8話『リンメルⅡ』
仮面舞踏会が始まった。
子供が家に帰り、家族の団欒の時を過ごす夜。その日ばかりは、大きな賑わいが街中に響いていた。人でごった返す街の光景に、リンメル=アスタルテは絶句する。この街に、これだけの人が暮らしていることを、初めて実感した。
右も左も変装だらけだ。しかし、擬態魔法の使い手であるリンメルは、その全てを看破することができる。いや、できてしまう。見るだけで偽りを解いてしまうその賢い瞳は、舞踏会の醍醐味を失わせていた。罪悪感から、少し目を伏せる。
さて、そろそろだ。
事前にアヌビスと取り決めた集合場所に、到着する。まだ早い。待ち人が来るのはもう少しだ。リンメルは傍にあったテーブルから、酒の入ったグラスを手に取った。炭酸が喉を通り、胃に落ちる。庶民向けの味だ。四天王時代、高価な美酒を自由に飲むことのできたリンメルにとって、その味は別段驚くものではない。けれど、どこか落ち着きを取り戻せる味だった。全身を支配していた緊張が、僅かに退く。
少し、リラックスできた。
そう思っているのは彼女だけだった。
傍から見れば、その女性は少し奇妙だった。
なにせ、威圧感が凄い。誰を待っているのかは不明だが、その誰かを殺すつもりではないだろうか、と辺りの者が考えてしまうくらい、リンメルは圧力を発していた。誰かと待ち合わせる淑女というよりも、親の敵を待ち伏せしているような覇気である。
自然と、リンメルの周囲には人が寄り付かなくなってしまう。
緊張して頭が真っ白になっている彼女は、全く気づいていなかった。
(大丈夫、ですよね。変な格好してませんよね……)
長髪を腰辺りで揺らす、自身の姿を見て、リンメルは懸念した。
変装は一切していない。多少、化粧などは施しているが、リンメルは姿を全く偽っていない。だが、リンメルにとっては素の自分でも、大多数の者にとっては、この姿こそが変装なのだ。リンメル=アスタルテはこの日、変装を解く決意を抱いた。
この姿を見て、ウェイグはどう思うだろうか。自分は女だ。まずはこれを伝えねばならない。だが、それを聞いて、果たして彼は受け入れてくれるだろうか。本題は、その先にあると言うのに。今日は伝えることが、あまりに多すぎる。
これも偏に、"勇気"を持たない自分が悪い。
もっと早くから、伝えていれば――後悔したところで、もう遅い。
(……しかし)
それを言うならば――あの男だって、同じではないだろうか。
アヌビス。そう、アヌビスだ。
奴はホモだったのだ。
人のことを言える立場ではないが、アヌビスも中々、大きな秘密を隠し持っていたらしい。だが、思い返してみれば、確かにその可能性を仄めかすこともあった。
偶に、リンメルは自分に絡みつく視線を感じていた。
振り返ったところで、そこにいるのは四天王の仲間のみ。多少の迷惑こそあったかもしれないが、そこまで執念を感じさせるような視線に晒される覚えはない。全ては気のせいだと割りきっていたが、まさか、その正体がアヌビスだったとは。
実に嫌らしい。あれを、異性として見ている視線ならまだしも、同性として見ているものだと考えれば、些か抵抗がある。残念なことに、リンメルの性癖は普通だ。
アヌビスに対するイメージが、色々と崩れてくる。
そう言えば、ウェイグはどうなのだろう。リンメルは、絡みつく視線を何度も感じたことがあった。なら、自分以上にアヌビスの傍にいたウェイグはどうだ。
(……あ、れ?)
震えた唇が、不安に満ちた声色を漏らす。
ちょっと待てよ。アヌビスが、男色であるという前提を踏まえて、もう一度、過去の日々を思い出す。アヌビスとウェイグは親友と言っても過言ではないくらい、行動を共にしていた。よく二人で散歩していたし、よく買い物にも行っていた。
二人は、かなり仲が良い。
それって、どうなんだ。
(ま、ま、まさか……)
わなわなと、リンメルが震える。グラスの中で、水面が波打った。
待って。待ってください。いくらなんでも、そんなことは、と頭が否定しても、リンメルの妄想は止まらない。ウェイグと仲が良かったアヌビスの笑顔が、鮮明に浮かぶ。
まさか、まさか――アヌビスは、恋敵なのか?
