10話『アヌビスⅢ』
その日――アヌビス=ウォリアッシェンは、多忙だった。
朝は魔王城でガイド。本来ならば、バイトはもう少し続く筈だったが、心ない一般市民の要望によって、予期せぬ暇ができてしまった。日銭を稼ぐことに全力を注いでいるここ最近のアヌビスにとって、それは中々の痛手である。
最も、実際のところ、このような前例は多々あった。
舞踏会で、この日は外からも多くの人が招かれている。母数が増えれば、その例も増えるのは当然だ。だからアヌビスは、予め、こうなることを予測していた。
空いた時間をどう潰すか。それについても検討していたが、生憎、その計画は無駄になった。かつての戦友であるウェイグが、アヌビスを酒場に誘ったからだ。
「そうか……俺は別に、アヌビスでもいいんだけどな」
「止めろよ。僕、こう見えても意中の人くらいはいるんだから」
「え、マジで!?」
下らない会話をしたと思う。
だが、嘘は言っていない。ウェイグは親友だ。偽ることなく、アヌビスは下らない会話に現を抜かした。とは言え、流石に酒を飲み交わすことはなかった。
今日、酒は駄目だ。問題ないと思うが、万が一も有り得る。
「なんつーか、意外だな。アヌビスって、そういうの興味ないと思ってたから」
「あるよ。少なくとも人並みには」
「そうは見えないけどな。……で、どんな奴なんだ?」
「なんでウェイグに教えないといけないのさ」
「いいだろ。そういう話してんだから」
「まぁ、いいけどさ。そうだな……強いて言うなら、身近な人かな」
そう。身近な人だ。
それは何も、関係だとか、性質だとか、そういった抽象的な意味のみならず。単純な物理的距離という意味でも、とても身近な存在だった。
隠密行動を得意としているとは思えない。
魔王も存外馬鹿だ。ミルクを噴き出す暗殺者がどこにいる。
「行くぞ、アヌビス!」
それから、アヌビスはウェイグの女装に付き合うことにした。通話によって、リンメルの存在を確認した直後だ。リンメルの声を聞いたのは久し振りだったが……実際のところ、リンメルがこの街に来ることくらい、知っていた。
基本的にリンメルは、どこか抜けている。
適当に、あの者と親しい人物に近づけば、それだけで情報は筒抜けだった。
四天王時代、無理矢理酒を飲ませては、色々と話を聞いた甲斐もあったものだ。
「アヌビス、どうだ? イケてるか?」
「あぁ、うん。イケてるんじゃないかな。ていうか、凄いね。完璧だよ。ウェイグって女装の才能あったんだ……うわぁ、なんかもう……引く」
「引くなよ。お前が着せたんだろうが」
「正体を知らない人にとっちゃ、多分、最高の見た目だよ。……おっと、ごめん。そろそろ僕は行かないと。ちょっと用事があるんだ」
「俺から離れたいだけじゃねぇだろうな」
「違う違う。本当に用事があるんだよ。……それじゃ、リンメルによろしく」
そう言って、アヌビスは途中、ウェイグと別れた。ウェイグの女装を手伝った件については割愛する。というか、これといって頭は悩ませていない。あの男は、元の素材が良いため、どんな道具を与えても見事に着こなしてみせた。
太陽が、少しずつ傾いている。
舞踏会まで、後数時間。
アヌビスはタイムリミットを考慮しつつ、意識を集中させた。
「ふむ。こっちかな」
城下町で、賑わいを見せる露店通り。
アヌビスは雑踏に紛れ、目的地へと足を進めた。目的地――目当ての人物は、移動を続けている。時折立ち止まることから、観光しているのだろう。舞踏会の参加者だ。
程なくして、アヌビスは目当ての人物を発見した。
瞬時にその人物の特徴を見極める。
膂力も胆力も普通。何か、一芸に秀でた振る舞いでもない。
普通の人間だ。
理想の人間だ。
「やぁ」
アヌビスは、その青年に声を掛けた。
青年は、アヌビスの姿を見て、明らかに狼狽えていた。
