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第1章第2節

「くっそ眠ぃ……」

 卒業式の朝だった。双畑理一すごばたりいちは高校の屋上に繋がる階段を歩んでいる。

 高校生活最後のホームルームが始まるまでの時間を持て余したのだった。右手には校内の自販機で売られているいちご牛乳が2つ握られている。

 彼は別れを惜しむべき友人をクラスに持っていない。数年前、自暴自棄になっていた頃の言動のせいで彼は、お喋り陰キャ、気取り屋、サイコ野郎、世界おかしいマン等とから陰で呼ばれている。

 遠巻きにされている彼が教室にいたところで何もいいことはないと分かっていた。二度と関わることのない人間達に無理に合わせるメリットはない。

 彼は、首都近郊の大学に通うべく近々この街を離れる予定であった。


 双畑は欠伸を噛み殺した。彼の受験戦争が決着を見せて以降も、夜が更けるまで眠りにつかない生活習慣を修正できていないのだった。


 階段を登る双畑の外見は凡庸のひとことに尽きた。身長は高過ぎず低すぎない。着ている学ランの丈は若干持て余し気味だ。高校入学時に期待した程には身長が伸びなかったらしい。

 百人並みの体の上に乗った顔には、これまた存在感のない部品が配されている。強いて言えば、優しげな顔と言えないこともない。


 街ですれ違えばその瞬間に記憶から消えてしまいかねない印象を持つ双畑だが、目だけは内面に隠した意志の強さを示すかのように真っすぐ前を射抜いている。唇は若干歪められていた。

 自分自身の能力への不信感を抱きつつも、他人が自分より優れているとも思っていない人間が浮かべる表情だった。周囲よりも早く大人になることを余儀なくされた子供のそれと言っていいかも知れない。


 子供は早く大人になりたがるが、それはまったく贅沢で見当違いな望みだ。子供のままでいられるならそれに越したことはない。過去のある出来事と、その日以来生じるようになった症状が原因で、子供らしさを捨て去ることになった双畑はそのように認識している。


 不自然に大人びることになった双畑はしかし、結局の所ただの18歳の少年でもあった。卒業式という節目の日に、思い出深い場所に訪れたくなったのだった。

 居場所のないクラスで寝た振りをして時間を潰すよりは、他のすべてがマシな行為に思えたということもあった。


 アニメや漫画でよくあるような、屋上に出られる高校は現実には少ないという知識を双畑は持っている。しかし、彼の通う高校はその例外のひとつだった。

 この学校には、毎朝応援団が屋上で応援歌を叫び、騒音を周囲のご家庭にお届けするという伝統があるのだった。地域によってはクレームの嵐になりそうな奇習だったが、この県にはこの高校より歴史のあるものはそうそうないので、伝統の威光にあやかってか意外と問題にはなっていない。

 応援団の練習が終わってから団顧問の教諭が鍵を締めに来るまでの短い時間を縫うことで、多くの高校生の憧れであるところの屋上に双畑は簡単に入ることができるのだった。


 自分以外誰もいない校舎の屋上で、いちご牛乳の甘さを味わいながらこの街の風景を眺めるのが双畑は好きだった。

 大して楽しみを見出せない一日を耐え抜くための儀式のようなものだよ。それに、高いところから見るとな。あの不愉快な音を出す自立警戒機ども、蜜蜂みたいで可愛いんだぜ。数少ない友人たちに彼はそう言っていた。


 双畑は最後の一段を登り終えると慣れた調子で屋上に出る扉を開けた。

 鉄製の重い扉が軋みながら動く。いつもどおりにリノリウムタイルから剥き出しのコンクリートに右足を踏み出しながら、この県で最も標高の高い山の雄大な姿を眺めるべく右を向き--

 意識を失いかねない頭痛が双畑を襲う。視界が青に染まる。


 彼は視た。


【少女が屋上の端に向かって歩いている。真空中にあるかのように、一切の音が聞こえない。少女は一歩一歩塀に近づいていく。双畑を襲う頭痛が更に酷くなる。少女が塀に手を掛けてその上に飛び乗る。すべてがスローモーションのようにゆっくりと動いている。少女は塀の上で姿勢よく直立する。視界を支配する青は、どんどん深くなっていく。思いつめたような表情を浮かべている少女の横顔。ゆっくりと体重を前に倒す。視界が数歩だけ塀に近づく。自分の右手が飛び降りようとする少女に向かって伸ばされている。そしてーー】


 そして、色と音が双畑の世界に戻ってきた。


「相変わらず痛ぇ……」

 双畑は目を閉じて頭を振りながら呟いた。随分と久々じゃねぇか。だが、記憶どおりの痛みだ。目がチカチカする。若干の吐き気。いつもどおり、いつもどおりだ。そして、何もがいつもどおりだとするならば。


