隠し階段の向こうには
慌てて涙をぬぐい、ベッドから下りると、ゾティが消えたあたりにアンリは跪いた。
壁板の中に偽装されていたそれは、バネ仕掛けの半自動式の引き戸である。試してみると、アンリの手でも簡単に開く。
扉の先は階段になっているが、子供の自分でも、膝を折り、腰を曲げるほど屈まなければならない、窮屈な潜り戸だった。
増築と改修を繰り返した館だから、自分も全貌を知っているわけではないと言っていたガルド・ルルゥの言葉を、アンリは思い出す。
「もしかして、これって昔使われていた秘密の抜け道?」
十五歳の少年なら当然持ち合わせている好奇心が、ちくちくと刺激される。
どこかの開かずの間に閉じ込められでもしたら、探し出すのが厄介だから探検ごっこはするなと、やんわり釘を刺された件に関しては、この際、アンリは都合よく聞かなかったことにした。
急いで実家から携えてきた荷物から、携帯用の陽光灯を掘り出す。靴紐を堅く縛り直すと、アンリは陽光灯を片手に一段ずつ、慎重に階段を下りてゆく。
「これって、どこへ通じているんだろう……」
先に降りて行ったゾティが戻ってくる気配はないから、突き当たりが袋小路ではないと思うのだが。
「……う、あぁっ?」
段差が、どういうことか急に大きくなっている。階段を踏み外したアンリは、そのまま下まで十数段分、階段を滑り落ちた。
「痛たたぁー」
命の次に大切な魔法仕掛けの眼鏡は大丈夫だったが、したたかに腰やら脚やらを階段の角で連打した。携帯式の陽光灯も、落ちてくる途中に手放してしまったので、辺りは、おのれの鼻を摘まれても分からないほどの真っ暗闇だ。
いや、アンリの顔を照らすがごとく、その時、一条の灯りが差し込んだ。
「誰、そこに居るのは?」
闇の向こうで、軋んだ音を立て扉が開く。
ゾティを胸に抱えたガルド・ルルゥと、もう一人、アンリの知らない初老の男の人が不安げな眼差しで、階段の下に転げ落ちた小さな冒険家の姿を眺めていた。
「もう、この隠し部屋とライヒャルト・ハーディング氏のことがバレてしまったんですか……」
職場での仕事を終え、急ぎ館へ駆けつけたマクシミリアンが、あきれ果てた顔で髪の毛を掻き毟る。
「まさか、たった一日であの隠し階段を見つけるとはねぇ」
隠し部屋の丸テーブルの上に五人分のお茶を用意しながら、ガルド・ルルゥも困ったようにため息をついた。
「でも、この年頃の男の子なら、一週間以内で見つけてしまいそうな気はしていたわ。昔、船長も見つけた隠し階段だったんでしょう?」
クリスティーネは、相変わらず厳しい眼差しで、向かい側の席に座っているアンリを睨みつけている。
そして明らかにこの館の居住者であるはずなのに、アンリには紹介されていなかったもう一人──隠し部屋の住人、ライヒャルト・ハーディングは、無言のまま肘掛け椅子に腰掛けていた。
成人男性なら、百八十センチクラスがざらにいるローランド人にしては、それほど背は高くない。瞳の色は焦茶色だが、髪の毛は年齢のせいか真っ白だった。そして肌の色は病人のように青白い。
だからライヒャルトの年齢が幾つなのか、アンリには見当がまったくつかない。
けれどなによりその青白い肌や、不健康なほど痩せ衰えた顔が、謎の部屋の扉をこじ開けてしまった少年を不安にさせる。
「あの、すみません。僕にも状況が分かるように、できるだけ噛み砕いて、この部屋とその男の人のことを説明してください」
と──冒険の果てに隠し部屋を発見したものの、いまだ混乱しつづけるアンリは懇願した。
天井を支えるがごとく作り付けた本棚に、ぎっしりと古書が並んだこの部屋は、見たところ書庫のようだった。祖父の書斎と似た古い本独特の匂いが漂っている。
「ラーイは、王立歌劇団の歌い手で、自分でも戯曲や歌劇を書いている音楽家なの。
それにテノールからソプラノの音域まで唄いこなせる、奇跡の喉と黄金の声を持つ舞台歌手なのよ」
いえ、だったの──と、ガルド・ルルゥは訂正した。王立歌劇団は、占領軍政府に「共和国革命歌劇団」との名称変更を命じられた折、当時所属していた団員全員が辞表を提出し、事実上解散してしまったのだ。
「手っ取り早くいえば、今の私は指名手配者なんだ。ルブランスの連中が勝手に押し付けた『異装禁止令』に反抗してね、占領後の歌劇公演で女装して舞台に立ったもので、秘密警察から追われている身の上なのさ。
だからこの一年半ばかり、ずっとこの部屋に隠れている」
ガルド・ルルゥやライヒャルト自身が語った説明を聞いて、アンリは、はっとあることを思い出す。
「もしかして、ライヒャルトさんはその……、去勢歌手なの?」
「おや、随分と難しい音楽用語を知っているねぇ」
本気で感心したようだ。ライヒャルトは眼を丸くして、肘掛け椅子から身を乗り出すようにして喜んでいる。
「僕の育ったカルティーヌ県の北部側って、百年くらい前まではロマーナ教皇領だったんだ。
だから昔は、美しい声で歌う男の子はみんな教会の聖歌隊員にするために誘拐されて、大切なところをちょん切られたんだって」
アンリも幼い頃はきれいなボーイソプラノの持ち主だったから、悪戯して叱られた時など、「世が世ならおまえも悪い坊さんに攫われて、去勢されていたよ」と、祖母に脅されたことがある。
