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一角獣の見習い騎士  作者: 日向真幸来
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断髪美少女と巨大猫と


「なによ、あれ。死んだ魚の頭に睨まれて気絶するだなんて。ルブランスの男は軟弱だわ!」


 さっきの断髪少女の声だ。目蓋を閉じた闇の中、まどろみの淵に漂うアンリの耳に、ローランド語の会話が流れ込んでくる。

 実家でも、亡くなった祖父との会話はローランド語だったから、意図せず、自分への悪口が理解できてしまった。


(ここはどこ? 僕はどうなったの?)


 まずは目を開けて起き上がりたいのだが、どうしてもできない。目蓋は糊でくっついているみたいに開かないし、上半身の自由がまったく利かない。

 なんだか胸の上に重石でも乗せられているようだ。


「クリスティーネ。そう一方的に決め付けては、かわいそうですよ。きっと、慣れない長旅でとても疲れていたんでしょう」


 まぁまぁ──と宥める、若い男の声がする。


「しかし困ったわねぇ。肝心のヘボン先生がご不在だというのに、弟子入り希望者がやってくるだなんて」


 今度はおばさんの声──、心底困惑しているふうだ。


「わたしは嫌よ。身分証明書に、あの独裁者の横顔を押した優待市民章を挟んで持ち歩いているようなヤツと、同じ屋根の下で暮らすだなんて!」


 クリスティーネと呼ばれた少女が、その声に、ルブランス人への敵意を激しく剥き出しにした。


「ルブランスの密偵かもしれない人間と、一緒に生活はできないわ。家の中でまで言論統制だなんて、まっぴらごめんだもの」


「いや、どちらかといえば、クリスティーネ。貴女の場合、心配しなければならないのは、この少年が『羊の皮をかぶった狼』だった場合でしょう。

 眼鏡を外した顔は、女の子みたいにかわいいけれど、やはり貴女と同い年の男ですからね」


 半分夢の中を漂ってはいるものの、顔のことを指摘されて、アンリはひそかに傷ついた。十五歳にもなって、まだ髭も生えてこない顎を気にしているのだ。


 しかも二人いる姉は女子高等師範学校に通っていた頃、毎日のように、暖炉のたきつけに使えるくらい大量の恋文を送りつけられた美人姉妹で、その血は末っ子のアンリの中にも濃く流れている。

 そんなわけで、アンリは女の子のような優しい顔立ちを、男性は力強さを称えられる風潮下、同学年の悪童どもにさんざからかわれてきた。


「万が一ということもある。年頃の異性との同居は避けたほうが懸命かもしれない」


 まるで、嫁入り前の娘を持つ石頭な父親のごとき慎重さで、深刻そうに男がつぶやくのが聞こえる。


「さて。この子が狼さんか、どうかは分からないけれど……」


 続いておばさんの声とともに、なにかガサゴソと紙を広げる音がする。


「ここに、弟子入りの申し込みがあった時、ヘボン先生が詳しく身辺調査しておられた書類があるけれど、見る?」


「住まいは、カルティーヌ県ソレイアード村? カルティーヌ県って、モントレー山脈の南側のほうだったかしら?」


「確か、地中海に面した国際港サングレアのあるのが、カルティーヌ県だったはずよ」


「これはまた、とんでもなく遠い所から来たんだなぁ。新弟子募集中の学者なら、シテ・ドゥアンでもどこでも大勢いるだろうに」


「ふぅん、実家は染色工場を営んでいるのね」


「あ、これはすごいなぁ。父親が、化学染料の発明に関して十二個も特許を持っているんだ」


「じゃあ、あの子。本物の中産階級の家の子なのね。四人兄弟の末っ子でも、悠々、大学に進学させられるだけのお金持ちの子供なわけね」


 ここでいう中産階級とは、自宅を含め複数の不動産を所有し、下男や台所女などの使用人を雇うことができ、社会的にも慈善事業などに寄付できるほど余裕ある暮しを送れる資産家を指す。

 プチ・ブルジョアとも呼ばれている新興の金持ちたちのことだ。


「送り返してしまいましょう。マクシィ、シテ・ドゥアン行きの長距離列車の時刻表は、判る?」


 先ほどと同じ、命令形の口調だ。なんとなく、雰囲気的にあの金髪の女の子がこの場を仕切っている気がする。


「切符さえ取ってしまえば、あとはなんとかなるでしょう。 とにかくわたしは、この家にルブランス人を住み込ませるのには反対よ」


「貴女がそこまでおっしゃるのなら……」


 マクシィと呼ばれた男は、いつの間にやら少女の意見に同意させられている。

 目蓋が閉じたままの闇の中、声にならない声でアンリは叫んでいた。


(ダメだよ。僕は、家には帰れない……!)


 このまますごすごしっぽを巻いて家に帰ったら、家族全員を悲しませることになる。アンリはどうにかして起き上がろうと、激しくあせった。


──う、むぅんんん……。


 唇から呻き声が漏れるのが、自分でも判る。

 何度か大きく首を振ると、ようやくうっすらと目蓋がひらいた。

 眼鏡を外されたのだろう。ひどくぼやけた視界の中、これだけ悪い視力で見ることのできる範囲内──金色の瞳に浮かんだ、上弦の月の形の虹彩がふたつ、じっと自分を睨みつけた。


「うわあああっ!」


 大声を上げて、アンリは飛び起きた。その胸元から金色の影が跳ね上がるように離れる。


「あら、やっと気がついたの。あなた、気を失ってから八時間も眠りこけていたのよ」


 声がする方向に目を向けながら、アンリは、上着のポケットにしまわれていた魔法仕掛けの眼鏡を慌てて掛ける。

 すると、おのれが寝かせられていた長椅子の脇、衝立(ついたて)の横から顔を出して、あの断髪少女が、冷ややかな眼差しで自分を見ていた。


『ぅにゃあーん』


 その足元では、これまでに見たこともない立派な体格の、黄金色の毛並みの猫が、女の子の長靴下に身体をこすりつけている。


「な、なに……、それっ!」


 行儀が悪いと思いながらも、アンリは思わず、その、ふさふさした長毛種の巨大猫を指差した。


「なにって、これは猫よ」


 と、女の子はあきれたふうに言った。

 初めてその猫を見た者の感想は、大抵二つに分かれるだろう。「あら、きれいな猫ね」か、もしくは「なにこの、でかい猫」との。


「ひょっとして、猫を見るのは初めてなの?」


 女の子の問いに、アンリは、ぶんぶんぶんと激しく頭を振ってそれを否定する。


「うちでも猫は飼ってたよ。でも、こんな大きな猫は見たことない!」


 家で一番ネズミ捕りが上手かったオスの黒猫だって、せいぜい五キロくらいだったとアンリは思う

 でもこの、羽毛製のはたきみたいなふさふさしたしっぽを立てる長毛種の猫の、大きなことといったら。


(こんな巨大な猫と行き遭ったら、もしかしたら犬だって逃げていくんじゃなかろうか……)


 などと、アンリは目を見張る。まず骨格自体がしっかりとしている。しかも肉付きがいい。どう見ても十キロ以上はありそうな上に長毛種なので、ますます身体は大きく見える。


(こんな巨大猫に胸元に乗られていて、僕、よく窒息しなかったな……)


 どうりで苦しかったはずだ。今更ながら、ぞっとする。


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