18話 崩壊の序曲
深い闇の底に、彼の意識は沈み込んでいた。
闇の中でそれがゆっくりと浮かび上がる。
――俺は、一体……?
まるで寝起きのようにぼんやりとする。自問するも自らの置かれた状況がまるで分からない。
それでも漠然とした思考で必死に記憶を探る。
――そうだ、確か……敵を追いかけて、穴に落ちて、そこで戦って、それで……どうなったんだっけ?
ようやくそこまで思い出すも、そこから先がまるで思い出せない。
いや、思い出した部分についても細かい部分が虫食いのようにごっそりと抜け落ちている。
だがろくに働かない思考ゆえにそのことにすら気付けない。
例えるならば夢の中のような感覚。霧がかったようなふわふわとした漠然とした思考しかできない。
加えてその不調は思考の鈍さだけではなく感覚にまで及んでいた。視界もまた明瞭とせず、周囲の光景も把握できない。
そんな思考も感覚も不完全な状態。
だがそんな状態でも、いやそんな状態だからこそ、彼にとって大切な人物のことばかりを考えていた。
――姉さん、カティア……
何より大切な姉と恋人。朦朧とした不完全な意識の中でも、二人への想いだけは確固として存在した。
二人への思いを柱に己を保つ。
やがてゆっくりとだが曖昧模糊としていた意識が定まっていく。それに伴い、感覚も蘇っていく。霧が晴れるかのように眼前の光景が、彼の視覚に飛び込んできた。
彼が最初に眼にしたのは――一人の男の死体だった。
まだ少年といっていい年頃。さぞ苦しんで死んだのだろう、その表情は激しい苦悶に歪んでいる。陸上で溺れたかのように、その口からは多量の水が溢れていた。体内での出血もあったのか、その水は赤く濁っている。
その少年の事を彼はよく知っていた。何しろ毎日のように鏡で見ていたのだ。即座に理解する。
――俺の……死体?
愕然とすると共に、忘れられていた記憶がフラッシュバックする。
敵である魔物を追いかけ、穴に落ち、そして敗れて死んだ記憶。
断片的なものであったが、彼が自身の状況を理解するには十分だった。
――俺は……殺されたのか?
信じられない出来事に、思わず心中で自問してしまう。
だがその時、それに答えるように声が響く。
――違う
彼の意識をねじ伏せる、強い意思の込められた声が。
――俺が、殺したんだ
声と共に内から湧き上がってきた強い意志。
その意志によって彼の意識は押さえ込まれ――また深い闇の中へと沈んでいった。
そして彼の意識が失われ、ライはようやく目覚めた。
「くそっ、なんだったんだ今のは。まさか俺が、人間の記憶なんかに乗っ取られかけるなんて」
そう言ってライは忌々しげに舌打ちする。
ほんの僅かな時間のことだったが、ライは自分のことをアーネストという人間だと思い込んでいたのだ。
思えばこれまで幾度も自分が人間になった夢を見たことがある。しかし今回のそれは今までのように眠っている間の夢の出来事ではなかった。
そのような事態に陥ったのは、ライがアーネストを殺した直後のことだった。
人間を殺して経験値を手に入れる。いつものことである。
ただいつもと違ったのは、その経験値の量が膨大だったことである。
膨大な経験値をライが吸収し――その直後、まるで逆に経験値に呑み込まれたかのように意識を失ったのだ。
「まるで自分自身が押し流され、塗りつぶされるようなあの感覚……あれがリースの言っていた魂の崩壊ってやつか」
その感覚を思い出して思わず震える。
あの一瞬、確かにライは自己を喪失していたのだ。
かろうじて自分を取り戻すことができた。だが一歩間違えればそのままライの自我が、そして魂が完全に塗りつぶされ消失していただろう。
「今回はなんとか踏み止まったが、次もなんとかできるとは限らないな……」
リースから警告は受けていたが、いざその危機に触れてしまえばその恐怖は嫌でも大きくなる。