「え、ええと、あなたは?」
「君と同じ、アヌビスだよ」
「え?」
青年はアヌビスの変装をしていた。実に細かな造りだ。……それもそうだ。他ならぬアヌビス本人が作った変装道具なのだから。他の変装道具とはわけが違う。
この青年も、身に纏う変装道具が他と比べて特別であるということに気づいているのだろう。だから本物のアヌビスを見た時、少しだけ疑念を抱くも、すぐに悟った。
「ま、まさか、本物ですか?」
「うん。いやぁ、嬉しいな。僕に化けてくれる人がいるなんて」
「そんな――! ぼ、僕、あなたのファンなんです! お、お会いできて光栄です!」
これは珍しい。悲しい事実だが、アヌビスのファンは、他の四天王と比べると明らかに少ない。ウェイグやリンメルような美男子でもなければ、ヘラのような美少女の容姿を持っているわけでもないからだ。実力に関しては申し分ない筈だが、世の中の大多数が戦争に参加していない一般人。外見に比重が傾くのも仕方ない。
逆に言えば、アヌビスのファンは、例外を除けば殆どが容姿以外の理由を持つ。アヌビスが一目置かれると言えば、やはり錬金術しかないだろう。
「僕のファンか。それはやっぱり、錬金術に興味があって?」
「はい! その……実家が小さな工場を経営しているんですけど、あまり、うまくいってなくて。それで、錬金術を学んでいる最中に、アヌビス様のことを知りました」
「成る程。確かに錬金術は、そういう分野には持って来いだ。最近はあまり注目されないけどね。個人の力で、ある程度の大掛かりな製造が可能になる。それは長期的に見れば、産業機械と比べて効率性が劣っているかもしれないけれど、機材を購入するための前段階だったり、突発的な変化への対応には、錬金術の方が向いているだろうね。要は非常に融通の効く力だ。……経営を立て直すという目的にも、最適だと思うよ」
「あ……ありがとうございますっ!」
スラスラと答えてみせるアヌビスに、青年は大袈裟なまでの礼をした。
今時珍しいくらいの素直さだ。恐らく基礎の術くらいは習得しているのだろう。同じ錬金術士として、新しい芽が育つという事実は、頼もしいことこの上ない。
そうか。そろそろ、次の世代が芽吹く頃合いか――。
「名前は?」
「え?」
「君の名前だよ。……錬金術を本気で学ぶ人は、年々減少している。今の僕らに必要なのは、ひとつひとつの縁を大切にすることだ」
アヌビスがそう言って、青年が納得した様子を見せた。その瞳には、少し前よりも一層深い尊敬の念が込められている。そんな目で見られるのは、四天王以来だ。
懐から一枚の名刺を取り出し、青年はそれをアヌビスに渡した。
「ハルキス=ペイリスタです」
「アヌビスだ」
やや緊張しているのか。ハルキスの持つ名刺は、僅かに震えていた。アヌビスはそれを笑顔で受け取る。傍から見れば、二人のアヌビスが対峙している奇妙な光景だ。
話の接穂を失った。アヌビスとしても、用は済んだ。
どうせ最後だ。普段よりも軽くなった唇を開き、アヌビスは言う。
「それじゃあ、ハルキス君。錬金術の先輩として、ひとつ。アドバイスしておこう」
人差し指をピンと立てて、アヌビスは語り出した。
「多くの人が勘違いしているけれど、錬金術の本質は、効率化でも最適化でもない。一言で言えば、それは進化と変化だ。……確かに錬金術とは、読んで字のごとく『金を練る術』でもある。けれど、この学問の発祥は、金を創ることではななかった。その辺の石ころを、適当に混ぜただけなんだ。……つまり、金が生まれたのは、必然ではなく偶然なんだよ。錬金術は本来、行き当たりばったりの、不確実なものなんだ」
歴史書を読んでも、あまり明るみに出ない事実だった。