「んーっと、確か……この辺だったような」
その時、聞き覚えのある声が、リンメルの耳に届いた。
懐かしい。だが、忘れたことはない。無邪気で、太陽のように明るい声音。
「ウェ、ウェイ――――グ、ゥ?」
思わず、奇妙な声を出してしまった。
仕方ない。なにせ、待ち人と思って振り向いてみれば、そこに立っていたのは絶世の美女だったのだから。女であるリンメルも、思わず魅了されてしまう程の美貌である。
だが、その正体は紛れも無くウェイグだった。擬態魔法の使い手であるリンメルはすぐに見抜く。最も、どうして女装しているのか、その理由までは見抜けない。
これなら、アヌビスも惚れる筈だ。
まさか、ウェイグに女装の才能があったとは。しかも、擬態魔法もそれほど使っていない。ウィッグとおしろいだけで、見事に変装している。殆ど素の状態だ。……きっと、アヌビスはウェイグに、何度もこの格好を強いたのだろう。許せない。
貴婦人の衣服を身に纏い、堂々とした立ち振る舞いでウェイグは通り過ぎる。
誰かを探している様子だ。その相手は、間違いなく自分だろう。このまま見逃すわけにはいかない。予期せぬ事態だが、リンメルは小さな唇を、懸命に動かした。
「あ、あの!」
「ん、俺か?」
「は、はい!」
上ずった声で、リンメルは言う。
ウェイグはやや困ったように視線を外した。
「んー、今、ちょっと人探してるんだけど……まだ少し早いし、大丈夫か」
リンメルの頭は真っ白だ。顔を可愛らしく真っ赤にして、口を開く。
「その、ええと、ウ、ウェイグですよね……?」
「あー……ははは、やっぱりバレバレだよな。アヌビスは完璧って言ってたけど、流石に女装は無理があったか。そうそう。ウェイグであってるぜ」
アヌビスの名が出てきたことで、リンメルは一層、焦燥を浮かべた。
二人は一体、どういう関係なんだ。――今、リンメルの中で、アヌビスの存在が明確に恋敵として認識された。昨日の敵は今日の友ということもあれば、その逆もまた然り。やっぱり二人は、既に結ばれているのではないか、といった不安が過る。
いや、大丈夫だ。
実に腹立たしいことだが、ウェイグは女にモテる。態々、そっちの道に走る理由がない。落ち着け、ウェイグはノーマルだ。リンメルは何度も自分に言い聞かせた。
「それで、何か用か?」
「ひゃいっ!」
駄目だ全然落ち着けない。
しかし、もう引くに引けない。リンメルは、畳み掛けた。
「あ、あのっ! あのあのあの! 実は、ええと、あなたに言いたいことがあって!」
「ほぅ」
ウェイグが関心を向けてくる。それが分かる。
一度開いた口は、それでもまだ、重量を持っていた。震えてうまく語れない。ウェイグの顔を直視できない。ただでさえ欠けている"勇気"は、ここにきて、最大の言い訳にもなる。今言えなくても、いつか言えるのではないか。他の形があるのではないか。何故自分は、こんなに苦しい想いをしているのだろう。いっそ、逃げてしまいたい。
それでも――退けない。
リンメルは、知ったのだ。
自分には、恋敵がいる。
「……ずっと。ずっと、ずっと、あなたのことを、お慕い申しておりました! わ、わたひ、私と! つ、付き合って、下ひゃいっ!」
何度も噛んだ。無様に頭を下げた。けれど、リンメルは真剣だった。
外聞なんて気にしていない。今ばかりは、自分と、ウェイグ。それ以外の全てを切り捨てる。リンメルに、ウェイグ以外を考える余裕はなかった。
「んー……そうか。そっか」