そして敵である人間はまだ二人いるのだ。このまま戦い続ければ、今度こそ魂の崩壊を迎えてしまうかもしれない。
それならば一人殺したことに満足して逃げるというのも十分有りだ。
「とはいえ呑気に考えている暇は無い。すぐにでも動くべきだ」
孤立した人間を狩ることに成功したが、残った連中がその人間を救出にやってくる恐れがある。もしもどう動くか悩んでいる内に見つかってしまえば最悪だ。
ここからどう動くべきか、すぐに決断せねばならない。
現状の戦果で良しとして逃走するか。
もしくは残りの二人に襲撃をかけるか、だ。
僅かに迷うが、その時ライの脳裏を彼の親友の最期の姿がよぎる。
穴の中から脱出した時には、ライの行動指針は決まっていた。それに従い、即座に彼は動き出した。
※ ※ ※
アネリアは負傷したカティアを背後に庇いながら周囲を警戒していた。しかしその行動とは裏腹に、集中は完全に欠けた、形だけ見張っているような状態だった。
彼女が心ここにあらずな理由は明快だ。
怒りに駆られて飛び出していった弟が心配でたまらないのだ。
怪我をしたカティアを守るべく自身がその場に残った判断は決して間違っていないだろう。
出来るならばあの時、アネリアとアーネストの双方がこの場でカティアを守りながら態勢を整えたいところだった。だが怒りのままに駆け出したアーネストを止めることがかなわなかった以上は仕方が無いことだ。
そして逆にアーネストと共にあのスライムを追跡するというわけにはいかなかった。負傷して満足に動けないカティアを置き去りにすることにわけにはいかない。
故にアネリアにはこの場に残る以外の選択はなかった。
だが判断が間違っていないからといって、その選択を後悔しないというわけではない。結局そのおかげでアーネストを独りにしてしまった。
不意打ちを決めてカティアを負傷させたあのスライム――奴こそがミミネズミの裏にいた名有りの魔物なのだろう。
おそらく単なるランクでいえばアーネストの方が高いだろう。だからといってそれで絶対に勝てるかというと話は別だ。
カティアの不意を付いた行動やその攻撃力、そして逃走にうつる判断の早さと逃げ足の速さ。それらを鑑みると聞きしに勝る厄介な相手に思える。そんな強敵を相手にアーネストたった一人で大丈夫なのだろうか。
考えれば考えるほどにアネリアの心中の不安が増していく。
かなうならば、すぐにでも弟の下へと駆け出したい。だがそれは即ち負傷したカティアをこの場に独り置き去りにすると言うことだ。それでは何のためにこの場に残ったのかという話である。
しかしそんな焦燥に駆られるアネリアへとカティアが口を開く。
「アネリアさん、私は……大丈夫、です」
カティアは魔法で自身の腕を治癒しながらそう言った。
「痛みはもう大分引きましたし、いつまでも守ってもらわなくても大丈夫です。だからアネリアさんは、アーネストのところに行ってください」
だがその表情は苦痛をこらえているのか僅かに歪み、額には脂汗が浮いている。
負傷直後に比べて落ち着いているのは確かだが、言葉程には大丈夫ではないのが一目でわかる。
アネリアは逡巡する。だがそんな彼女へとカティアは重ねて言う。
「私よりもアーネストの方が心配です。これで彼に何かがあったら後悔します。お願いします――義姉さん」
その言葉でアネリアは決意する。
もともとアーネストが心配でたまらなかったのだ。ここでカティアが己の背中を押してくれるというのならば、それに応えるのに否やはない。彼女の決意を無駄にしてはいけない。
そしてそう決めた以上は一刻も早く弟の下へと向かうべきだ。
「アーネストを連れてすぐに戻ってくるわ」
「はい――どうか、彼のことを……お願いします」
苦しそうながらも気丈に微笑みを浮かべて見せる彼女に頷きを返すと、アネリアはすぐに駆け出した。
