17話 追う者と狩る者
ライは復讐を決意したその日からずっと己を鍛え続けてきた。
その特訓の日々の中で、ライが特に重点的に鍛えてきた能力は二つある。
一つは攻撃能力、つまり体当たりである。相手を傷つける能力をろくに持たないスライムにとって、人間を殺害できる最低限の攻撃力が絶対に必要だった。
そしてもう一つが機動力――動きの速さである。
この能力もまた元々スライムには欠けていたが、無論戦いにおいて非常に重要な要素である。
一口に機動力といっても状況によって必要になる能力は様々だ。それをライは自分なりに様々な状況を想定して鍛錬してきた。
迅速に距離を詰めるための接敵行動、体当たりを行うための助走、相手との優位な位置取りを素早く得るためのフットワーク、そして相手の追跡から逃れるための――全速での逃走。
つまり、これらを鍛えてきたライは自身の駆ける速さに相応に自信があった。
だがその自信を打ち砕くような現状に、ライは舌打ちの一つでもしたい気分であった。もっとも、実際にはそんな余裕すらまるでない。
何故なら、ライは全速力で逃げているにも関わらず、追いかけてくる人間をまるで振り切れないのだから。
直接追いかけてくる人間を目にしたわけではない。スライムという生物の肉体的欠陥の一つとして、背後を振り返ることができないというものがある。饅頭型の、言わば頭部しかないような形状であるスライムに、人間のように顔だけで振り返って後ろを確認するという動作ができないのは当然である。
ゆえに音だけで判断するしかできないが、追跡者の足音は全速力のライから決して引き離されることなく追いかけ続けている。
スライムという生物は高速で駆けるという行為にも不向きである。
手足を回転させるように走ることのできる人間や四つ足の獣や魔物と異なり、スライムは地面を跳ね続けるしかない。
地面に着地する寸前で肉体を地面を蹴るように叩きつけ、その勢いで前方に向けて跳ぶ。その繰り返しである。言葉にすると簡単かもしれないが、実際はそんなことはない。
地面を蹴るタイミングを誤ると簡単に身体は空転してそのまま地面を転がってしまう。
地面を蹴って前に跳ぶ際には誤って身体が回転しながら跳んでしまったこともある。そうなれば速度が落ちるならマシで、頭部から地面に落ちて動きが止まってしまうこともある。どれも鍛錬の際に幾度となく経験した失敗である。
足がある他の生き物と違って、着地地点をコントロールすることもできない。地面を蹴る度にその強さや角度をしっかりとコントロールしなければいけないのである。
長い鍛錬の結果で全速での疾走をライは体得したが、万が一ここで一歩でも失敗して転倒なり失速なりすれば――次の瞬間人間に追いつかれて殺されるだろう。
本来ならばもう少し速度を落とし余裕を持って逃げることが出来るはずだった。だが人間のその予想を上回る速さによって、相応のリスクを負って全速で駆けなければならない。
追いかけてくる足音は一つ。
追っ手がいないならばそのまま逃げても良かったが、厄介とはいえ相手は一人。他の二人から一人だけを引き離した形だ。見方を変えればこれはチャンスでもある。
相手が一人ならば殺すための成算が全くないわけではない。
そのためにはもう少し逃げ続けなければならない。全力疾走での疲労を強く感じながらも、ライは必死に駆け続けた。
※ ※ ※
一方で追う側であるアーネストもまた焦りを抱いていた。
恋人を傷つけられた怒りのままに、彼は報いを与えるべくそのスライムを追いかけた。――だが、逃げ続けるスライムの背中にまるで追いつけないのだ。
理由はいくつか思い浮かぶ。例えば装備の重さや、移動を若干阻害する草や柔らかい地面などの地形の要因で速度が出ないというのはある。
だがこれらの要因は冒険者としては平常である。装備はもともと身に付けた上である程度機敏に動ける重量の者を選んでいるし、地形も踏み固められた道の程に歩きやすくはないがそれでも動きやすい地形ではある。
Dランクの戦士であるアーネストの身体能力を以てすれば、これらはさしたる障害にならない。言い訳にしかならないだろう。
結局のところ追いつけない最大の理由は、スライムの逃げ足が予想以上に速い。これに尽きる。
この異常に素早いスライムこそがミミネズミの暴走の黒幕だということが察せられる。
尖兵であるミミネズミはもうほぼ殲滅した。つまりこのスライムを倒せば今回の依頼は達成も同然である。
あのスライムを叩き潰せば恋人を傷つけた仇への報復と依頼の完遂の両方が叶うというのはわかりやすくていい。内心で燃え上がる怒りと冒険者としての使命感が混ざり合い、アーネストを動かす強い意志となる。
――アーネスト、待ちなさい!
