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20話 自失

 絶望――


 この日、アネリアはその言葉の意味を立て続けに味わっていた。

 最愛の弟の無残な死体を目の当たりにした彼女は、その死体の前で悲嘆に暮れていた。

 だがせめて彼の恋人であるカティアだけは守らねばと思い至り、慌てて引き返したのだ。しかしながらそれも間に合うことなく、カティアもまたアネリアの眼前でその命を散らした。

 

「ああ、そんな……」


 間に合わなかった。


 あまりの絶望に視界が歪み、頭が真っ白になる。両の手からは力が抜け、握っていた武器が地面に落ちた。膝ががくがくと震えだす。やがて両足が自分の身体を支えることすら出来なくなって、いつの間にか地面に両膝を突いていたが、そのことすら彼女は気付いていたかった。

 見開いた両眼からはらはらと涙が流れ落ちる。その瞳は何も映していない。絶望に囚われた彼女の心は、最早周囲の全てを受け入れるのを拒否していた。何が起ころうとも彼女の心まで届くことはない――彼女に絶望をもたらした元凶が、一直線に向かってきている事実すらも。


「ピィィッ!」


 雄叫びのようなスライムの甲高い鳴き声と、乾いた衝突音が響いた。

 頭部へ体当たりの一撃をまともに受けたアネリアは顔から崩れ落ちた。


 これまで数多くの人間たちを屠ってきた魔物の一撃である。それによって命を散らした者たちと同じように、彼女もまた死したとしてもおかしくない。それほどまともに入った一撃であった。

 事実、倒れ伏したアネリアは微動だにしない。傍から見れば今の一撃を受けて命を落としたと思うだろう。


 だが――彼女は決して死んでなどいなかった。


 倒れたまま動こうともしないものの、彼女の生命は未だ尽きていなかった。いや、生命どころか意識すら失っていない。

 スライムが放ったそれは見事な一撃だったが、それでも高ランクの戦士であるアネリアの生命を奪うにはほど遠かったのだ。


 だがそれにも関わらず、彼女は敵への対応どころか立ち上がろうとすらしない。



「アーネスト……カティア……」



 ただ彼女は倒れたまま失われた大切な二人の名前を繰り言のように漏らすだけだった。地面に伏した彼女の瞳からは、ただ滂沱の涙が溢れ続けていた。


 あまりの絶望に打ち据えられ、最早立ち上がる気力すらないのだ。


 だがスライムはそんな彼女の心情に斟酌しない。


 甲高い鳴き声を上げて、倒れたままのアネリアへと追撃をかける。

 倒れたまま動かない相手への追撃。絶好の機会だ。


 幾度となく叩きつけられるスライムの体当たり。倒れた相手を踏みつけるかのように立て続けに行う。

 甲高い鳴き声をさながら雄叫びのように上げながら襲い続ける。


 だが、その動きにはライという名有りのスライムが有していた狡猾さや慎重さがどこか失われたようにも思えた。

 まるで、そのスライムから知性や思考といったものが全て失せてしまったかのように。


 ――そして事実、そのスライムにはそういう異常が起こっていたのである。




「魂が崩壊した者は、有していた自我も知能も全て失われる。残るのは、かつての意思の残滓のみ」


 そんな彼の様子を、遙かな高みから妖精の少女が観察するような眼で見つめていた。

 その彼女の呟きは、そのスライムに起きた異常を端的に表したものだった。


「今のライは、かつて有していた人間への憎悪に突き動かされるだけのただの獣でしかない」


 それこそが今彼に起こっている異常。

 ライの精神、魂が崩壊してしまったことで、ただ一心に憎悪のままに人間を攻撃するだけの魔獣となってしまったのだ。


「もっとも――それすらもそう長くは続かないが」


 そう呟く彼女の目には、人間への追撃を続けていたスライムに更なる異変が起きた様子が映っていた。


「ライの魂が失われたことにより、その裡に残り続けた魂の残滓たちが表に出てくる」


 いわば魂の崩壊による次の段階に進んだともいえるライの様子を、彼女は冷めた目で眺めていた。




      ※      ※      ※



 ――殺せ


 ――殺せ……


 ――憎き人間共は、全て殺せ……!



