第4話 再会(四)
次の日の夜。江戸で五本の指に入ると言われた日本橋人形町、安永元年創業の割烹「銀成」の座敷には、飲めや歌えやの大騒ぎをする三人の男の姿があった。
夜が明けて1876年2月21日。住み慣れた長屋の前に立ち、旅装に身を固めた葡萄ノ進と甲府の慎は、なにか清々しい気持ちでよく晴れた冬の朝空を見上げた。
「それじゃ、行きますか」
我孫子が言う。葡萄ノ進は答えず、黙って頷いた。
我孫子は江戸―彼らはまだ江戸と呼んでいるが、行政的には東京である―に残るのではあるが、二人を見送るため、柴又の帝釈天あたりまではついていくつもりであった。陸奥に向かう道は、古来より板橋から宇都宮の方面に向かう道(現・東北自動車道)が有名であるが、葡萄ノ進は水戸に所用があるため、より海沿いの道を行くことにしたのである。
「慎さんには遠回りさせて、すまねえな」
「なに、たかが三里半。大したこたぁありませんよ」
甲府の慎は、名前が示す通り甲斐が故郷である。そのため、柴又へ向かうとまったくの逆方向になってしまうが、葡萄ノ進の見送りとあらばということで、快諾したのだ。
駒形橋で墨田川を渡り、つぼみの膨らみ始めた桜を見ながら、葡萄ノ進は黙って速足で歩いた。まるで何かに終われるように。速足で歩かないと、後ろから思い出が追いかけてきて、足が止まってしまいかねなかった。それぐらい、大きなものを江戸に置いてきたのだ。薩長土肥、西国の雄藩から起こった維新という巨大な波は、8年という歳月を経て、今や全てをこの江戸から洗い流そうとしていた。
柴又の帝釈天の前で、葡萄ノ進は足を止めた。冬の太陽は低い、午後の光を地面に投げかけ、あちこちで屋台から煙が上がっている。
「ここで、お別れですかい」
甲府の慎は、そう名残惜しそうに言って、洟をすすり上げた。
帝釈天のすぐ目の前を、江戸川は北から南へ流れている。ここの矢切の渡しを渡れば、はや下総国である。
「ああ」
その「ああ」という言葉は、葡萄ノ進の口から押し出されたように聞こえた。
「また、どこかで会うやもしれぬな」
「旦那…。あっしもそんな気がしますよ」
「うむ。では、いずれ」
名残を断ち切るように、葡萄ノ進は踵を返し、歩き出した。
その後ろ姿を、我孫子と甲府の慎はいつまでも見送っていた。
それから19年。今日この日、三人がよりにもよって南町奉行所の跡地、有楽町数寄屋橋で再会するとは、なんという偶然であろうか。運命の女神も数奇なことをするものである。
「あれから、いろいろなことがあった」
葡萄ノ進は噛みしめるように言った。
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