その4
案内人の指示に従い、花嫁姿のジュリアに扮したマーガレットは大聖堂へと続く廊下をゆっくり進む。ヴェール越しのため少々視界は悪いが、ドレスの裾にさえ気を付ければ一人で歩くのに支障はなかった。
ほどなく大聖堂の中央大扉が見えてきたため、マーガレットが改めて気を引き締めていると――
「――ああ、ワタクシの愛しいジュリア」
どこか甘ったるい女性の声がすぐ真横から聞こえてきた。
瞬間、マーガレットの背筋が恐怖で総毛立つ。
しかし明らかに自分に向けて発されたその声を無視することは赦されず、
「……お母様」
マーガレットは首だけ動かし、なんとか笑顔を取り繕った。
白い薄膜越しに見るその人物の名はジェシカ・ワーズワース。
マーガレットの義母にして現ワーズワース伯爵夫人――そして、マーガレットがこの世で最も恐れている人物でもある。
三十代後半とは思えないほど若々しく美しい義母は、極度の緊張状態にあるマーガレットの肩にそっと手を置いた。
「お式が始まる前に、貴女にどうしても伝えておきたくて……ごめんなさいね?」
「いえ……なんでしょうか、お母様」
「そのドレスとても良く似合っているわ! 急なお式で心配していたのだけれど杞憂だったわね……これならパーシヴァル様もきっと貴女を気に入ってくださるはずよ。緊張するのは分かるけど、もっと自信を持ちなさい?」
「……ありがとうございます、お母様」
傍からは愛娘を心配する慈愛に満ちた母親にしか見えないだろう。
気を利かせた案内人が自分達から遠ざかるのに、マーガレットは絶望的な気持ちとなる。
一方、笑みを深めた義母は真っ赤なルージュに彩られた唇をマーガレットの耳元に寄せると、
「――戻ってきたらお前に相応しい最低最悪の嫁ぎ先を用意しておいてやる。楽しみにしているがいい」
ぞっとするほどに低い声で残忍な言葉を囁いた。
直後、左肩に鋭い痛みが奔る。その痛みの正体が義母の立てた鋭い爪であることは患部を見ずとも理解出来た。
マーガレットは固く目を閉じ、嵐が過ぎ去るのを待つようにじっと耐え忍ぶ。
「……あの、大変申し訳ございません。そろそろお時間が……」
案内人の遠慮がちな声を合図に、密やかな暴力は幕を閉じる。
微かに息を吐いたマーガレットに対し、義母は「では、しっかりね」と激励の言葉と共にコロコロと笑って去って行った。
「式の直前に心配になって顔を見に来られるとは、とてもよいお母君ですね」
「……ええ、自慢の母です」
まったく心にもないことを口にしながら、マーガレットは気持ちを立て直すのに集中した。
それから数分もしない内に大聖堂へと辿り着く。
閉ざされた中央大扉の前には父であるワーズワース伯爵が待ち構えていた。儀礼的に差し出された肘に腕を絡めたところで、案内人の手により扉が開け放たれる。
厳粛な空気の中、大聖堂の中央、敷かれた赤い絨毯の先に――その人の姿はあった。
艶やかな黒髪を全体として後方へ撫でつけ、白と金を基調とした婚礼衣装を纏った美貌の青年。
吸い込まれるようなサファイアの瞳は真っ直ぐに歩み寄るマーガレットの姿を捉える。
(この方が、パーシヴァル・ストラウド様……想像よりも遥かに綺麗な方だわ……)
思わず芸術品でも鑑賞するかの如く見惚れそうになった自分を抑えながら、全身の神経を研ぎ澄まして淑女としての所作を意識する。
近くまで来ると彼が思った以上に長身だということも分かった。自分よりも頭一つ分は高い。
「……では、パーシヴァル殿。娘を……ジュリアをよろしく頼みます」
伯爵のその言葉に、何故かパーシヴァルは怪訝そうな顔を覗かせた。何か気に障ることでもあったのだろうかと、マーガレットはヴェール越しにそっと彼の顔色を窺う。
するとそんなこちらの視線に気づいたらしいパーシヴァルは、瞬時に表情を取り繕ってしまった。
そして伯爵に頷き返した後、改めてマーガレットへと手を差し伸べる。
(……さっきのは、気のせいだったのかしら?)
伯爵から離れてパーシヴァルの手に自らの手を載せながら、マーガレットは内心で小首を傾げる。
だが思考に耽る暇などなく、新郎新婦が立ち並んだところで神父による宣誓が厳かに始まった。
二人は進行に従い誓いの言葉を述べ、順番に婚姻届けへ署名をする。
無論、マーガレットが書き記したのは自分の名ではなくジュリアのものだ。
「――では、誓いのくちづけを」
神父の穏やかな声に導かれるように自然と向かい合ったところで、パーシヴァルは花嫁の顔を覆うヴェールを慎重な手つきで上げた。
何も遮るものがなくなった視界で、改めてマーガレットは眼前の美青年を仰ぎ見る。
彼の表情は存外穏やかで、少なくとも表面上こちらに対する嫌悪感などは見受けられない。
その事実にマーガレットは正直なところホッとしていた。
(この様子なら、生理的に駄目ということはなさそうね……良かった)
そのまま覚悟を決めて目を閉じると、すぐに気配が近づいてくるのが分かった。
触れたのはほんの一瞬。
しかも、ギリギリ唇から外れた頬へのくちづけだった。
思わず驚きから目を開けてしまったマーガレットに、パーシヴァルは周囲に聞こえないよう囁く。
「……色々と思うところはあるはずだけど、どうか話は式の後で」
声までもどこか美しい彼は、姿勢を正し困惑するマーガレットへと柔らかく微笑んだ。
その後も婚姻の儀は恙なく執り行われ、遂に運命の夜が訪れたのだが――
「……大変申し訳ないが、今夜は君と初夜の契りを結ぶことは出来ない」
――夫婦の寝室で深々と頭を下げたパーシヴァルに、マーガレットはしばし言葉を失った。
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