アヌビスは戦時、兵士の不足を補うために、錬金術で『ゴーレム』という術式を開発した。これが錬金術として一時期、脚光を浴びたが、厳密にはこの術式も、本質とは逸れた使い方をしている。アヌビスはただ、石の兵士を生み出すために、『ゴーレム』を使用した。本来の錬金術とは順序が真逆だ。錬金術は、目的ありきの力ではない。
錬金術は、術者の知的好奇心を満たすためだけの、利己的な力なのだ。
「効率化とか、最適化とかは、全て本来の錬金術の副産物だ。偶然という神秘に辿り着けなかった出来損ないの錬金術士が、苦し紛れに生み出した、新たな価値観だよ。それを学ぶことは否定しない。けれど、本質だけは、見失わないほうが良い。錬金術は、そこにあるナニかで、今までにない新たなナニかを生み出すことだ」
故に、進化と変化。
ハルキスがその二つの言葉を呟いたのを聞いて、アヌビスは機嫌を良くした。
いわば科学の実験だ。適当に要素を織り交ぜて、その行く末を見守る。すると、何かしらの変化が起きる。或いは、変化の範疇を飛び越えて、進化が生じる。
錬金術は、未知の領域へと手を伸ばす魔法だ。
世界を掘り起こす魔法である。
「以上。少し熱が入っちゃったな。……ま、そんなに複雑に考えることはないよ」
「あ、ありがとうございます! 貴重なお話を……ぼ、僕、頑張りますから!」
「その意気だ。頑張れ。応援してるよ」
アヌビスがその場を去る素振りを見せると、ハルキスは大きく頭を下げた。実家が工場を経営しているから、ハルキス自身も駆り出されているのだろうか。随分と様になった腰に折り方だ。もしも今が戦時中であれば、部下に欲しいところだ。
踵を返し、アヌビスは次の目的地へと向かう。
その途中で、ふと、思いついた。
「うーん……もうひと押し、しておくかな」
懐からスマートフォンを取り出し、アヌビスは巧みに操作する。どちらかと言えば四天王の中でも頭脳担当だ。複雑な道具の扱いには自信がある。
アドレス帳から、探し出した相手は――ヘラ=アストラノースだ。
『……アヌビス?』
「うん。久しぶりだね、ヘラ」
『何か、用?』
「用ってほどじゃないよ。ただ、最近声を聞いてなかったからね」
実際、用なんて何もない。強いて挙げるならば、こうして対話することが用件だ。
この小さな端末の向こう側で、今頃、彼女は何を思っているだろうか。自分の仲間思いな行動に、心打たれているのだろうか。だとしたら素直に嬉しい。
「さっきまで、ウェイグと一緒にいてさ。少し前には、リンメルとも話したんだ。覚えてるかな? 擬態魔法の使い手だよ。信じられないかもしれないけど、今夜、彼も舞踏会に参加するらしい。……久々に会話したけど、相変わらずだったよ。言葉は鋭かったけど、まだ自分に自信が足りないかな。……あぁ、でも、少しは成長したかも。……ヘラの声も聞けたし、これで四天王はコンプリートだ。随分と懐かしい気分だよ」
『……そ。良かったわね』
相変わらず、淡白な返しだ。これだけ長々と話したのに。
「ヘラは舞踏会、参加するの?」
『さぁね。まだ決めてないわ。……気分次第よ』
「そっか。一応、僕も顔を出してるから。見かけたら声を掛けてくれ」
『見かけたら、ね』
実際は声を掛けることもなく、無視されそうだが。あまり期待しないでおこう。
隣に立つ柱時計に、アヌビスは視線を注ぐ。気がつけば、もう夜が近い。既に街の住人は、舞踏会の会場へと足を運びつつあった。流動する人混みの中、アヌビスは端末を耳の傍に寄せる。空を仰ぎ見て、呟くように言った。
「そろそろ、舞踏会が始まるね」
『……ええ』
この時、ヘラが何を思ったのは、分からない。
だが、気のせいでなければ、ヘラの声音は酷く沈んでいた。誰もが楽しみにしている筈の――勿論、アヌビスですら楽しみにしている――舞踏会に、どのような不安を感じているのか。近くにいれば取り除けたかもしれないが、もう手遅れだ。