ふと、彼を制止しようとした姉の声が脳裏によみがえる。
怒りに支配されたままその制止を振り切ってしまったことに、一抹の後ろめたさを感じる。
だが前方のスライムへの怒りはその後ろめたさを封じ込めた。それが依頼の目標と一致していることも、彼の行動を正当化する大義名分となっていた。
(姉さんの指示を無視した以上、絶対にあのスライムを倒さないとな!)
そうアーネストは自らの意思を固める。
強い意思というものは得てして物事を為すための原動力となる。だが同時に、彼に追跡を一旦辞めて引き返すという選択肢を失わせてもいた。
必ずここで倒さんと決意を固めたアーネストは、背負っていた銅剣を投げ捨てる。どうせこれはミミネズミを処理するためだけの使い捨ての武器だ。この状況ではただの重りでしかない。
銅剣を捨てたところでもちろん無手ではない。腰には立派な拵えの長剣が差してある。安物の銅剣などよりも遙かに優れた、アーネストの本命の武器だ。
ここが正念場と気合いを入れ、これまでの疲労を押し殺して速度を上げた。
スライムとの距離がじりじりと縮まっていく。
スライムの側もそれを察したのか慌てた様子を見せるが、これ以上速度は上げられないようでどんどん距離が縮まっていく。
剣が届く距離まで近づいたら一気に斬りかかる。この一撃で仕留めるのは難しいだろうが、最低でもこれ以上の逃走を食い止めさえすればいい。追いかけっこは大変だったが、正面戦闘となれば負ける道理はない。
そしてついに射程まで距離を詰めたアーネストは速度を落とさないまま鞘から長剣を抜き放つ。
駆ける勢いのまま剣を振るうべく、最後の一歩を踏み出し、
――踏み出した先の地面が崩れ落ちた。
「なっ――!?」
地面が崩れ、全身を包む浮遊感にアーネストは驚きの声を上げた。
落下は一瞬だった。
身体をしたたかに打ち付けたアーネストは、何が起こったのかと痛みに顔を歪めながら必死に状況を確認する。
「これは……落とし穴!?」
彼は深い穴の中に落ちていたのだ。
アーネストが斬りかかるべく踏み出したあの最後の一歩、そこがちょうど落とし穴となっていたのだろう。
「まさか、ここまで誘導されていたのか? あのスライムに!?」
愕然とした。スライムに罠にかけられたというその事実に。
始まりの草原のど真ん中にこんな大穴が開いているはずがない。そんな話も聞いたことがない。
つまり魔物がわざわざ落とし穴を掘ったということだろう。やってくる冒険者を罠にかけるために。
あのスライムは一目散にこの落とし穴の方向へと逃げていた。はじめから追撃してきた相手をこの落とし穴にかけるつもりだったのだろう。落とし穴の偽装もしっかりされていた。少なくとも、追跡に夢中になっている状態では落とし穴の存在に気づけない程度には。
アーネストは知る由もないが、この落とし穴はライの発案でミミネたちが掘ったものである。
かつてライは埋葬する墓穴から落とし穴を思いついたことがある。その時は結局実行しなかったが、落とし穴のことを知るリースからの知識を基に使うタイミングを計っていたのだ。
そして最近人間の冒険者が来なくなったのを察して、今なら草原に落とし穴を作っても無意味に踏み荒らされることはないだろうと、いくつかの落とし穴を作っておいた。
そしてアーネストはまんまとその罠に引っかかったのだ。
スライムには戦闘において、人間などに比べて肉体的欠陥がいくつもある。
だが数少ない優位性として人間よりもずっと体重が軽いという点がある。
つまり人間の体重ならば落ちるが、スライムの体重ならば落ちることはない落とし穴を作れば落とし穴を回避する必要はない。故に不自然な動作をとる必要もなく、アーネストも気付くことができなかった。
名有りの脅威は散々聞かされていた。だからこそアーネストは相手のことをただのスライムとは見ていなかった。見ていなかった――つもりだった。
だが、あれほど言われても所詮はわかったつもりでしかなかったのだろう。
まさかスライムごときが罠まで使うとは思わなかった。それにまんまと誘導されるなんて。
