットの母君を仲違いさせるために画策した、と言っている」
「なっ……!?」
「…………どういうことか説明をしてくれないか、パーシヴァル殿」
驚愕に顔を引きつらせるジェシカとは対照的に、伯爵の声と表情は酷く淡々としていた。しかしその瞳だけは滾るように熱を持ち、ひたすらにパーシヴァルを射抜いている。そこからマーガレットが読み取れたのは、伯爵も真実を求めているということだった。
おそらくパーシヴァルも同じように感じたのだろう。彼は伯爵に対する態度をあからさまに変え慇懃に首肯した。
「先ほども申し上げた通り、伯爵とマーガレットの母君は政略結婚だった。だが、だからといって最初から互いを憎み嫌い合っていたわけではない。むしろ二人とも政略だからこそ相手の気持ちを慮り、歩み寄ろうとしていた――違いますか、伯爵?」
「……少なくとも、私はそのつもりだった……っ! だが……」
「ホリー様も同じでしたよ。それはこの日記をお読みいただければ分かります」
マーガレットは胸に抱いた日記帳に目を落とす。確かにそこには、嫁いできた当初は伯爵の態度も高圧的でなく、むしろ好意的とすら感じていたことが綴られていた。初めてそれを読んだ時、マーガレットは母の肉筆であるにもかかわらず内容を疑ったが、今の伯爵を見るだに真実だったのだろうと素直に思えてくる。
「結婚当時の伯爵は二十六歳、対してホリー様はまだ十五歳だった。おまけに身体も弱かったため、床に臥せることも多かった。当然、伯爵としては貴族の義務として彼女に子を生すことを求めるところでしょうが……貴方は一年半以上もの間、初夜を遅らせたのですね」
「っそれは……貧相な子供を抱く気にならなかっただけだ」
「……伯爵のお気持ちは察しますよ。私自身、似たような状況を辿っていたようなものですし」
そう言ってパーシヴァルはマーガレットを愛おし気に見つめた。おそらく屋敷に来た当初のことを彼は思い出しているのだろう。確かにあの頃のマーガレット自身は栄養失調の酷い見た目で、女性的な魅力は皆無だった。そんな女性と身体を交わすのは精神的に抵抗があるはず。
伯爵から見た年若いホリーも健康な状態とは程遠かったに違いない。故に、伯爵はホリーの身体に負担を強いることを避けた。そう考えればつじつまは合う。
(それほど母を気遣っていたのなら、どうして……)
マーガレットの胸の裡に湧いた疑問に答えるように、パーシヴァルは話を進めた。
「……ただ私と違って伯爵の運が悪かったのは、そんな時期に伯爵家当主の座を継がざるを得なかったことでしょう。多忙を極めた貴方は屋敷を空けることも多かった。ホリー様ばかりに構っている暇もなかったはず」
「…………」
「当時の使用人達への聞き込みによればホリー様もせめて貴方の迷惑にならないよう、伯爵家の環境に慣れて健康を維持することで精一杯だったようです。貴方がたはお互いに気を遣いすぎていた。――そして、そこにまんまと付け込まれた」
パーシヴァルに誘導されるように、再び全員の視線がジェシカのもとへと集まる。
「幼少期からの幼馴染で当時は男爵家の令嬢であったジェシカを、伯爵は信頼していた。自分がなかなか屋敷に帰れないことから、妻であるホリー様を気に掛けて欲しいと頼む程度には」
「――えっ!? お父さまとお母さまって幼馴染だったの!?」
場にそぐわないジュリアの素っ頓狂な声が響く。
しかしマーガレットにはジュリアの気持ちが手に取るように分かった。
この辺りの情報はホリーの日記ではなく、当時の使用人達への聞き込みなどから得られたものだ。
ワーズワース伯爵家とジェシカの実家である男爵家の領地が隣接していたため、伯爵とジェシカの間には古くから交流があったという。
マーガレットはパーシヴァルから教えられるまでその事実を知らなかった。驚く様子からジュリアも同様だったのだろう。そしてそれは、マーガレットの母であるホリーにも当てはまる。
「……母は、初めてジェシカ様にお会いした際に『自分こそが伯爵にとって最愛の恋人であり、身体の弱いお前はただの金づるに過ぎない』と言われたようです」
「な、んだ……と……」
「で、でたらめよ! 旦那様、どうか惑わされないでくださいませ!!」
思わず伯爵へと駆け寄ろうとしたジェシカを、エドガー殿下の騎士が牽制して止める。しかしそんな妻には目もくれず、伯爵はひたすらにマーガレットへと視線を向け続けていた。これほど実父と視線を交わしたのは、もしかしたら生まれて初めてのことかもしれない。