「今日は、お互い楽しもう」
せめて、互いに幸せな時を過ごせれば、と願う。
そんなアヌビスの健気な願望に反し、ヘラからは遂に返事すら途絶えてしまった。ブツリと電波の途切れる音を聞いて、アヌビスが溜息を吐きながら端末を仕舞う。
「つれないなぁ」
まぁ、いつものことだ。
仮面舞踏会は、もう目前まで来ている。のんびりと、観光がてら会場に向かっていた人々も、次第に駆け足になっていた。彼らの様子から、アヌビスも動き出す。
アヌビスは、舞踏会の会場ではなく、自身の暮らしている宿屋の方へと向かった。
「――さぁて、どうなるかな」
◆
宿屋に着いた頃、仮面舞踏会は既に始まっていた。
実際にその光景を目の当たりにしなくとも、街の灯りや、遠くから聞こえてくる喧騒から、簡単に発覚する。とは言え、始まってまだそこまで時間は経っていない。
記憶違いでなければ、丁度少し前くらいに、ウェイグとリンメルが再会を果たした筈だ。その結果は、ある程度予想がつく。どちらも傷つかなければ良いが。
無意識の内に湧き出る笑みを押し殺して、アヌビスは宿屋の門扉を開いた。
「おや、アヌビスさん。どうしたの、こんな時間に」
四十代。まだまだ活発な人間の女将が、アヌビスの登場に早々気づいた。街は舞踏会に興じているというのに、仕事熱心な方だ。アヌビスも、それなりに信頼している。
「舞踏会には参加しないの? 美味しい料理も出てるみたいだけど」
「参加しますよ。ただ先に、ちょっと荷物を取りに来ただけです」
「荷物?」
「ええ。僕宛に何か届いていませんか?」
「あー、あるよ。今日の昼間、届いたやつが……確か、この辺だったかな」
女将はそう言うと、カウンターの奥にある棚へ向かった。木製で、少し古めかしい棚には、幾つもの荷物が置かれている。その中から、ひとつの手提げ袋を取り出した。
「はい、これ」
渡された紙袋の中身を、アヌビスは確認する。
袋の中には、白い包装に包まれた長方形の箱があった。その白い包装の上から、更に薄い青色の帯が巻かれている。試しに触ってみて分かったが、その帯は布製ではなく金属製だった。軽量金属というものだ。厳重なラッピングをして欲しいと言ったが、リンメルはそれを忠実に実現してくれたらしい。良く見れば魔法も掛けられている。
「えらい別嬪さんが届けてくれたよ。もしかして、コレかい?」
女将が嫌らしい笑みと共に、小指を立てる。
アヌビスは渇いた笑みを浮かべつつ、首を横に振った。
「違いますよ」
「なんだい。つまんないねぇ」
「申し訳ありません」
アヌビスは苦笑した。
「ところで女将さん、ひとつお願いが」
「はいはい、なんだい?」
「実は、その届けに来てくれた人、僕の友人なんですけど……あんまり、目立つのが好きじゃないみたいなんです。だから、僕がこれを受け取ったことも含めて、なるべく彼女については、吹聴しないようにお願いします。特に、容姿に関しては」
「まぁ、あれだけ整っていれば、色んな噂も立ちそうね。……わかったわ。おばちゃん、口を硬く結んどく」
「ありがとうございます」
礼をして、アヌビスは踵を返す。
宿を出ると、アヌビスの重たい前髪を、夜風が持ち上げた。隠れていた薄昏い双眸が、その手に持つ紙袋を見据える。アヌビスは思わず、声を漏らた。
「全く。相変わらず、どこか抜けているなぁ。リンメルちゃんは」
ケタケタと、笑う。――嗤う。
もしも、魔王サタンと面識のある者が、今のアヌビスを見たら、間違いなくこう思うだろう。魔王サタンとそっくりだ。寸分違わず、あの『悪鬼の笑み』を浮かべている。
第一関門、突破。まずは必要なモノを手に入れた。
問題は第二関門。
これが難関だ。とは言え、現状、こちらからは何もできない。
