石淵と小寺 その一
正月二日。
江戸の東端、深川はずれにある醤油屋・はたやはまだ休みの中にある。
そのはたやに居候する掛馬四郎は暇つぶしにと江戸の街へと繰り出した。
この日の掛馬四郎、昨日のような目に遭わぬようにと頭には笠を被っている。体には袖なしの綿入れを羽織り、その下は着流し姿。腰には大小を挿し、しかし左手には白木の角樽をぶら下げている。
その姿で六尺を越す巨体を揺らしながら、タップタプと水音を響かせ道を行く姿を人は何と見るだろうか。
良くて変わり者の武芸者、いや普通の者は、酒を片手に友の下へと向う悪漢とでも見るだろう。
道行く人々の視線を浴びながら掛馬四郎が通りを行く。
両国橋を渡り、北に進路を変えると蔵前を抜け、浅草寺を左に見ながら更に北へと向かって行く。大川より西へと繋がる日本堤を目にしても左に折れて吉原には行かず、そのまままっすぐ大川に沿って北へと進む。
すると江戸も大分に辺鄙な場所へと至る。
視界の先には田圃も見えるようになり、人の数よりもキツネや狸の方が多く住みそうな土地へと至る。
その江戸の町と田圃の際に建つ長屋の一つが四郎の目指す場所だ。
掛馬四郎は通りに面した一軒の表長屋の前に立つと、「ご免」と一声声を掛けた。
ビリビリと長屋が声に震えた。
掛馬四郎は戸口の障子戸をスルリと開けると己の視線より低い梁を屈んで潜る。
するとそこには目玉を丸くひん剥いて、細く皺よった顔を驚かせるこの家のおかみが居た。
掛馬四郎は笠を取ると、その顔を露にした。そしてニヤリ、笑みを浮かべて言う。
「突然の訪問許されよ。ところで某を覚えておるかの?」
すると目を剥いていたおかみの顔が元の皺枯れた顔に戻ると応える。
「ああ、覚えているよ。あんたみたいな馬鹿でかいお侍だか大入道だかわからないような人は忘れようっても忘れられるもんじゃないさ」
この掛馬四郎、この長屋を訪れるのは実は初めてではない。
昨年、ここの裏長屋に住む石淵鉄太郎に彼の家宝の刀を届ける際、このおかみの手を借りていたのだ。
その時、石淵はある盗賊との繋がりを詮議の為入牢中であり、掛馬四郎は石淵が帰ってくるまでの間、石淵の刀をこの大家に預けたのである。
「そうか、それは何より。これは土産だが取っておいてくれ、中身は醤油だ」
掛馬四郎がそう醤油の入った角樽を持ち上げて見せると、苦みばしっていたおかみの表情もとたんに緩んでみせる。それどころか、
「あらまぁ大変、それじゃぁお茶なりと出さないとね」
と、しおらしくさえなると客を持て成す用意までし始める。
「あいや某ここで結構、この上がり端に腰掛けるゆえ、茶だけ用意してくれればそれで十分。樽はこの上がり口に置くが、よろしいかな」
「ああ、そこで構わないさ」
おかみは奥より丸い千歳盆を持ってくると、茶道具を取り出し火鉢に沸いた湯を注いだ。
「どうぞ」
「うむ、いただこう」
四郎は差し出された湯のみ茶碗を手で包み込むように持つと、ズズと茶を啜った。北風に吹かれ冷えた体に熱い茶は何よりのご馳走だった。
すると掛馬四郎の脇に姿勢を正して座るおかみが訊ねるのだ。
「あの石淵さんの件ですね?」
「うむ、暮らしは成り立っているのかと少々気になってな、訊ねてみたのだ」
するとおかみ、視線を横の畳にずらすと「相変わらずですよ」と、俯き加減に呟いたのである。その様子に四郎は“やはり”と思った。
「あの者は、きちんと飯など食っておるのか」
その言葉におかみはフルフルと首を横に振ると答える。
「アタシも心配になって昨日訊ねてみたんですよ。小鍋に澄し汁を入れ餅を煮て持っていったらそれはもう喜んで、喜んで。きっと何も食べてなかったんでしょうね」
そうか、案外なんとかなるものだと四郎は思った。
掛馬四郎は石淵が食うものもなく、飢えと寒さに震えているものと思っていたのだが、こうして大家が手を差し伸べた事を知り、安堵に胸を撫で下ろしたのである。
だが、大家のおかみの話には続きがあったのだ。
