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夏 ー あるいはとても個人的な夜

作者: クローバー

 大学に入って、もう三度目の夏だった。


 このところ、毎日のように激しい雷鳴を伴う夕立が訪れていた。

 そんな時彼はいつも、幼かったころ二人の姉にしがみつきながら、夕立が行き過ぎるまでぶるぶると震えて丸まっていたのを思い出すのである。古い実家の薄暗い部屋の下、ひんやりとした畳の冷たさを感じながら。


 大学が長い夏休みに入り、いやに分厚い長編小説を一冊読み終えたころ、彼はまるで何かの儀式を執り行うかのように、何度も電車を乗り継ぎ、時間をかけて生まれ育った実家へと帰省した。

 それは多くの学生たちが、渡り鳥のように一斉に大学から姿を消してしまったあとのことだった。


 ある夜。

 それは、色褪せた校庭の隅っこに、ポツンと忘れられたように転がっている、そんな古い記憶のような夏の夜だった。

 長かった日もようやく暮れて、彼は縁側にうつ伏せに寝ころびながら、缶ビール片手に小説を読んでいた。

 窓からは、時折涼しい風が入り込んできてはレースのカーテンを柔らかく揺らしている。夕方に激しい夕立があったせいか、少し湿気を含んでいた。


 おそらく月が出ているのだろう、彼は思った。

 庭にある敷石や、こんもりとしたつつじの葉が静かに照らし出されている。

 年の離れた二人の姉が、子どもたちを連れて帰ってきている。

 二人の姉とは、年が一回りほど離れていて、そのため彼は兄弟で喧嘩をするということはほとんどなかった。彼にはあまり競争心というものがなかったが、もしかしたらそういった環境によるのかもしれなかった。

 次女の方は彼が十歳の時に、長女の方は十四歳の時にそれぞれ結婚し、両方ともに二人の子どもがいた。次女の方には、八歳の女の子と六歳の男の子、長女の方には六歳の男の子と四歳の女の子だ。


 いつに間にか、缶ビールは空になっていた。彼は読みかけの小説を縁側の板の上に伏せて、ビールをもう一本取りに台所へ向かった。

 居間には、綿の下着姿の父親がいた。父は大きな背中を丸めながら、籐でできた敷物の上に胡坐をかいて座っていた。

 言うのもはばかられるが、彼は父のことを掛け値なしに優しい男だと思っていた。そして、その物静かな男は、孫たちから間違いなく好かれていた。

 

   # # #


 彼は彼の父が怒ったところをほとんど見たことがない。しかし、そんな父がたった一度だけ、十二歳のころの彼に向って、怒鳴ったことがあった。その出来事は彼にはとても理不尽に思えて、どうして父があんな風に怒ったのかわからなかった。

 それは、彼がある本を探すため、彼の父親に頼んで、家から少し離れたところにある本屋まで、車で連れて行ってもらう時のことだった。

 車は、ブルーの色が少しはげかけた、古い日産バイオレットだった。

 彼の父は仕事でよく車に乗っていたため、多くの道を、その狭く込み入った路地に至るまでもよく把握していた。そのため、彼は当然その本屋の場所のことも父は知っているだろうと、大まかな場所だけ父に伝えたきりで、道案内をしなかったのである。

 時刻はもう夕方で、その日は今にも雨の降りだしそうな黒くて重たい雲が空を覆っており、実際走り出してから間もなくすると、叩き付けるような大粒の雨が激しく降りだした。

 本屋までは車なら十五分もあれば着くはずの距離だった。

 ワイパーがまるで折れそうな勢いで水滴を左右に吹き飛ばしている。彼は、子どもがよくするように、雨粒がワイパーによってフロンドガラスの端に追いやられ、そして小さな小川のようになって流れていく様子を何とはなしに目で追いかけていた。

 父は一言も話さなかった。

 雨足がだんだんと強くなり、彼は本屋に行くには少し時間がかかりすぎているのでは、と疑問に思った。

 窓の外を見やると、道路はまるで蚊帳をかけたように暗い鼠色をしており、立ち並ぶ家々はまるで見覚えのない景色になっていた。

 彼は不安になり、無表情にハンドルを握る父の横顔に目を向け、小さな声で、ここはどこなのか? と父に尋ねた。

 そのあと一瞬、沈黙があった。暗い森の中で一人取り残されてしまったかのような、そんな感じのする沈黙だった。

 そして、父は突然、なぜ店がどこにあるのか言わないのか? と彼に向ってイライラしたように怒鳴り、おもむろに車を急転回させると、父は、もう本屋にも行かず、一言も話すことなくそのまま家まで帰ってきたのだった。