次の目的地へと足を進めながら、アヌビスは気分転換がてら、二人の戦友を思い浮かべた。ウェイグとリンメルは、今頃、どうしているか。待ち合わせの時間から、数分が経過している。そろそろ会話も終わる頃だろう。両者の性格からして、多分傷つくのは片方だけだ。もう一方は恐らく、首を傾げながら無意味な時を過ごす。
まぁ、そんなことはどうでもいい。
そもそも今回、ウェイグには端から用がなかった。リンメルには、一応、用はあったものの、第一関門を突破――『勇者の心臓』を手にした時点で、用件は終えている。
後は付き合うなり、悲恋を嘆くなり、好きにすればいい。
アヌビスがそう思った――その時。
待ちに待った、合図が来た。
脳内に、微弱の電流が流れたような、不思議な感覚が生じる。
「へぇ。このタイミングで、来たんだ」
少し意外そうに、声を漏らした。
もう少し時間が掛かると思っていたが、これは思わぬ僥倖だ。まさか、そんな失敗は無いだろうが、今夜の戦いの最中、今の感覚が生じてしまい、手元が狂ってしまうことも有り得る。アヌビスは慎重だった。だから計画が実現すれば、大きな達成感を得る。
第二関門も突破した。最大の難関を、突破した。
唇で弧を描く。アヌビスの瞳は、汚泥の如く濁りきっていた。
「彼には、悪いことをしたなぁ」
アヌビス=ウォリアッシェンは、錬金術士である。
錬金術士とは、錬金術を用いて、様々な物を創り、改良する者の総称だ。アヌビスもその例に漏れない。自身の魔力を消費して、様々な道具を生み出すことができる。それは何も、単発の機能を満たすだけの道具のみならず、あらゆるアレンジが可能だった。
自動で侵入者を迎撃する石像。短い時間なら水の上でも走れる蹄鉄。延々と燃え続ける破城槌。戦時中、アヌビスが手掛けた道具の数々は、皆異なる場面で活躍を示している。特に武器や防具の類は、相当な数を製作した。製作した武具の中には、使用者が死んだ際、その報せが自動でアヌビスに届くような装備もあった。また、一度装着したら二度と外すことのできない、呪いのような装備も、創ったことがある。
ちなみに、これは完全に、どうでもいいことだが――。
錬金術で生み出した物には、その製作者の魔力が宿る。つまり、アヌビスが錬金術で製作した道具には、必ずアヌビスの魔力が宿されていた。
錬金術とて元は魔法。魔力が染み付くことは避けられない。
「東洋には錬金術が無いからね。……あの馬鹿は、戦争から何も学んでないな。相変わらずの脳筋だ。僕たちも、そのせいで何度も苦境に立たされたっけ」
その脳筋が、今回活かされることになろうとは。皮肉なことだ。
さて、山場は超えた。最後の第三関門は、ほぼ確実に乗り越えられるだろう。舞踏会の賑わいをバックに、アヌビスは己の"終着点"に到着する。
やはり、アヌビスとサタンは血筋だった。
魔王がアヌビスを殺すための拠点を秘密裏に構えていたように、アヌビスもまた、秘密裏に拠点を構えていた。魔王サタン=ウォリアッシェンは、戦争時の名残からその空間を『会議場』と。アヌビス=ウォリアッシェンは『実験場』と名づけている。
空間は共に地下。これもまた、同じ発想だ。
拠点造りが如何に重要か、双方理解していた。
集中できる作業場。これこそが、術者が最も欲する環境である。
石畳の道から逸れ、枝分かれする路地裏を、決まった順序で渡った。道に染み付いた術式が、アヌビスの足の形、歩幅、歩数、歩く順序などに反応する。
紫の燐光が亀裂のように地面を走り、地下への階段が現れた。
その先が、アヌビスの『実験場』だ。
四天王時代から、何度も足を運んでいた。実験場には幾つものオブジェクトが存在する。戦争時、魔王より下賜された戦士長の首や、魔物の目玉。更には個人的に収集した人間の手足や、切り取った脳など。ホルマリン漬けにして、丁重に保管されている。
慣れ親しんだ自分の部屋に帰って来て、アヌビスの心は安らいだ。