 ライと呼ばれたスライムの内から、そんな声が響いてくる。暗く、そして焼け付くような怒りと憎しみの満ちた声。

 その声に従い、肉体を全力で人間へとたたき込み続ける。


 しかしその行動そのものには怒りも憎しみもない。

 そのスライムを突き動かす声は怒りと憎しみに満ちていたが、スライム自身は怒りも憎しみも既に有していなかった。


 人間を赦したとか憎んでいないとかいうわけではない。

 彼自身の持っていた、感情も、思考も、全て失われていたのだ。


 今の彼は、ただ自身の奥底から響く声に従うだけの存在。いっそ獣や人形と形容した方がいいのかもしれない。


 内なる声に突き動かされるまま、更に追撃を加えるべく動く。


 ふとそんな彼の視界に相手の顔が入ってきた。悲しみと絶望に満ちた人間の顔が。


 だがそれを見たところで彼が何を思うはずもない。憎き人間が哀れな姿を晒したところで同情といった感情が湧くはずもないし、そもそも彼に何かを感じるような精神など失われたのだから。


 ……そのはず、だった。



『ねえ、さん……』



 人間たちへの憎悪と殺意を駆り立てる声だけの世界で、突如そんな声が響いた。

 微かな声であったが、人間への憎悪一色だったその世界の空気を塗り替える声だった。


 その声を皮切りに、いくつもの声が響きだす。



『ああ、何で私があの人を襲わなくちゃいけないの……』


『俺はこんなところで何をしているんだ……』


『冒険者になりたかったのに、同じ人間同士で殺し合うなんて……』



  それらの声は、かつて一匹のスライムに敗れ、取り込まれた経験値――即ち魂、その残滓たちのものである。

 経験値としてその魂はスライムの魂によって取り込まれてきた。だがわずかに取り込み損なった魂の一部が、そのスライムの中に残り続けていたのだ。

 もちろん所詮は残り滓でしかない。生前の記憶も人格もほとんどが失われている。だがそれでもそこで在り続けていた。


 そして、肉体の所有者であるスライムの魂が失われた今、ついにその声を上げ始めたのだ。



 一つ一つは微かなものだったが、それらが重なりあって、いつしか人間への憎悪を叫ぶ声にも匹敵するものとなっていた。



 気付けば、人間に攻撃を加え続けていたスライムの動きが止まっていた。


『ああ、ようやく止まった』


『あいつがいなくなった今、もう戦い続ける必要なんて……』


 スライムは自身の魂の残滓による憎悪の声によって人間に攻撃を加えていた。

 だがそれが人間たちの魂の残滓による攻撃を厭う声によってついに動きを止めさせられたのだ。


 千々に乱れるスライムの精神を示すかのように、その肉体は棒立ちのまま動かない。



 だがやがてそんな状況に変化が起きた。

 スライムが再び動き出したわけではない。


 ずっと倒れたまま動かなかった人間――アネリアが、ついに立ち上がったのだ。





「アーネスト……カティア……」


 アネリアの口からまた二人の名が零れる。だが今度のそれはただ嘆くためだけのものではなかった。

 二人の死は彼女を絶望に追いやり、何もかもがどうでもいいという気持ちにさせた。最早そのまま死んだとしてもそれすらもどうでもいいという程に。


 だが何も映していなかったはずの彼女の眼が、スライムの眼を映した時にそんな気持ちは吹き飛んだのだ。


「二人とも、そこにいるのか……」


 アネリアは、あのスライムの奥底に二人がいるようなそんな気がしたのだ。


 相手を殺して経験値を得るというのは、相手の魂を取り込むこと――経験値の仕組みとしてそのような説を彼女も聞いたことがあった気がする。

 もっとも魂などというものは実際に見たことがあるわけでもないし、それが事実かどうかは確かめる術などない。多くの冒険者たちはその話を与太話程度にしか聞いていないだろう。もちろん彼女もそうだった。


 だが――もしそれが事実ならば。

 きっと二人の魂は、このスライムの中に囚われているということになる。


 だとすれば。


「二人の前で、これ以上情けない姿を見せるわけにはいかない」


 背負っていた鉄棍を手にし、スライムの元へゆっくりと近づいていく。

 どういうわけか先程まで殺意の固まりと化して攻め立ててきていたはずのスライムが、こちらを見つめながらもまるで動こうとはしていなかった。


 それは得物を手にした彼女が眼前まで近づいても変わらない。



 ――まるで、自らの死を待ち望んでいるかのように。



 アネリアはゆっくりと鉄棍を振り上げる。

 彼女の瞳から再び零れた涙が頬を伝った。



「二人とも……ごめんなさい」



 このまま振り下ろしたくない気持ちも彼女にはある。もしもこのスライムの中に大切な二人の魂が残っているというのなら、それを自分の手で葬るという行為なんてしたくはない。


