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9話『ヘラⅢ』

 魔王がその莫大な権力を発揮したことで、騎士の警備体制には一部穴が存在した。

 ヘラ=アストラノースは、その穴に潜み、標的を殺すことだけを考えていた。

 仮面舞踏会は、街の住人のみならず、外部の来賓も多数招かれる。普段の日常では見ることのない人混みだが、隠密行動において、それは非常に好ましい環境だった。


 役者は既に揃っている。

 アヌビス=ウォリアッシェンは、立食エリアで料理の品定めを行っていた。隣に立つ男女と声を掛け合い、料理の味を褒め合っている。アヌビスが舞踏会の際、いつもタッパーに料理を詰めて持ち帰ることは、ヘラも知っている。しかし、今回はその素振りを見せなかった。流石に、人並みの恥は覚えるようになったか。

 残念なことに、その学習が今後活きることはないが。


 アヌビスの状況を確認したヘラは、次に少し離れたところにいる、ウェイグ=ナハーグナの方にも目を向けた。そこに佇むのは、一人の絶世の美女だが、偵察隊の報告によれば、あれはウェイグの変装らしい。正直、誤報を疑った。

 幸い二人は行動を別にしている。ウェイグと交戦することはないだろう。


 問題のリンメル=アスタルテだけは、未だ姿を現さない。

 ヘラは今、作戦遂行の機会を狙うと同時に、リンメルの姿も探していた。酒場で聞いた話によれば、ウェイグは今夜、リンメルと邂逅する。待ち合わせの場所も時間も、この場この時で間違いない筈だ。だが、リンメルの姿は一向に現れなかった。

 最も、姿を現さないのであれば僥倖だ。元より彼の擬態魔法を破る術はない。下手に存在の可能性だけ示唆されても、対応できないのが現実である。ともすれば、ヘラが行うべきは、リンメルという危険因子を踏まえた上で、何時も通りのパフォーマンスを実現してみせること。この時に限って言えば、リンメルは自然災害に等しい存在だ。


 リンメルはいない。現れたところで、どうすることもできない。

 だから、ヘラの視線は最重要人物であるアヌビスにのみ、注がれることになった。

 そうして、殺意を研ぎ澄ませた頃。

 遂に――機会が訪れた。


 アヌビスがテーブル上の料理を頬張り、満足そうな笑みを浮かべている。その姿を常に監視し続けていたヘラの耳に、何かの割れる音が届いた。

 グラスの割れる音だ。小気味よい音は会場に響き渡り、多くの視線を引き寄せる。

 アヌビスもまた、思わず音のした方へと振り返った。


(――今ッ)