紙袋を下ろし、中に入っている箱を取り出す。金属製の帯を外して、包装を解き、更に現れる包装や紐を全て除いて、漸く目当ての代物を目にすることができた。
ハート型のチョコレートだった。
甘ったるい香りが密室に蔓延する。
アヌビスはそのチョコレートを前にして、眉一つ動かさない。人差し指で、チョコレートの中心を突く。すると、チョコレートが表面から溶け出した。
ドロドロと溶けたチョコレートの奥から、悍ましい何かが現れる。
赤色と桃色の間にあたる、生々しい臓器だった。塊からは数本の管が伸びており、中央に近ければ近いほど照りつけは良く、端であればあるほど、やや黒ずんでいる。
これぞ『勇者の心臓』だ。
今にも脈打ちそうな、鮮やかな肉塊を前にして、アヌビスは目を輝かせる。
溶けて、溢れ出したチョコレートの雫は、どこにも見当たらない。
リンメルの擬態魔法だ。本人はきっと、このグロテスクな物を、せめて可愛らしさでカバーしようと考えて、チョコレートの擬態を施したのだろう。返って不気味である。
それにしても、実に美しい。
瞳をキラキラと輝かせて、アヌビスは心臓に魅入った。やはり、リンメルは価値の分からない女だ。こんな物を簡単に人に渡すとは。その辺に飾っているだけで、心が豊かになる代物である。これに比べれば、アヌビスが今実験場に飾ってあるオブジェクトの数々なんて、屑も同然だ。それほどまでに、『勇者の心臓』は常軌を逸している。
「それじゃあ、始めようか」
堪え切れない笑みと共に、アヌビスが呟いた。
ホルマリンに満たされたカプセルが、コポコポと音を立てる。
「ああ、始めよう」
そこに――第三者の気配が混じった。
何者かが、高速で接近してくる。アヌビスはそれを、跳躍することで回避した。
身体を翻したアヌビスは、眼下で閃く刃を見た。鋼の刃は、アヌビスの真下を綺麗に横切った後、軌道修正しながら再びアヌビスの首に迫る。
直前。アヌビスは、傍にあった標本瓶を、盾にした。
瓶が割れて、中に入っていたホルマリンと、魔族の胃袋が飛び散る。その異臭と、悍ましい物体を目の当たりにして、襲撃者の動きは硬直した。
アヌビスは、その隙を突くこともなく、ただただ残念そうに口を開く。
「あーあ、勿体無い。それ、苦労して取り出したのに」
本当に残念そうに。――しかし、それ以外の感情を一切持たず、アヌビスは言った。
眼前で、一人の男が佇んでいる。男の瞳には迷いがない。寧ろ、今のアヌビスの発言を聞いて、更に強い殺意を灯していた。
「話に聞いていたが、なんとも悪趣味な……悪鬼め。ここで滅ぼしてくれる」
「開口一番に酷い物言いだ。まずは挨拶くらい、してみたらどうだい?」
「貴様に教える名など――無いッ!!」
男が低空を飛ぶように、飛来した。
床を踏み抜き、一歩でアヌビスの懐に潜り込む。速い。接近戦を得意としないアヌビスにとって、この速度は対応できる域を超えている。辛うじて、腕のみが上がった。
迫り来る刀身に、アヌビスが掌を翳す。
そして、魔力を流すが――。
「――無駄だ」
小気味よい切断音と共に、男の剣は振り下ろされた。
少し間隔を空けてから、パチャリ、と水音がする。
アヌビスの右腕が、切り落とされていた。
「今日この瞬間。貴様を殺すためだけに、万全の策を用意してきた。……錬金術は、完成した存在には効果を発揮しない。この剣は、名匠と謳われる鍛冶師が、気が遠くなる程の時を費やして生み出した逸品だ。錬金術が介入する余地はどこにもない」
「成る程。なかなか、研究してるじゃないか」
血を垂れ流しながら、アヌビスは応えた。
男の言う通り。錬金術は、完成したモノには効果を現さない。錬金術は、何かしらの変化の余地に干渉し、そこに様々な要素を付加させるものだ。余地自体が存在しなければ、錬金術ではどうすることもできない。進化の果て。変化の限界。そういった領域に到達したモノは、たとえアヌビスの腕前を持ってしても、対抗できなかった。