 普段は温厚な父だったため、この出来事は、彼にとってとてもショッキングな出来事であった。

 そのあと、どうやって家に入ったのかは、彼は覚えていない。ただ、帰り道の灼けるようなエンジンの音、雨水をはねるタイヤの音、そして急転回の際の押さえつけるような遠心力だけは、なぜか今でも彼の記憶のへりにこびりついて離れないのであった。


   # # #


 父は今、四歳の女の子を膝に乗せて、他の三人の孫たちとスイカを食べながら、テレビの野球中継を眺めていた。

 台所では、母親が姉たちと洗い物をしていた。

 二人の姉たちは、しきりとそれぞれの夫のことについて不平を言い合っていた。

 母は、彼が来たことに気づくと、

「ビールか?」

と振り返った。

「なんか、おつまみでも作ろうか?」

と言うので、彼は、

「いや、大丈夫」

とだけ答え、冷蔵庫から缶ビールを一本抜き取って縁側に戻っていった。

 いつのころからか、家の中での彼の口数はとても少なくなっていた。また話す時でも、時折ぽとりと落ちてくる雨だれのしずくのような、そんなわずかな分量の言葉しか話さなかった。

 そのため、親はいったい彼が何を考えているかよくわからない、と漏らしていた。


 この縁側の場所は、子どもの頃から彼のお気に入りの場所だった。居間に少しだけ張り出した感じの小さな縁側で、冬はそこにストーブが置かれ、夏はその板の間のひんやりとした冷たさが心地よかった。縁側というものはたいてい日当たりのよい方角にあるものだが、この家の縁側は北側にあるので、昼間でも薄く墨を溶いたような暗い様子で、その感じがなぜか昔から落ち着くのだった。

 押し入れや公園の土管の中が落ち着くのと同じ感覚だったのかもしれない。


 しばらくすると、子どもたちがおじいちゃんを連れて、外へ花火をしに行く気配がした。そしてテレビをつけたまま、外へと出て行った。

 子どもたちのはしゃぐ声が、まるで余韻のように居間の中に残っている感じがした。

 彼はビールを一口飲んだ。外から、涼しい風が入り込んできた。

 夏のこの時間帯、少年の頃の夏の様々な思い出が、透き通った湧き水のようによみがえってくる。そしてなぜか、そのほとんどすべてが心地よい思い出なのが不思議だったが、同時にまた、そのほとんどが子供の頃、おおよそ中学生時代の頃までの思い出であるのが、なんだか少し悲しくもあったのである。


 再び少し強めの風が吹込み、小説のページがぺらりとめくれた。額の汗がわずかに蒸発する。

 彼は、少し生温くなったビールをもう一口飲んだ。

 と、そのとき、ふと視界の隅に、何か揺らめくようなものがよぎった。

 見ると、庭先に一匹の猫がいた。まだ若い猫で、少し警戒の光を目に宿らせながら、じっと彼の方を見つめていた。

 敷石の端に、ちょうど頭と体半分を月明かりのもとに出し、半分は暗い陰に入っている。

 その猫の模様はキジトラという柄で、日本では比較的多い種類の猫らしい。きれいな毛並みで、端正な顔をしてはいるが、おそらくは野良猫だろう。そしてその瞳には、警戒心とともに、何かしらの期待感のようなものを含んでいた。


 表の通りからは、花火をする子どもたちの無邪気なはしゃぎ声が聞こえてくる。

 つけっぱなしのテレビからは、相変わらず野球中継が続いている。

 そんな、どこにでもある夏の夜だった。


 猫はじっと彼を見ていた。

 彼は、ビールを一口飲むと、その猫に向かって舌をとならしてみた。

 すると、猫はピンと耳を立て、つかの間左右を見回したあと、少しだけこちらに寄ってきた。尻尾をまっすぐに立てながら、二三歩。窓際に近づき、敷石の上に音もなく座った。

 体全体が月明かりの中に入り、その体の下に淡い影を作っている。

 そしてその猫は、小さくひとつ、にゃおと鳴いた。

 とび色の瞳がとても美しかった。


 彼は、台所から牛乳を皿に入れて持ってきた。

 猫は敷石の上でじっと待っていたが、網戸を少し開けると、警戒して二三歩影の方まで後ずさった。

 しかし、牛乳の入った皿を敷石の上に置くと、怯えるように身を縮こませながらも、ゆっくりと鼻先を皿の方へ近づけてきたのだった。


   # # #


 彼は法学部の学生だった。

 大学では、適当に授業に出席し、それ以外ではひとりで本を読んだり、友人とビールばかりを飲んで過ごしていた。

 同回生の多くは、女の子にもてるのが目的で、スポーツ系のサークルに入って肌を小麦色に染めることに懸命になっていたし、演劇論を熱く闘わせている演劇部の学生などを見ると、何か自分とは別の人種のように彼は感じた。

