その5
まるで自分を守るように抱きしめてくれる腕の中で。
マーガレットは生まれて初めて仄暗い幸福感を覚えた。
このまま本当に時が止まってしまえばいいのに。
そうしたら彼に嫌われることもない。離れずに済む。ずっと一緒に居られる。
(――ああ、本当に……)
人間の欲望というのは際限がない。
マーガレットは自分とパーシヴァルが奏でる激しい心音に耳を傾けながら、そっと目を閉じた。そしてゆっくりと背中に回していた手の力を抜く。するとこちらの挙動に気づいたパーシヴァルの腕の力も僅かに弱まった。
「……マーガレット」
存在を確かめるように耳元で名前を呼ばれ、マーガレットは顔を上げる。
そこでパーシヴァルが息を呑み、同時に酷く後悔を滲ませたような表情を浮かべた。
「……あの男にやられたのか、それ」
腫れた左の頬のことを言っているのだろう。
マーガレットは心配させたくなくて無理やりに微笑んだ。
「いいえ、違います。それに大したことはありません」
「そんなわけないだろう……ッ!! なんで君はそんな風に――ッ」
ギリッと奥歯を噛みしめたパーシヴァルの顔は、マーガレットなどよりも余程痛ましかった。
だが彼はすぐにハッとして「すまない」と謝り、一度マーガレットから身体を離すと自分の着ていた上着を脱いでこちらの肩にそっと羽織らせる。その厚意に甘え大胆に露出していたデコルテを急いで隠すと、マーガレットは肩を竦めながら周囲を見回した。
当然ながら傍には例の青年が呻き声を上げながら地面に転がっている。起き出してくる気配はないが、湧きあがる恐怖心からマーガレットは無意識のうちにパーシヴァルに借りた上着を皺になるほど掻き抱いた。それでこちらの心中を推し量ったのだろう。彼はマーガレットの両肩へそっと手を置くと、安心させるように顔を覗き込み、柔らかく目を細めた。
「――とにかくここを離れよう。あの男のことも心配はいらない、顔は覚えたから。後で必ず然るべき処分は受けさせる」
「……はい」
妹に振り回されたと思しき青年については色々と思うところも多いが、ここで考えても仕方がない。
マーガレットは先に立ち上がったパーシヴァルの手を取った。
土塗れのドレスにぐしゃくしゃの髪。赤く熱を持つ頬に泣き腫らした顔。一目で襲われていたのが分かる状態を彼へと晒すことに抵抗感は勿論あるが、この状況を他者に見られる方が問題だ。
自分のことは最早どうでもいいが、パーシヴァルの醜聞に繋がることだけは避けなければならない。
手を引いてくれるパーシヴァルの先導で庭内を抜け、隠れるようにストラウド侯爵家の馬車へと乗り込む。幸い、誰かに呼び止められることも咎められることもなく、それは叶った。
安堵から大きく息をついたタイミングで、マーガレットは現状について大きな違和感を覚えた。
同じく馬車へと乗り込んで向かい側ではなく何故か隣に座ったパーシヴァルに、マーガレットは思わず声を上げる。
「あの、パーシヴァル様……妹の、ジュリアのことは――」
「今はその名前は聞きたくない」
「え……?」
あまりにも冷たい返答にマーガレットは困惑した。少なくとも夜会の序盤はダンスも一緒に踊ったし、ジュリアの姿をした自分がパーシヴァルの機嫌を損ねたとは考えづらい。
ならば入れ替わり後の短い時間で既にジュリア本人が何か粗相をしたのだろうか。
やりかねない、とは思いつつも冷静さを多少取り戻した結果、今度は別の疑問が次々と浮かんでくる。
そもそもパーシヴァルは妻であるジュリアを探していたのではないか。
襲われていたマーガレットを助けたのは行きがかり上としても、どうして彼はわざわざストラウドの馬車に自分を乗せたのか。
こっそり夜会の休憩室に連れていき、そこにワーズワースの両親を呼ぶなり、夜会の警備担当に事情を説明をする方が遥かに自然な対応ではないか。
現在進行形で夜会に置き去りになっているジュリアのことはどうするつもりなのか。
「……何を考えているんだ、マーガレット」
「いえ、その……」
上手く考えが纏まらない。
どんな状況にしろパーシヴァルにはワーズワース家の計略も含めて今までのことは全て説明をするつもりだが、それ以前に不可解なことが多すぎる。
そもそも現状の距離感だって十分におかしいのだ。
いくら妻の姉だからといって狭い馬車の空間で身じろぎすれば肩が触れ合う距離に座っている。しかも自然と呼び捨てにされている。
これがジュリア相手なら、なんら不自然なことはない。
だけど、今の自分はマーガレットなのだ。
軽蔑されてもおかしくはない、男にだらしのない、迷惑極まりない毒婦。
それなのに、パーシヴァルが自分を見つめる瞳が――
(――どうして、いつもみたいな顔をするの……?)
この眼差しを知っている。最近は特に溢れるように注がれてきた、甘やかな色。
大切に想ってくれているのが伝わってくる青の瞳に映る自分の姿は、紛れもなく本来の自分なのに。
明らかに襲われていたことは明白だったから、同情されているのかもしれない。
自分が「そう思いたいから」という願望が見せる勘違いかもしれない。
それでも、確かめずにはいられなかった。
「……パーシヴァル様」
「うん?」
「私は……マーガレットです。ジュリアの姉の、マーガレット・ワーズワース」
「……そうだね」
優しい声音で返すパーシヴァルと至近距離で視線を交わし合う。
固有魔法は解けている。今、彼の目に映っているのが本当の自分。
だからもう逃げないと、マーガレットは覚悟を決めた。
「ごめんなさい……私はずっとパーシヴァル様を騙していました」
瞬間、彼の目が大きく見開かれる。
マーガレットは構わず続けた。怖くて、手は震えていたけれど。
それでも視線は決して逸らさなかった。
「到底信じられないかもしれませんが……結婚してからストラウドのお屋敷でジュリアとして貴方と共に暮らしていたのは、妹ではなく――私なのです」
緊張で声がだいぶ掠れていた。それでも言えたことに酷く安堵した。
肩の力が抜けていき、マーガレットは自然と伏し目がちになる。
もう彼に嘘を吐き続けなくていい。それがこんなにも嬉しい。
たとえすぐには信じて貰えなくても、数々の証拠を提示すればきっとパーシヴァルならば真実にたどり着くだろう。
(これでやっと……終われる)
そう思いながらも、きっと疑問と混乱の坩堝に居るであろうパーシヴァルに、この後どうやって説明を続けるべきかとマーガレットは密かに頭を悩ませる。
だが、事態はマーガレットが全く想定していなかった方向へと転がった。
「――そうか。これでもう……我慢しなくてもいいんだな」
マーガレットの無防備な指先に男の細長い指が絡む。まるでようやく捕まえたと言わんばかりに。
同時に落ちてきた声の甘さに驚いて、咄嗟に伏せていた視線を上げた。
治まりかけていた心音がその速度を増していく。
「パーシヴァル、さま?」
「うん。やっと……君の本当の名前が呼べる」
そう口にしたパーシヴァルの表情は――今まで見た何よりも幸福に満ちていた。
「愛してるよ、マーガレット……俺の妻は最初から君だけだ」




