第6話 駆け落ち(一)
遠山家の屋敷は、陸軍省の近く三宅坂にあって、豪邸として知られていた。屋敷の主であり、現職の陸軍大臣でもある遠山卓哉大将は、天保5年(1834)生まれの61歳。幕末期、幕閣に重きをなした遠山信濃守高忠(1806~1874)の息子であり、諱を高房といった。
この、遠山大将の屋敷に、一大事が出来したのは、皐月の十八日、夜七時ごろのことであった。大将の一人娘昌子と、使用人の沖津誠治という男が、行方をくらましたのである。
読売新聞社にとって都合がよかったのは、清国との戦争が終わったことをうけて、陸軍関係者の屋敷に張り込んでいた番記者、松崎健太郎がいたことであった。若い松崎にとって、昌子や沖津を探すよう命じられて、屋敷の門からあたふたと走り出てきた女中から、何が起きたのか聞き出すことなぞ、朝飯前の仕事であった。
かくして、「遠山家の令嬢出奔す」の一報を携えて、松崎が大手町の本社に転がり込んだのは、事件が出来してから一時間ほどしか経っていない、夜八時のことだったのである。
「デスク、デスクはどこだ!」
階段を疾風のごとく駆け上がり、六階の社会部編集室のドアを開け放つなり、松崎は荒い息で言った。
「どうしたんだそんなに慌てて。デスクなら、今日は休みだよ」
机に向かって書き物をしていた、松崎の同期の塚原が返事をした。
「ええっ」
「もっとも、昼過ぎに一寸顔を出したがね。飲みに行くそうだ。ホラ」
そう言って、塚原が指さした掲示板を見ると、なるほど確かに「人形町割烹銀成にて夕食予定 山名」と書いてある。
「む、ありがとうっ! それからこれは特ダネだ」
言うなり松崎は持っていたメモ紙に、「陸相令嬢出奔」とだけ走り書いて塚原に渡すと、そのまま踵を返して階段を駆け下り、夜道を走り出した。
結果、松崎は泥酔した三人が騒いでいるところに踏み込むような形になってしまったのであるが…。
「事件です。一大事です!」
「うーむ…。松崎じゃないか、こんなところで何を…」
「デスク、酔っている場合ではないです、特ダネですよ!」
「な、何…?」
山名慎太郎、流石腐っても新聞記者である。彼は座敷に座り直すと、落ち着いた声でどうしたと尋ねた。
「陸相の令嬢が出奔したそうです、明日の社会面はこれで決まりですよ」
松崎は上気した声で言った。
「陸相っておめぇ、遠山陸相かい。三宅坂の。あそこの娘は、確か昌子とか言ったな」
我孫子が、焦点の定まらない目で口走った。
「そうですよ、ご存じなんですか?」
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