 同じゼミに、もみあげと髭がきれいにつながった双子がいた。彼らは宅建の資格を取るために熱心にダブルスクールに通っていた。双子は、彼に対して何故か敵意さえ抱くことがあるようだった。

 学食で彼らとコーヒーを飲んでいたとき(双子はたいていセットで行動していた)、突然彼らは、もみあげと髭の境目らしきところを激しく揺らしながら、

「正直俺たちは、お前のことがうらやましいよ!」

 と言い捨てて去っていったことがあった。

 自分のどこがうらやましいのか、正直彼にはまるで分らなかった。

 ただ、自分にはどこかあの双子をいらだたせる何かがあったのだろう、とだけ思ったのだった。

 

 大学ではあまり人と交わることのなかった彼だが、文芸サークルだけが人とつながることのできる唯一の窓のような存在だった。

 文芸サークルには、ひとり妙に猫に詳しい女の子がいた。彼女はショーとヘアーがとてもよく似合う、まつ毛の長い女の子だ。

 彼女と話すときは、たいてい彼女ひとりが話していた。そして、話題はたいてい、猫のことだった。

 キジトラという猫の柄のことを教えてくれたのも彼女だった。

 「たいていの野良猫は、夜の七時から八時の間には猫の集会に行ってるんだけど、知ってた?」

 彼女は言った。

 「知らない。」と彼。

 「猫たちは何を思って集まるんだろう?」

 「何も思っていないよ。」と、彼女。

 「お年寄りって、毎晩夜中になると勝手に目が覚めるじゃない。それとおんなじで、猫たちも、時間が来ると自動的に集会に向かうことになってるの。」

 「自動的になんだね?」

 「そう。自動的に、無意識的に…」

 「うん。」

 「そこではいろんなことを決めてるんだ。」

 「たとえばどんな?」

 「そうだね、猫たちはいつもとても重要なことを決めているんだ。たとえば、彼らの仕事には、地球の夜と昼を入れ替えるという仕事がある。昼と夜とを入れ替えるには、誰かが地球を回転させるボタンを押さなければならない。その誰かを猫たちが毎晩集まって決めてるんだ。」

 彼女は少し間をあけて、彼の顔をじっと見つめた。

 「彼らがいないと、夜のブダペストはいつまでたっても夜のままだし、昼のヘルシンキはいつまでたっても昼のままなの。わかるでしよ。誰かがやらないといけない仕事を、猫たちは引き受けているわけ。」

 「しかも無意識に。」

 「そう、無意識に。」

 彼女はとてもユニークで、そしてとても魅力的だった。


   # # #


 彼は再び小説を読み始めた。トーマス・マンの「トニオ・クレエゲル」、手のひらで隠れてしまうくらい小さな文庫本だった。何度も読み返すうちに表紙はかなりくたびれていた。

 小説を読みながら、時々敷石の上の猫を見やる。猫は、肩を少し盛り上がらせながら牛乳をなめている。

 しばらくすると、猫は牛乳を飲むのをやめ、上目遣いに彼の方を見上げ、再びか細い声で鳴いた。月明かりの下で色を変えるその瞳は、彼に何かを望むような、そして時には狡猾な色さえ宿らせるような気がした。

 その瞳に、彼の心は微妙にかき乱された。

 彼はなんとなく居心地の悪さを覚え、ビールを口に流し込んだ。もう気が抜けていて、すっかりぬるくなってしまっていた。

 

 外では、子供たちの花火をするはしゃいだ声、そして父のうれしそうな声が、どこか懐かしい思い出のように響いている。

 台所では、母と二人の姉が話し続けていた。まるで、深夜のラジオ放送のように。

 そして、妹の方は泣いているようだった。

 

 彼は、猫を横目に小説に視線を落とす。

 猫はいずれ、水たまりのような影だけを残して、自分の前を去っていくだろう。猫のいる世界と猫のいなくなった世界、そこには何か決定的な違いがあるように彼は感じた。

 

 彼は、ごろりと仰向けに寝転び、何かを求めるように空を見上げた。 

 夏の夜空に、白い月が浮かんでいた。


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