 この瞬間、ヘラは疾駆した。

 闇に潜む小柄な体躯を、一瞬だけ表舞台に走らせる。地面を這うように、細かく床を叩きながら、彼女は一直線に標的目掛けて駆けた。

 五十メートル。十メートル。五メートル。

 距離が近づくに連れて、ヘラの殺意は限界まで高められる。


「アヌビス」


 え――、と、標的から、息を呑む気配がした。

 満天の星空の麓、昏い刃が翻る。

 ヘラは、鮮やかな一閃で、アヌビスの首を切断した。次いで、背後から心臓を一突きにする。仰ぎ見れば、アヌビスの不思議そうな瞳が、こちらを見下ろしていた。

 目を伏せて、ヘラはその場を駆け抜ける。


「声は、掛けたわよ」


 確かな手応えと共に、ヘラは――最後に一言、告げた。

 首元から血飛沫を上げて、アヌビスの身体は倒れ伏す。

 言葉にならない悲鳴が、会場を震わした。舞踏会の最中、一人の魔族が死んだ。これは偽りではない。やがて誰もが、現実を無視できなくなるだろう。

 戸惑う人々の影に隠れ、ヘラは手慣れた動作で会場を抜けた。



 ◆



 どれだけ歩いても、足を進めている実感はなかった。

 まるで、何者かに操られているかのようだ。身体の至るところから糸が伸びて、頭上には自分の操者がいるのではないかと考える。その事実は――正しいのだろう。

 自分は魔王サタンの人形だ。きっと、これからも、ずっと。


 狭い路地を抜ける。肩をぶつけた。痛みはない。

 大きな何かが抜け落ちたこの身体は、最早、人の形を保っただけの肉だった。

 だが、それでも、脳だけは目まぐるしく回転する。

 たったひとつの光景を、何度も何度も繰り返し投影する。


 アヌビスが死んだ。

 あまりに、呆気なかった。あの男は、かつては四天王と呼ばれ、その圧倒的な実力を幾度と無く発揮してきた存在だ。それが、ほんの一瞬で、息絶えた。

 アヌビスの命は、こんなにも軽かったのか――。

 そんなことはない。

 そうであれば、こんなにも苦しいとは思わない。


「……ぐ、っ」


 会場を抜けて、少し歩けば、そこにはもう賑わいはなかった。遠くから聞こえてくる喧騒は、幾重もの風と、物音によって、狂気じみた音色を奏でていた。

 任務達成。魔王サタンの、残虐な笑みがヘラの脳裏に浮かぶ。

 これで終わりだ。魔王サタンの汚点は、たった今、潰えた。

 自分の長きに渡る任務も漸く終わりを迎えた。

 四天王は、一人減った。


「う、うぅ……っ!」


 路地裏に足を踏み入れた途端、自分の中の何かが決壊した。

 腕に感触が残っている。あの男を殺した時の感触だ。首筋を横一文字に切断し、心の臓を一突きにした時の、生々しい感触が、呪縛のように纏わり付いている。

 アヌビスという生命を、終わらせたのだ。

 元四天王の。戦友の。大切な、存在を――この手で。


「あぁ、あぁぁ、あぁぁぁぁぁぁ――ッ!!!!」


 止めどなく涙が溢れ出す。声を荒げて、泣きじゃくる。

 心がぐちゃぐちゃだ。屑に等しい脳味噌が、壊れた投影機のようにう、何度も過去の日々を映し出す。だが、それはもう二度と再現されない。失ってしまった。ヘラ=アストラノースは、アヌビス=ウォリアッシェンのことを、大切だと思っていた。

 自分に"我意"がないことくらい、自覚している。

 それでも、今まではどうにかなった。

 だが、もう駄目だ。今になって、ツケが回ってきた。

 ずっと見て見ぬふりをしてきた「自分」が、今、反旗を翻す。


 辛い。苦しい。どうして自分が、こんな目に――。

 そんな思考を無理矢理止める。何を被害者ぶっているのか。その言葉を口にしていいのは、アヌビスだけだ。自分は加害者だ。裁かれるべき存在なのだ。


 涙を拭いたその時、床に落ちた刃が見えた。

 アヌビスを殺した凶器だ。その鮮やかな刀身には、自分の醜い顔が映っている。


 裁かれるべきは、自分だ。

 決して、救われてはならない。四天王という繋がりを、断ってしまった罰を、受けねばならない。頬を伝う涙が刃に垂れる。ここがお前の終着点だと、罪の意識が囁く。

 刃を自分の首に向けた。柄を握るこの腕は、微塵も揺れていない。

 人の首を切り落とす鍛錬は積んできた。この首も、きっと簡単に落とせる。

 そう――アヌビスのように。


「……あ、ぁぁ………………」


 愚鈍な脳味噌が、ほんの少し前の記録をヘラに見せる。

 こちらへ振り向くアヌビスの姿。軽やかに、首の端から端へと滑る刃。肉と骨を断ち切り、皮膚を裂いて、刃が抜ける。薄っすらと首筋に浮かぶ、赤い線。そこから鮮血が飛び散るよりも先に、この手は心臓を突いていた。

 どうした――と、ヘラは自問する。

 何故、この腕は動かない。


 腕が動かない。首に添えられた刃が、カタカタと揺れていた。

 人の首を切り落とす鍛錬は積んできた。だから、アヌビスの首は、驚くほどあっさりと斬ることができた。それでも、自分の首だけは何故か斬れない。アヌビスの命を奪っておきながら、この腕は、自分の首の方が大切であると訴えかけている。


 重たい。自分の首が、とても重たい。

 刃が通らない。皮膚に切り込みを入れても、必ず逸れてしまう。何度も何度も、一思いに殺そうとしても、どうしても上手く切り落とせない。アヌビスの首は、簡単に斬って見せたのに――アヌビスは、あんなにも、簡単に殺せたのに。

 どうして。どうして。何故――?