 顔を上げて重い鉄扉を勢いよく開け切った。


 双畑が今視たとおりの光景が彼の視界に飛び込んできた。屋上の塀に向かいまっすぐに前を向いて歩く少女がいる。高めの位置でひとつにまとめたポニーテールが、歩みに合わせて軽快に揺れていた。

 少女は塀に飛び上がる。その横顔はやはり思いつめたような表情を浮かべている。見過ごすことは出来ない。双畑は思った。


「ちょっと待った!」

 双畑は声を掛けた。少女に向かって彼の右腕は伸びている。ついさっき視たとおりの角度だった。


 濡鴉のように黒い髪を揺らしながら少女は振り返った。


 少女の美しさに、双畑は思わず息を呑む。美しさと存在感に圧倒される。

 凝り性の神が計算し尽くして配置したような、壮絶なほど整った顔だった。やや吊り目がちな大きな目と形の良い眉からは、美しさを超えて威圧感すら感じてしまう。見慣れない真っ白なセーラー服を着ていた。背格好からして中学生の様だった。


 少女は不審がる表情を浮かべて双畑を上から下まで睨めつけた。仁王立ちで、静かに次の言葉を待つ。


 双畑もまた、言葉を失って立ち尽くすことしかできないでいる。


 動きを止めた二人に大きな影が投げかけられた。毎朝この時間、この校舎の上空を通る飛行船によるものだった。思いがけず黙ってしまった気恥ずかしさから、双畑は視線を空へと向けた。

 飛行船の大きな気嚢には天気予報が映っている。夕方から雪かよ。傘を持ってくればよかったか。ぼんやりと思った。飛行船はその鈍重そうな印象に反した素早さで遠ざかっていき、すぐにあたりが明るさを取り戻す。


「なんなんですか。なんの用ですか」

 斬りつけるように少女が言った。

 呼び止めたにもかかわらず話し始めない双畑に痺れを切らしたのだった。その顔には、思うように動かない電化製品を叩く寸前に浮かべるような表情が浮かんでいる。


「お、おう……」

 双畑はしどろもどろに答えた。自分が少女の美しさに見惚れていたことを改めて自覚したからだった。足元に落ちているいちご牛乳の紙パックに今気づいたかのように、わざとらしく拾った。


「なんの用ですか」

 少女はまた訊ねる。まっすぐに双畑の目を見据えていた。


「お、おう……」

 双畑はまた同じ返事をして、今度は言葉を続けることに成功する。


「そう人生に悲観するもんじゃない」


 少女は片眉を釣りあげて返事に換えた。


「きみの周囲でも何か悲しい出来事が起きたのかもしれない。大事な人を失って自暴自棄になる気持ちは分かるつもりだ。おれにも経験がある。しかし」

 双畑は勢いよくまくし立てた。


「しかしな、死ぬのは良くない。まだ若いんだ。きっと前を向ける日が来るはず。例えきみが、超中学生級の短絡的で衝動的な悲観論者だったとしても、だったとしてもだ」


「ストップ。自殺しようとしていたわけではありません」

 少女が口を挟んだ。


「生きてりゃいいことあるもん、だ、ぜ…… あら?」

「それに、わたしのことをなんて表現しました?超中学生級の、何?失礼な人ですか?」

「短絡的かつ衝動て、おっと、違うんだ。いい意味でだから」

「いい意味?」

「えー、いい意味とは、ご案内のとおり、いい意味のことです」

 双畑はてきとうなことを言いながら目線を明後日の方向に向ける。

 

 しまった。お喋り陰キャが登場したぞ。双畑は思った。

 おれが長広舌を振るうと誰もがこんな反応をする。このせいで友達ができねぇんだよな。おかげで、高校生に与えられるべき青春を味わい損ねた。単語の選び方をもう少し考えるべきだな。いや待て、そうじゃない。今この少女はなんて言った。自殺じゃないだと?じゃあさっき視たあれは。


「事情があるんです。早く校舎に戻ってもらえませんか」

 黙った双畑の目の前で、少女は人差し指を下に向けて答えた。


「んー」

 双畑は言いよどんだ。


 彼は、さっき視たあの青い光景を思い出す。

 塀の上で体重を地面に向かって傾ける少女。そして、慌てたように少女に向かって伸ばされる自分の右手。確かに、飛び降りてはいなかった。

 青に染まった光景は数秒先の未来らしい。頭痛と共に現れるこの不可解な現象について、双畑はそう理解していた。その光景は必ず現実のものとなるのだった。


「ちょっと待って。整理するから」

 

 拾いあげたいちご牛乳の片方にストローを指して飲み始めながら、双畑は3年前のことを思い出す。自分の性格が歪むきっかけとなった出来事を。

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