 だがもしもこのスライムが今動かないのが、それこそ二人の意思だというのならば。

 彼女は決してそれから逃れるわけには行かない。


 迷いを振り切り、鉄棍を握る手に力を込める。


 そしてさまざまな想いを胸に、彼女は鉄棍を振り下ろした。



      ※      ※      ※



「これで終わり、だな」


 その様子を彼らの頭上から見ていた妖精の少女はそう呟く。

 もっとも、その結果ははじめから分かりきったものであった。故にその事実は彼女にさしたる感情の揺らぎを起こしははしない。


 仮に相手の人間を殺すことが出来たとしてもライの魂が崩壊している以上は彼に未来などない。

 だがそれを抜きにしたところで、この両者の戦いの時点でライにはまず勝ち目がなかったのだ。


 そもそもの話両者のランク差が大きい。


 格上だった二人を上手い具合に奇襲じみた戦法で殺すことに成功したものの、まともな戦いになればまず勝てなかっただろう。残った彼女はその二人よりも更にランクが高いとなれば尚更だ。ランク差が大きくなりすぎれば勝負にすらならない。


 事実完全に無防備な状態であれだけ攻撃を受け続けたにも関わらず、アネリアの側はさして大きな痛痒も感じているようには見えない。そこだけ見ても力の差――いや、(ランク)の差は歴然だった。


 それだけにそんな相手の心が仲間の死によって折れて、別の意味で戦いにならないというのはある意味予想外の展開ではあった。


 だが、それで結果が変わるわけでもない。


「魂の崩壊により、魂と自我を失った者は、遺された意思に従い動き続ける。そして魂を食らい続けた者にとって、その裡にある”遺された意思”は一つだけでは――本人の物だけではない」 


 食らい続けた魂――食らい切ることが出来なかった魂たちも、微かとはいえ意思を遺している。


 本来ならばそんなものに影響されることはほとんどない。他者の魂の残滓などよりも、本人の魂が持つ力の方が圧倒敵に強いのだから。


 だが、現在はその本人の魂が損なわれてしまっている。


「数多の意思に抜け殻となった肉体は振り回され、結局その動きを止める」


 我武者羅な程に攻め立てていたスライムが突然その動きを止めた理由がそれだ。そしてそれは魂の崩壊による症状としてはごく予想できたことだった。


 そして心が折れ立ち上がることも出来なかった人間もついに立ち直った。


 あとはスライムが止めを差されるのを待つばかりだ。魂の崩壊から蘇ることなど決してないのだから。




 ――そのはず、だった。



「ん? これは……!」


 眼下で起きたスライムの異変に、彼女ははじめて驚愕の声を上げた。



      ※      ※      ※



 今にも自身に振り下ろされようとする鉄棍。それを受ければ間違いなく死ぬであろう。


 だがスライムは――いや、スライムの中にいる彼らは、それを受け入れていた。



『――やっと、終われる』



 彼らは訪れる死を完全に受容していた。

 否、そもそも彼らはとっくに死んだ人間たちの残り滓でしかない。

 そんな彼らがただ在り続けるために同じ人間相手に殺し合いたくなどない。むしろ人間に止めをさして貰えることがありがたいくらいだ。


 その相手が、彼らの中の誰かと縁深い相手であるなら尚更だ。


 そしてついに、眼前の彼女が得物を振り下ろした。



『――ありがとう』



 相手にはきっと届かないであろう声。

 それでも彼らの総意といえる想いの声が静かに響き――




 ――黙れ、人間共




 突如その声が叩きつけられるように響いた。


 同時に、まるで動かなかったスライムの肉体が動き出す。


 振り下ろされた鉄棍を掻い潜るように躱し、跳び上がらせた身体を相手に叩きつけた。


「なっ……!?」


 感傷に囚われていたアネリアにとって完全に予想外の一撃。

 カウンター気味にみぞおちに食らった一撃で、彼女は大きくよろめいた。


 スライムはそんな彼女をじっと見据える。


 その瞳には、魂が崩壊した者にはない強い意志が込められていた。



 ――ライという名のスライムの意思が。



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