その強さ、いや厄介さはアネリアが百戦錬磨と形容した通りであった。
「だが俺は穴に落ちただけだ。まだ挽回できる、してみせる」
自分を励ますよう奮い立たせるようにそう呟くと、状況を打開するべく自身の状況を把握する。
落とし穴への落下による肉体へのダメージは軽いとはいえない。打ち付けた部位は痛むし、どうやら捻ったらしく足首も痛い。だがそれでも骨折のような深刻なダメージはない。
愛剣は落下の際に取り落としたらしく手元にはない。とはいえもし手元にあっても狭い穴の中では満足に振るうことは出来なかっただろうから構わない。
落ちた穴の広さは狭い。両腕を広げるのが精一杯というくらいだ。自分以外にもう一人入ればぎゅうぎゅうといったところだろう。ややすり鉢状になっており、上の方が若干広い。逆に底は非常に狭く、足を動かすスペースもろくに無い。
そして穴の深さはなかなかに深く、手を伸ばせばなんとか縁に届くといったところだ。穴の中からは外を窺うのは難しい。
できればすくにでも穴から出たい。だがこの深さでは彼の身体能力でも助走すらなくひとっ跳びで出るということはできないだろう。足を負傷しているなら尚更だ。
這い上がることはそこまで難しくない。だが僅かに時間がかかる。そして這い上がろうと隙だらけのところを狙われる危険性がある。いやむしろ相手はそれを狙っているというのは十分ありそうだ。
相手はカティアの腕を折るほどの体当たりがある。そんなものを無防備な状態で受けることになるのは危険だ。
しばらく悩んだアーネストは、落とし穴の壁へと寄りかかるように立つ。
そして頭上を見上げ、そのまま動かず待つことにした。
穴から脱出しようとすればそこに隙が出来る。ならば脱出しなければいい。
時間が経てばいずれ姉もこちらを追いかけてきてくれるかもしれない。そうすればこちらも無事に脱出できるだろう。姉の制止を無視しておきながらその姉に助けられるというのは格好が付かないが、この期に及んでそんなことは言っていられない。
もっとも、アネリアが本当にやってくるかは分からないし――来たとしても彼女がこの場に到達する前にケリが付いているかもしれない。
そんなことを考えながら頭上から視線を外さない。
もっともアーネストにとっては姉がこちらに向かってこないというのならばそれでも構わなかった。
彼の元に来ないということはカティアに付いているということだろう。怪我をした恋人のもとに付いているのが、アーネストがもっとも信頼する姉だというのならば心強い。
だが、敵であるスライムにとっては違うだろう。
アーネストを上手く引き離し、落とし穴に落とすことすら成功した。
にも関わらずここで何の行動も起こさずに、応援が来て救出されるというのは避けたいはずだ。
つまり、アーネストが動かなければ、自分が隙を見せずとも相手の方から仕掛けてくる。そういう目算だ。
アーネストは壁に背中をもたれるようにして待つ。この位置ならば背後から攻撃されることはないだろう。
さりげなく地面を踏み固めて多少は動きやすくなるようにもする。
そして待ち続け――
「来た!」
ついに彼の視界は青い塊を捉えた。
放物線を描きながらアーネストの頭部目がけて向かってくる。
だが、ずっとそれを待ち構えていたアーネストの反応は早かった。
武器がないのならば素手でいい。向かってくる敵を叩き落とすくらいならば素手でも出来るはずだ。
アーネストは飛来する敵を叩き落とすべく右腕を振るう。
彼の腕は狙い過たずに目標を打ち据え、
――相手は弾け、四散した。
水飛沫が飛び散り、アーネストの身体を濡らす。
「倒した……? いや、これは」
今の一撃の反動による強い痺れを右腕に感じながら、訝しげに呟く。
だが状況はアーネストが理解するよりも早く動いた。
続けて再度青い塊がアーネスト目がけて穴の上から飛んできたのだ。
ちょうど迎撃で腕を振るった直後のアーネストには、晒すまいとしていた隙がついに生まれていた。
飛んでくる青い塊――スライムと視線が交錯しながら、ようやくアーネストは理解した。
(さっきのはスライムじゃなくてただの水……≪水弾≫か!)