頭を下げ続けるリンメルに対し、ウェイグは指で頬を掻いた。リンメルからは見えないが、ウェイグの表情は、どこか困ったような……しかし、嬉しそうなモノだった。
「珍しいな」
ウェイグが、笑みを浮かべなから言った。
その様子にリンメルも顔を上げる。
「初めてだ。俺に、真っ直ぐ好意をぶつけて来た女は。今までは、俺が四天王だったこともあって、皆遠巻きに見ているだけだった。手紙とかも、一応、受け取ったりはしたけどよ……俺は馬鹿だから。そういう遠回りなのって、よくわかんねぇんだ」
後ろ髪を掻きながら、ウェイグは続けた。
「でも、お前は違う。お前は、俺に、真っ直ぐ想いを伝えてくれた。……馬鹿な俺でも、はっきり伝わったよ。――ありがとな。すげぇ嬉しい」
満面の笑みだった。リンメルにとっては、この世のどんな宝石よりも価値がある。
顔を上げたリンメルが、それはもう幸せそうな笑みを浮かべた。敬虔な信徒が、神の御業を目の当たりにしたかのように。ウェイグに対し、熱い視線を注ぐ。
「だからこそ、俺も、本気で答えようと思う」
ウェイグが口を開いた。
リンメルは耳を澄ませた。
喧騒が遠退く。二人の間を、静寂が包む。満点の星空が、祝宴を見守っていた。
冷たい風が頬を撫でる。捲れ上がる前髪の合間から、リンメルは、ウェイグの真摯な双眸を見据えた。どちらかの靴裏が、小さく床を踏み締める。
そして、ウェイグが――言った。
「ごめん。俺、ホモなんだ」
その後の記憶は、あまりない。
数秒か。数分か。或いは数十分か。リンメルは立ったまま、気を失っていた。気を失う直前、リンメルが最後に記録した光景は、申し訳無さそうに表情を歪ませるウェイグの姿だ。彼は自分を振った後、「おかしいな、どこにいるんだ、リンメル……」と、訳の分からないことを呟きながら、自分の元を去って行った。
「は、はは、ははは、は……………………」
リンメルが、この世の終わりを見たような目で、渇いた笑いを発す。
振られた。振られた。ウェイグ=ナハーグナに、はっきりと振られた――。
淡い恋心が、ガラガラと崩れ落ちる。心に大きな穴が空いてしまった。優しく、暖かい灯火が、突如訪れた強風に晒され、瞬く間に消えてしまった。
絶望の縁で、リンメルは、全てを理解した。
アヌビスはホモだ。しかし、ウェイグもホモだった。だが、二人は最初からそういう性癖を持っていたのか? ――否。アヌビスが、ウェイグを射止めたのだ。
ウェイグは、とっくに、アヌビスに骨抜きにされていたのだ。
最悪だ。どうやら自分の恋は、横恋慕だったらしい。
アヌビスは本当に性格が悪い。何故、それを教えてくれなかったのか。
いや、自分もまた、ウェイグに対する感情を誰にも打ち明けなかったのだ。アヌビスに非があるわけではない。だが、理性は分かっていても、感情が許されない。
――負けた。
――アヌビスに、負けた。
リンメルの身体から力が抜けた。
膝から崩れ落ち、テーブルに思いっきり、額をぶつける。相当痛い。だが、心の方がもっと痛い。程なくして、リンメルの双眸からは、大粒の涙が溢れだした。
指で挟んでいたグラスが、衝撃で落下する。
ガラス製のそれは、誰かに受け取られることもなく、あっさりと割れた。その音は儚く、小さかったが、人の注意を引き付けやすい音だ。パリン、と、リンメルの心のように砕け散ったグラスの破片は、彼女の足元で弱々しく転がる。
舞踏会に興じる人々の意識が、一瞬だけ、引き寄せられたその時――。
闇に潜んだひとつの影が、牙を剥いて疾駆した。