幼少期より放置もしくは虐待をされてきたマーガレットにとって、実父は恐怖の象徴だった。
しかし今は。目の前の伯爵は。
まるで迷子になった子供のように頼りなく見える。
同時にマーガレットの中で、もしかしたらという想像が確信へと変わっていく。
(……やはり、この人は母のことを……)
堪らず奥歯を噛みしめた。怒りなのか、悲しみなのか、はたまた別の感情によるものなのか。
マーガレット自身にも区別はつかない。
分かるのは、もっと早くに――それこそ母が生きていた頃に、この事実を伯爵が知ることが出来ていれば。
(もしかしたら、この人を心からお父様と呼べていた未来もあったのかもしれない)
決して取り戻せない過去を悼むように、もしくは振り切るように。
マーガレットは決然と口を開いた。
「ジェシカ様の話を聞いた母は、自分が伯爵にとって荷物でしかないと思ったようです。愛する二人の仲を引き裂くようなこともしたくないと、母はジェシカ様の勧めに従って離れに移動することを決めました。するとその頃から、伯爵の態度が目に見えて冷たくなっていったと――」
「なんだそれはッッ!? 私はジェシカから、ホリーが内心では十以上も年の離れた私と身体の関係を持つことを忌避し、白い結婚を狙って離れに移動したと聞かされて……っ」
「……なるほど。つまり二人ともワーズワース夫人の嘘にまんまと騙されたわけか」
「殿下!? そんな、濡れ衣ですわ!! ワタクシは何もしておりません……っ!!」
目に涙を浮かべ必死に訴えかけるその様子は、生来の美貌と相まって胸に迫るものがある。
だが、
「ははっ……大した演技力だな。舞台女優にでもなった方が良かったかもしれないぞ、夫人」
王太子殿下は鼻で嗤って一蹴した。次いで彼は目線を別の方向へと移す。
「ワーズワース伯爵……貴殿は何故、己が妻よりも幼馴染の言葉を信じたのだ?」
「っ……それは――……」
「当ててやろうか? 貴殿は恐れたのだ……憎からず思っていた妻から拒絶されるのを。だからその前に、自分の方から彼女を拒絶した。つまりは向き合うことから逃げたのだ」
「ッ――違う! 私は……私はッッ」
「……それほど、貴殿は惹かれていたのだろう。ホリーという女性に」
声を返す代わりに苦悶の顔を覗かせながら、伯爵が両手で頭をガリガリと掻き毟る。
その態度こそが殿下の言葉を肯定していた。
「え、どういうこと……? お父さまはお母さまのことが好きなんでしょう?? お姉さまの母親なんて、目障りな邪魔者だったんじゃないの……??」
ひとり状況が掴み切れていないジュリアの不安げに揺れる声が室内を包み込む。
彼女はそのまま縋るような目を実母ジェシカへ向けた。するとそれに気づいたジェシカは、まるで天恵を得たかのように場に似つかわしくない朗らかな笑みを作った。
「……ええ、そうよジュリア。その通りよ……旦那様が愛しているのはワタクシだけ。あの女狐は最初から旦那様を裏切っていたの。ワタクシはそれを旦那様に教えてあげただけ。そうしたら旦那様はあの女狐でなくワタクシを愛してくださった……そして、貴女が生まれたのよジュリア」
まるで熱に浮かされたようにジェシカは陶然と謳いあげる。
その様子をじっと見据えながら、パーシヴァルが深く眉間に皺を寄せた。
「こんな状態でもなお嘘を吐き続ける貴様の神経が俺には理解出来ない……というか、ここまで醜い色は生まれて初めて見たな」
独り言のように呟いた後、彼は一度、王太子殿下とアイコンタクトを取った。
そしてすぐさまもたらされた殿下の首肯を確認すると、今度はジェシカに対して冷たい声を投げつける。
「もうつまらない芝居も大概にしてくれないか、ジェシカ・ワーズワース。貴様がいくら虚偽と虚飾を並べたところで事実は覆らない」
「あら、ワタクシは嘘など吐いておりませんわ? そもそも、ワタクシが嘘を吐いていることなど、いったい誰が証明なさると仰るの?」
余程ボロを出さない自信があるのだろう。
コロコロと笑い声をあげたジェシカへ、パーシヴァルは厳かに告げた。
「――そうだな。では、王家の立会いの下に貴様の罪を暴くとしよう」
そしてその発言と同時に、パーシヴァルのサファイアの瞳は――その色を黄金へと変えた。