それと同時に、スライムの体当たりがアーネストの頭部に直撃した。
思いっきりぶん殴られたような衝撃に、アーネストの身体がぐらりとふらつく。視界が青一色に染まり、衝撃で意識が飛びそうになる。
だが、そこで彼は崩れ落ちず、壁に手を突いて堪える。
ライの一撃はアーネストの命を奪うには足りなかったのだ。
(痛い……が、まだやれる!)
衝撃に頭がぼーっとするが、それでも彼は耐えることが出来た。
視界はまだ戻らないが、それでも彼は痛みを堪えつつ笑みを浮かべる。それは勝利を確信してのものだった。
(これで相手も穴の中に降りてきた。もう相手の優位はない)
そう、体当たりをするということは、それを行った後は相手も自分の元にいるということだ。穴の中にいるアーネストへ体当たりをすれば、スライムの側も穴の中に落ちる。互いが穴の中と外にいるという位置の差による有利不利が失われたのだ。
穴の外から遠隔攻撃を連発されるならば厄介だっただろう――それも≪水弾≫の威力を鑑みるに、厄介以上ではないが。
なんにせよ、強力ではあっても体当たりの一発さえ防ぐことが出来ればよかった。最早これで落とし穴による相手の優位は失われた。
そしてこの狭い穴の中では動き回ることも出来ないし、体当たりも出来ない。
穴から逃れるような動きを見せるようなら、逆に彼の方がその隙を突く。
そう考えて穴に落ちただろうスライムへと視線を向けようとし――そしてようやく自身の視界が青一色から戻らないことに気付いた。
一瞬遅れ、そしてアーネストは自らの状況を把握した。
アーネストの顔面へと体当たりしたスライム。そのスライムが、そのままアーネストの顔に張り付いていたのだ。
「……!? んー、んーっ!」
口のまわりも完全に覆われているために声を上げることも出来ない。
事態を理解して、スライムに覆われたアーネストの顔がまるでスライムのように青く染まった。
――こいつ、窒息狙いか!?
顔を完全に覆われてしまえば当然ながら呼吸も出来ない。アーネストは焦る。
もちろん口を塞がれても即座に窒息はしない。だがそれまでの猶予の内に呼吸を確保出来なければそのまま窒息死が待っている。
すぐさま引き離さねば、とアーネストは顔に貼り付いたスライムへと手を伸ばす。
だが、スライムの次の動きはそれよりも早かった。
直後、塞がれたアーネストの口や鼻に、大量の水が直接流し込まれたのだ。
≪水生≫。水を生み出す、ただそれだけの水属性の基本魔法である。だがこの場において、それが劇的な結果を発揮した。
気道に流れこんだ水にアーネストは激しい苦痛を感じ、涙目になりながらむせ込む。気道に入り込んだ水を吐き出す生理的反応だ。しかしそれも口を塞がれていては叶うはずもない。
ただ口を塞がれただけならば耐えられる。だが体内、肺に直接多量の水を流し込まれたことによって、陸上で溺れる苦しみを味わっていた。意識が混濁していく。
吐き出すどころか更に流し込まれ続ける水。最早何も考えることすら出来ず、アーネストはのたうち回ることしか出来なかった。
だがそれにもやがて終わりが来る。
激痛と共にアーネストの体内で何かが弾けるような感覚がした。
大量に流し込まれ続けた水によって、アーネストの肺が破裂したのだ。
そしてアーネストの身体から力が抜けていく。
青一色だった視界が薄れていった。
(姉、さん……カティ、ア……)
混濁した意識に最愛の姉と恋人が思い浮かぶ。
それを最後に、アーネストの意識は失われていった。