 自分の首の方が、重たいと感じてしまう――。


「私は――――――――――――――卑怯者だ」


 刃が、手元から離れた。

 なんて、自分は弱いのだろう。大切な友人は簡単に殺してみせるくせに、自分の命を断つことはできない。なんて、なんて、醜い卑怯者だ。


 ポツポツと、雨が降り注いだ。

 枯れ果てた涙の代わりに、次は天が嘆き苦しむ。たったひとつの、残虐な意思によって、舞踏会は踏み躙られてしまった。下手人は、他ならぬ自分である。

 薄皮を剥がれ、ヘラの首筋からは血液が垂れていた。降り注ぐ雨がそれを洗い流す。


 罪深いこの身体は、遂には生き長らえるつもりだ。

 だが、この先。自分はどうやって、生きていくのだろう。

 また魔王サタンの言いなりになるのか。"我意"のない自分は、彼女の命令に背くことができない。頼りにしていた――そう、今まで自分を助けてくれたアヌビスは、もうこの世のどこにもいないのだ。魔王サタンの元から、離れなくてはならない。


 摩耗した心が、癒やしを求める。

 ヘラ=アストラノースの内側から、これまで隠し続けていた弱さが溢れ出す。


「誰か……誰か……………………」


 あぁ、誰か。誰でもいい。

 どうか、こんな自分を――。


「たす、け、て――――――――――――」


 こんなにも醜い自分を、誰か、救ってくれ。

 もう駄目なのだ。もう無理なのだ。これ以上は、自分ではどうすることもできない。裁かれるべきは自分だ。けれど、自分で自分を裁くことはできなかった。

 なら、もう、助けを求めるしかないじゃないか。


 雨粒が地面を叩き続ける。

 霞んだ視界の中、このまま倒れ伏してしまおうか、なんて考えが過る。

 その時、唐突に雨が止んだ。


「あの、大丈夫ですか?」


 薄闇に包まれた夜、降り注ぐ雨粒を円形の影が防いだ。悲しみに暮れ、顔を伏せていたヘラが、ゆっくりと頭を持ち上げる。そこには、一人の青年がいた。

 青年がこちらを見下ろしている。悪意のない、純粋に不思議そうな瞳で。

 その瞳が、アヌビスの、死ぬ間際に見せた瞳と重なった。


「傘ささないと、濡れますよ?」

「あ、ぁ……」


 青年は、自分の身体が濡れることを厭わず、ヘラに傘を差し出していた。

 誰だろう。この男は。見ず知らずの、赤の他人である筈だ。


「その傷――あなた、怪我してるんですかっ!?」


 振り向いたヘラの首元を見て、青年が驚愕する。幾重にも連なる切り傷だ。ヘラが自ら付けたものだが、青年はそれを知らない。足元に転がる凶器は、見えていなかった。

 青年は傘をヘラの傍に置き、慌てた様子で周囲を見渡す。

 ヘラは、彼が何をしているのか、サッパリ理解できなかった。


「止血しないと……あぁ、でも、どうすれば。まずは、場所を変えた方が良いかな。……ごめん! ちょっと、肩を貸して!」


 青年は、ヘラの肩を担いで、無理矢理立たせる。傘が地面に落ちた。一瞬だけ青年は足を止めたが、すぐに傘を放棄することに決めた。その瞳は、路地の先を見ている。

 必死な形相で、青年はヘラを外へ運び出そうとしていた。

 泣いて、赤く腫らしたヘラの眼が、そんな青年を見据える。

 この青年は、まさか、自分を――助けるつもりなのか。


「助けて、くれるの……?」

「えっ?」

「こんな……こんな、私を……あなたは、助けてくれるの……?」


 戦友たちによって矯正された口調が、気がつけば綻んでいた。

 ヘラは訊く。その問いには、本人ですら分からない程の、ありとあらゆる真意が綯い交ぜになっていた。ヘラにとって、その問いは重く、大切なモノだ。

 だが、青年は足を止めることなく、平然とした様子で応えてみせた。


「なんだか良く分からないけど、困ってるんですよね? ――だったら、助けます」


 青年は軽くヘラの様態を確かめ、再び路地裏の外へと足を向けた。

 この男は、既に「ヘラを助ける」と決めていた。華奢で、優男のような容姿だが、腕は以外にも逞しい。双眸に宿る感情は、正義。これのみだ。彼は真剣だった。肩を担がれて運ばれるヘラは、自身の涙腺が再び緩んでいることに気づく。

 委ねても良いのだろうか。この、確かな温もりに……。


「あな、たは……」

「僕ですか?」


 抜け落ちていく。かつての日々が。積み上げてきた日常が。

 四天王としての自分が、足元から崩れ落ちる。

 頼りない「本当の自分」に対し、その青年は、笑って応えた。


「僕は、ハルキス。――ハルキス=ペイリスタです」








次回、最終話。

色々と真相が明らかになる回です。

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