アンリの話しに、ライヒャルトは目尻に皴を寄せて笑った。
「うーん、そういう昔の話しを聞かされると、つくづくと今の時代に生まれて幸運だと思うよ。
自由に好きな歌も唄えないご時勢だけれども、一応まだ『睾丸付き』ではいられるんだから」
ご婦人方の前でこんな話しをして申し訳ないと──ライヒャルトは、どういう顔をすればいいのか分からないといった表情で固まっているクリスティーネに、目配せする。
「私は去勢歌手ではなくて、カウンターテナーという部類に属する歌い手だ。演目によっては男役もこなす」
けれども、古典劇を忠実に再現しようとすると、女装したライヒャルトが舞台に立つということもままある。
なにしろ新教徒が多い自由都市アウステンダムですら、ほんの五、六十年前までは「風紀の乱れにつながる」と、聖職者たちは女性が舞台に立つことを頑として許可しなかった。
花のように可憐な姫君の恋愛物語であろうとも、男優がヒロインを演じなければならない時代があったのだ。
「ところがルブランス軍がやってきてからというもの、私が女装して上演した古典劇が『異装禁止令』に抵触した。
それでなくても私は、陛下をお慕い申し上げる、筋金入りの親国王派だからね。
あの忌々しいルブランスの独裁者を批判する歌劇を作って、検閲の目を逃れて上演したから、見つかったら第一級不敬罪で即座に銃殺される身の上だ」
占領軍がこの街に来たばかりの頃は、ゴドフロア総統の独裁政権に対する抵抗運動は、爆弾によるテロルだけでなくもっと芸術的だったのだと、ライヒャルトはあっけらかんと言ってのける。
その楽しげな表情は、とても命を狙われている逃亡者の顔ではない。
「ま、とにかく歌うたいは舞台に立って、唄ってナンボの商売だからね。自分の口を養うためならドレスも着るし、馬の着ぐるみも被る。私はそれを恥ずかしい行為だとは思っていないが、ルブランスのお偉方にとっては、風紀を乱すゆゆしき行いだったらしい」
ライヒャルトの目尻の笑みに、うっすらと苦い影が刺す。それを見てマクシミリアンが、長い隠遁生活を続ける歌い手を励ました。
「大丈夫ですよ。今度の密航計画が成功すれば、あなたは晴れて自由の身となる。ハドニア連合王国もコロンバイン合衆国も、あなたの亡命を受け入れると言っています」
「そうよ、また好きな歌を唄えるようになるわ」
ガルド・ルルゥが、安楽椅子の肘掛に置かれたライヒャルトの痩せた手を取り、そう言うのを聞いて、アンリは我に返った。
「……ちょっと待って。それじゃあ、この館に住んでいる人たちは、みんな反体制派の抵抗運動家なの?」
「違う! レジスタンスなのは僕だけだ。クリスティーネやガルド・ルルゥは関係ない!」
そう言うマクシミリアンが表情を荒げる端から、クリスティーネが講義の声を上げる。
「いいえ。わたしも四週間の基礎訓練を受けた、地下抵抗運動の活動家よ」
同い年の女の子が発する過激なその言葉に、アンリは貧血を起こしかけた。よろめきそうになるのを今一歩で踏みとどまるが、その視線の先では、ガルド・ルルゥが今にも泣きだしそうな表情をしている。
「面倒なことに巻き込んでしまって、ごめんなさいね。あなたが昨日ここへ来たとき、やはりヘボン先生のご不在を理由に、下宿を断っていればよかったんだわ」
昨夜、巡回公安が来たとき、あれほどまでにガルド・ルルゥが怯えていた理由が、今ならよく分かる。指名手配者を匿っているというなら、公安相手に神経質になるのも当然だろう。
「でも、これだけは知っておいて欲しいの。ラーイは、あたしが自分の命を懸けてでも救いたい、もう一度自由に歌えるようにしてあげたい、とても大切な友人なのよ」
ガルド・ルルゥは、両手で、アンリの手を握り締めながら苦い胸中を露呈した。
命を懸けて救いたいと思えるほど、大切な友人──はたして、自分にはそれほどの親友がいるのだろうか……と、アンリはおのれの胸に手を当てて尋ねてみた。
数拍の沈黙の後、向かい側に座るクリスティーネが、邪視持ちの蛇女・ゴルゴーンのごとき形相でおのれのことを睨んでいるのに気がつく。
「あの、安心して。僕は、絶対にライヒャルトさんのことは口外しないから」
慌ててアンリはそう宣言した。
しかし、レジスタンス組織に名前を連ねる魔女だなんて──と、アンリは少女の表情を、ちらちらと盗み見ながら肩をすくめる。もしもこの約束を破ったら、ロバや蛙にされるよりひどい呪いが待っているに違いないのだ、きっと。
「それに僕は、いろいろな人からもっと話しを聞きたいんだ。僕自身、今のゴドフロア総統閣下による軍事優先の独裁政権が、最善のものではないと分かり始めているから」
アンリのその発言に、部屋中の者が息を飲む。独裁者賞賛の洗脳教育を受けてきたであろうルブランス人の少年の口から、そんな言葉が飛び出すとは晴天の霹靂だ。
密告屋が今の発言を聞いていたら、小躍りして巡回公安を呼びに行くに違いない。けれども意を決すると、アンリは言葉を続けた。
「だってね。僕にとって一番の教師でもあったおじいちゃんの口から、ローランドの王様が悪者だったっていう話しは、一度も聞いたことはないんだよ」




