その2
マーガレットが訪ねるタイミングを計るまでもなく。
その日の晩、彼女は父であるワーズワース伯爵の命で書斎へと呼び出された。
執務机を挟んでこちらを見る伯爵の表情は何時にも増して険しい。直立の姿勢を取るマーガレットは渇く喉を潤そうと無意識のうちに唾を呑み込んだ。
重苦しい空気の中、先に口火を切ったのは伯爵の方からだった。
「ジュリアからどれほど話を聞いている?」
「……私の純潔をジュリア様の旦那様になる方に捧げてくるように、とだけご説明を受けました」
「相手のことは何も聞いていないのか?」
「申し訳ございません」
緊張を孕みながらも簡潔に答えれば、眼前の男は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
「面倒な……いいか、一度しか言わないからこの場で覚えろ。まずジュリアの結婚相手はストラウド侯爵家の嫡男であるパーシヴァル殿だ。お前でも名前ぐらいは聞いたことがあるだろう?」
「はい、存じております」
マーガレットは顎を引いて肯定する。
ストラウド侯爵家はこの国に古くから存在する由緒正しき名門侯爵家だ。そこの嫡男と言えば、若くして筆頭外交官を務めるほどに優秀と聞く。確か年は二十二歳だったか。
社交界でも令嬢たちの秋波を集めるほどの美男子としても有名な人物だった筈と、マーガレットは頭から情報を引っ張り出す。と、そこで一つの疑問が脳裏を過った。
「大変優秀な方だと……しかし既にご婚約者がいらっしゃったと記憶しておりますが――」
「その女は死んだ」
あまりにも端的な言に、マーガレットは気まずくなって押し黙る。
そんなこちらの態度を鼻で笑いながら伯爵は説明を続けた。
「死んだのは昨月のことだ。元々病弱と知りつつも婚約解消せずに回復を信じていたらしい。愚かなことだな……まぁそのおかげで、ジュリアにこれ以上ない良縁が舞い込んできたのだから感謝するべきだろう」
心からそう口にしていると分かる声音にマーガレットは嫌悪感を抱いた。
実の父親が人の死を喜べるような心根の持ち主であることが辛い。だがそれを少しでも顔に出せばどんな理不尽な目に遭わされるか分からないため、感情を押し殺す他なかった。
そうやって無表情のまま聞き手に徹するマーガレットに対し、伯爵は軽い口調で言った。
「それはともかく、お前はジュリアの社交界での評判は知っているな?」
「……清廉潔白な貴族令嬢のお手本、と」
「そうだ。だからこそストラウド侯爵は息子のパーシヴァルとジュリアとの縁談に乗り気になった。息子本人はしばらく婚約者の喪に服したいと強く反発したようだがな」
その話を聞いて、マーガレットは見も知らぬパーシヴァルに勝手ながら一方的な好感を持った。
きっと彼は婚約者の女性を心から愛し慈しんできたに違いない。そして同時に胸が痛くなる。婚約者が先月亡くなったのであれば、パーシヴァル自身もまだまだその傷は癒えてはいないだろう。
しかし彼の意思とは関係なく、家同士の契約としてジュリアとの婚姻は整ってしまったようだ。
現実は非情である。そしてそれは、マーガレット自身にも言えた。
「さて、ここまで言えばお前なら察しが付いただろう?」
伯爵が片眉を上げ、こちらに発言するよう促す。
マーガレットは求められているであろう回答を思い描きながら、ゆっくりと口を開いた。
「……恐れながら、ジュリア様は既に別の殿方と身体を交わし純潔を失っていらっしゃいます。しかし侯爵家が求めているのは清廉潔白なご令嬢――つまり、純潔の女性でなくてはなりません」
「そうだ。だからこそお前が必要なのだ……ジュリアに成り代わり初夜を完遂出来る女がな」
マーガレットは俯き、思わず下唇を噛んだ。
同じ父親から生まれた娘であるのに、片や溺愛され、片や道具とされる。自分の力ではどうしようもない理不尽と度重なる強要に精神は摩耗する一方だ。
それでもマーガレットは従うしかない。そうしなければ生きていけないから。
「業腹ではあるがお前の変身魔法は強力だ。まず見破られることはないだろう。初夜が済めば後はタイミングを見計らってジュリアとお前を入れ替えるだけでいい。簡単なことだろう?」
事も無げに言われ、マーガレットはもはや悲しむ気力も湧いてこなかった。
十年以上そのように扱われてきたのだ。今更、父親に何かを期待すること自体が愚かなのだ。
なら一刻も早くこの場を立ち去りたい。その一心でマーガレットは深々と頭を垂れた。
「委細承知いたしました。ジュリア様に代わり、必ずやお役目を完遂してまいります」
「万が一にも失敗は赦されんが、そもそも清廉潔白な令嬢という評価はお前が作り上げたものだ。精々上手くやれ」
伯爵の言葉が物語る通り、社交界での清廉潔白なジュリア像はマーガレットが作り上げたものだ。
それは偏にジュリアがそう望んだからである。
社交界でも一目置かれる素晴らしい令嬢だと周囲から思われたい。
けれど眉目秀麗な貴公子たちと思う存分、危険な恋の遊びもしたい。
相反する二つを叶えるために必要だったのは――やはりマーガレットの存在だった。
清廉潔白な令嬢をジュリアに扮したマーガレットが演じ、逆にマーガレットに成りすましたジュリアが貴公子たちと浮名を流す。
ワーズワース伯爵家の姉妹は正反対。
妹は誰からも愛される完璧な淑女、姉は身持ちの軽い見た目だけの毒婦。
それが社交界の定説であり、本当は誰よりも清廉なマーガレットに着せられた汚名でもあった。
だが既に貴族令嬢として生きることを諦めきっているマーガレットからすれば悪評など些事に過ぎない。冷静に考えれば貞操に関してもそうだ。流石に初めて聞かされた時は動揺したが、自分の純潔など確かに大した価値はない。そう思えば、妹の結婚を成立させるために使われることは有効活用と言えるのかもしれない。
諦めることに慣れ切ったマーガレットは、そうやって自分自身を淡々と納得させる。
その方が傷は浅く済むから。
「それにしても……ますますあの女に似てくるな、お前は――まったくもって忌々しい」
伯爵の口から零れたその呟きにも動じず、マーガレットは退室の許可を貰うまで頭を下げ続けた。