「ところがあの恩知らず、甘い顔していりゃつけ上がりやがって、店子の癖にこのあたしに向かって汚れた鍋を洗いもせずにつき返しやがった。それに文句を言えば、『男子足るもの厨房に入るべからず!』だのと勝手なことをほざきやがって、誰のおかげで飢え死にせずにすんだと思ってやがるんだい! あの穀潰しめ! おまけに他の野良犬まで背負い込みやがって。そんな事は家賃をきちんと払ってからするもんだよ!」
「野良犬?」
「そう、野良犬じゃ判らないわね。誰だか知らないけどひょろひょろっとした浪人者まで部屋に引き入れちまったんだよ、このあたしになんの相談も無く。いったい大家をなんだと思ってるんだろうねぇ」
大家のおかみの愚痴は止まるところを知らなかった。
延々とあの石淵の悪口を並べ立てるのだが、要は石淵のおかみに対する礼儀や配慮といった問題のようだ。
石淵への怒りがそうさせたのか、おかみは平素の口ぶりに戻ると掛馬四郎に訊ねる。
「ところであんた、あの石淵に金でも貸してるのかい? 言っておくけどダメだよ、このあたしも先月分の家賃をまだ貰っていないんだ。取り立てるなら、あたしのが済んでからにしておくれ」
掛馬四郎は己の形を見ると思った。
『うむ、取り立て人が堂に入ってしまったか』
“ふぅう”とため息をつく掛馬四郎であった。
一方その頃、話題の石淵達といえば。
「いつから団子は玉が三つになったのだ?」
「小寺! まさかお主、それがしを疑っているのか!!」
「いや、そうではない! そうではないが…」
石淵と小寺は一串の団子を目の前にして睨み合っていた。
串から抜いた団子は玉が三つ、薄桃、白、緑の玉が並んでいる。
二人はその三つ玉の団子を前にして、いかにすれば等しく分けられるかと頭を悩ませているのだ。
「たしかに四つ刺さった団子はあった。あったがそれは物が良くなかった、団子が明らかに小さかったんだ。判ってくれ」
石淵はそう言うと頭を下げた。
石淵は二人に残された銭五文のうち四文を握り締め、団子を買いに行った。
それは小寺の方が疲れが貯まっていた事もあり、石淵が気を利かせた為であるのだが、普段一人で生きてきた石淵には二人で物を分けたならばどうなるかという思慮が足りなかった。
また飢えと貧しさが判断を狂わせた。
石淵は大振りな団子に誘われ、それを求めてしまったのである。
かくして二人の前には色違いの三つの団子玉が並ぶ事となった。
残った銭は僅か一文。
この三つの団子玉が二人が口にするおそらく最後のまともな食物となるだろう。
「これをどう分けるかだが」
「我が家に包丁は無いぞ」
その言葉に小寺の目が石淵の脇差しへと向いた。とたんに石淵はそれを悟り、脇差しを両手で押え隠しては、
「これはダメだ! 武士の魂で団子を切るなど!!」
そう拒む姿を見せるが、小寺はならばと己の竹光を抜き放つ。
「団子なら竹でも切れよう」
だが石淵がそれに待ったをかけた。
「だめだ! 竹にこびり付く分、食う量が減る!!」
「ならばいかがする!」
「この竹串をうまく使えば」
その時だった。
「ご免!!」
長屋を揺るがす大音声に二人は驚き身を竦めた。
直後にバシンと戸口が開くと、そちらを向いた石淵、小寺はまたも驚き、二人同時に声を上げた。
「うわあぁ!!」
「お主は!!」
開け放たれた戸口に立つ異様に大きいその姿。
顔を見ずとも体だけでも判る忘れ様にも忘れる事のできないその姿は掛馬四郎その人である。
掛馬四郎は戸口を潜ると四畳程の板の間に向かい合う二人を見た。
「石淵のところに住み着いた浪人とはやはりお主であったか。二人とも体の方はどうだ? だいぶ参っていたようだが」
「誰のせいで! うぐおぅ…」
誰のせいで、と、いきり立った石淵が体の痛みに身悶えた。
それに小寺が心配げに手を差し伸べるのだが、掛馬四郎はそれを横目に上がり口にドッカと腰を降ろしたのである。