アーネストが向かった方向には草を踏み荒らした痕がはっきりと残っている。彼の行き先を見失うことはないだろう。
アネリアは弟に追いつくべく走る。
彼女の心には拭いきれない不安が渦巻いていた。たとえ相手が名有りの魔物だとしても、アーネストが容易にやられているとは思えない。Dランクに上がリたてとはいえ相応の実力はある。きっと彼女の心配は杞憂で追いかけた先には無事な弟が待っているのではないか。
そう考える一方で、嫌な予感も湧き上がってくるのを抑えきれない。
自身を落ち着かせるように心の中で大丈夫、大丈夫と呟きながらも駆ける速度が無意識に上がる。
――だがたどり着いた先にあったのは、そんな彼女の期待を裏切る光景だった。
人一人が優に入る大きな穴と、そしてその穴の底で動かなくなった弟の姿。
「そんな、アーネスト……」
呆然と呟いた彼女は穴の底へと降りる。
間近で見る弟は苦しみに満ちた表情を浮かべていた。どれほど無残な死に方だったのだろうか。
「私が、私がもっとしっかり止めていれば……!」
その瞳から大粒の涙がぼろぼろと流れ落ちる。
変わり果てた弟を強く抱きしめる。だがそうしたところで弟が死んだ事実が変わることがない。
「――!」
そして彼女は慟哭の叫びを上げる。堪えきれない悲しみを吐き出すように。
その彼女からは魔物への警戒心や置いてきた義妹の事など全て吹き飛んでいた。
故に彼女は気付かなかった。
弟をこのようにした魔物が今、どこに行ったのかということに。
※ ※ ※
「やっと腕の痛みが治まってきた……」
アネリアがアーネストを助けに向かってからそれなりに経つ。それからもずっと折れた右腕に≪治癒≫をかけ続けていたカティアは一息つくように溜息を吐いた。
とはいえ完治にはほど遠い。
≪治癒≫の魔法は対象の治癒力を飛躍的に高めるが、重傷を即座に完治させるようなことはできない。
折れた腕が完全に直るには魔法を用いても十日程はかかるだろう。
魔法を使ってもそれだけかかるのかと長く感じる者もいるだろうが、骨折の治癒には魔法無しでは数ヶ月かかる。それが十日近くにまで縮まるのだから≪治癒≫の力は中々に大きい。
だがそれまでは――少なくとも今回は、負傷した腕を抱えたままでいなければならないということだ。
自身の状況にカティアは不安になる。
痛みが治まってきたとはいえ、腕の痛みや違和感は魔法に必要な集中を阻害する。激しく動き回れば傷にも障る。
十分な能力を発揮できない状態にも関わらず、フィールドに独りでいるというのは精神的にも辛いものがある。
とはいえ、自分に付いていたアネリアを送り出したことを後悔はしていない。
独りで魔物を追いかけた恋人が何より心配だった。自分の身などよりもずっと。それに自分と同じく彼の安否を心配していた彼女が見ていられなかったのもある。
もっとも、この始まりの草原の魔物程度、負傷していたとしてもカティアにとっては危険ではない。
おそらく危険なのは、名有りの魔物であるあのスライムだけ――
そこでカティアは自身の腕をへし折った魔物の事を思い出し、恐怖に震えた。
その恐怖を振り払うように首を振る。恐怖と痛みを誤魔化すように思考に戻る。
現状最も危険なのはそのスライムを追ったアーネストなのだ。その彼へアネリアが付いてくれれば彼女としても安心だ。そのくらいにアネリアの事を信頼している。
応急処置程度には治癒も進んだことだし、自分も合流を目指してアネリアたちの方に向かっていくべきか、足を引っ張るのを避けるためより安全な地帯へ下がるべきか考える。
そんな時、草をかき分けて移動する音が彼女の耳に届いた。
びくりと反応したカティアは音の方へと振り向いた。
「……っ!」
そして思わずカティアは息を呑んだ。
最も危険な存在――アーネストたちが追っていったはずのスライムが、そこにいたのである。