「無理はするな。若いお主たちのことだ、二三日もすれば体の痛みも消えよう。それまではおとなしく養生するがいい」
石淵と小寺の両名は、口を噤み掛馬四郎を睨んでいる。“誰のせいでこうなったのか”あるいは“この悪党めが”と叫びたい心を耐え忍んでいた。だが、
「どうしたのだ? 喋る気力も無くなったのか? いやそんな訳はあるまい、ところでこの団子はなんだ?」
と、掛馬四郎が団子の皿に手を伸ばそうとした時だった。二人は共に、
「あああああっ!!」
と声をあげると団子の皿を守るべく、石淵は己の体で覆い被さるように、小寺は体を盾にしてそれを守ったのである。
「なんてことをするのですか!」
「我等の最後の糧を!!」
まるで餌を守る迷い犬の兄弟。
掛馬四郎は伸ばした手を流石に引っ込めたのである。
「判った、取らんからそう吼えるな。しかしお主達は一串の団子を必死で守る程に追い詰められておったのか、兵糧攻めの城中でもあるまいし」
呆れ顔の巨漢と違い、二人の顔は必死である。
掛馬四郎の言葉を信じぬとでも言うかのように、二人はいまだその身を呈して一串の団子を守っている。
しかもキャンキャンと鳴き声を上げる事も忘れなかった。
「それもこれもあのはたやが! はたやがきちんと銭を払わないから!!」
「そうだ! 約束通りきちんと銭を払っていてくれさえしていたら囚屋も…」
二人は恨めしそうな目つきで掛馬四郎を睨んだ。
しかし四郎はそれを気にせぬ風。さらりと二人に、
「しかし、さぼっていたのはお主たちだから喃。お主たちがしっかり働いてさえいたならば、はたやも、あの口入屋も給金を払わぬわけにはいかなかった。違うか? いわば身から出た錆、自業自得というもの」
そう正論を言って聞かせるのである。
その言葉に石淵は黙って俯いた。
小寺も何か言いたそうな口を閉ざすと、悔しげに下を向き歯を食いしばった。
その様子を掛馬四郎はじっと見詰め、そして訊ねた。
「大家に聞いたがお主たち、まだ家賃を払ってはおらんそうだな?」
コクリと石淵が力なく頷く傍ら、小寺の顔がはっとして掛馬四郎を見上げた。
「まさか家賃の取立てに……、我等を追い出そうと大家に頼まれたと!」
その言葉に脇の石淵が驚きの眼を小寺に向け、次いで掛馬四郎にそれを向けた。
巨漢は何も語らず、微かに笑みを浮かべて二人を見つめている。
しかしその禿頭の向こう、開いた戸口の先に大家のおかみの姿を見た時、石淵鉄太郎は体が震えるのを覚えた。
体を起こす為に床についた両腕がプルプルと震え、いや震えは肩から背中を、あるいは顔に伝わりガチガチと歯を鳴らした。
『もう、おしまいだ。銭も無く、住むところも追われ、仕事も無い。行く当てなどあろうはずもない。冥土の渡し賃さえ使い切ってしまった……』
その石淵の変化を見取った小寺もその顔面を青く染めていた。
小寺は言葉無く顔を掛馬四郎に向けるもののその眼は妙に焦点が合わず宙を向いている。
心此処にあらずといった風に、ただ藪睨みの目を開けているだけとなった。
そして大家のおかみが戸口に辿り付いた。
二人の浪人は放心したように、あるいはただガタガタと震えて言葉も無い。
その浪人達を見ながらおかみが口を開いた。
「あらやだ、掛馬さま、この二人にとってあんたはよっぽど怖い人なんだねぇ。震えてるじゃないかい。で、どうでした?」
「うむ。間違い無い、先日はたやに働きにきた浪人である」
そう言うと掛馬四郎は懐から通し銭三本を取り出しおかみへと手渡した。
おかみも笑みを浮かべて銭を受け取ると、まず二本を持参した巾着にしまうと残りの一本を数え始める。
「昨日の雑煮代を二人分、しめて六十四文だから残りは三十二文だね」
上がり口に腰をかけ、チャリチャリと小銭を丁度三十二枚、床に並べると、
「じゃあ石淵さんと、誰かさん、先月分の家賃と昨日の雑煮代、頂きましたよ」
そう言って確かに受け取ったと記した受け証をペロリ床に残すと、おかみは足取りも軽く帰っていったのである。