だが、それでも。アヌビスは余裕綽々な様子を崩さなかった。
「ヘラとは、また別方面で動いているのかな? サタンの部下なのは分かるけど、君はヘラと違って、ずっと僕をつけていたよね。決定的な場面を何度も目撃したのに、報告に行く素振りも見せなかった。……アレかな。別働隊って奴?」
「答える義理はない……が、気にくわんな。貴様、俺の存在に気づいていながら、今の今まで無視していたのか」
「うん。だって、どうにでもなるし」
正直な回答だった。それが襲撃者の闘志を燃やした。
挑発に乗ったか。いや、どのみち攻撃するつもりだったのだろう。安直な太刀筋に見えて、アヌビスを死線へ誘導する動きが幾つか混ぜられている。冷静だ。面倒臭い。
実験場に配置された机や、飾ってある標本瓶を利用して、アヌビスは上手く立ちまわる。どれだけ速くとも、障害物は無視できない。男は決定打を逃していた。
だが――それも、やがて終わりが訪れる。
「おっと」
アヌビスの首筋に、刃が掠った。薄っすらと血が垂れる。
確かに業物だ。切れ味が段違いである。ほんの僅かに、アヌビスの態勢か、或いは刃の軌道がズレていたら、この首と胴は分断されていただろう。
「元四天王アヌビス。貴様には、僅かながら同情する。理由も分からずに死ぬのは、さぞや辛いだろう。――だが、所詮は外道。せめて、一思いに殺してやる」
男が、剣を構えて告げる。
対して、アヌビスは少しだけ意外そうな顔をした。
「君、人間か」
「……何故、そう思う」
「魔族が戦っている最中に、同情を抱くことはない。僕たちは、君たちと違って戦闘特化の生物だからね。戦っている間は、余計な思考が出来ないんだ」
「成る程……魔族も、苦労しているようだな」
「そう言ってくれると、魔族も救われるよ。……君も相当苦労したんじゃないかな。魔王サタンにどう誑かされたかは知らないけど、戦争が終わってまだ数年だ。この短期間で、こんな重要な案件を任されるなんて、随分と優秀じゃないか」
「自分を誇示したいのか?」
「いや、事実を述べているだけだ。だって、僕を殺すことは、魔王サタンにとっては最重要の案件だろう? 勇者でもない、どこの誰とも知れない相手が産んだ、魔王の息子だ。……僕という存在は、今のこの世界の平和を、瓦解させなねない」
演説を振る舞うように、アヌビスはご機嫌な様子で言葉を紡ぐ。
刺客である人間の男は、そんなアヌビスの言葉を聞いて、僅かに驚愕した。
「知って、いたのか」
「まぁね」
男が動揺した。
次はアヌビスが、先に動く。
「――あんまり僕を舐めるなよ」
アヌビスが動く。ただの一歩だった。だが、その一歩に、男は背筋を凍らせる威圧感を覚えた。反射的に剣を振り上げる。男が感じた悪寒は的中した。しかし、飛来するソレを見極めず、反射で斬ってしまったのは、最大の失敗だった。
結果、アヌビスは――勝利を確信する。
「君は少し、不用心だね」
投げつけたガラス管を、男が斬り、中の液体が弾け散る。その液体を頭から被った男を前にして、アヌビスは窘めるような口調で語りかけた。
次いで、切り落とされていない左の腕を、前に突き出す。
「僕はこれでも、魔王の息子なんだ」
瞬間――男の肉体の一部が、破裂した。
男の左足の付け根が、パンッと軽快な破裂音と共に、消え失せる。アヌビスの目には良く見えていた。肉体が膨れ上がり、歪にねじ曲がり、そして大気中に霧散したのだ。
「あぁ、ぐ、が、ァぁああぁあぁああぁぁ――っ!?」
これまでの威勢はどこにいったのか。男は言葉にならない悲鳴を上げる。
脆い。やはり人間だ。こうなってしまえば、もう面白いとは思わない。アヌビスは冷淡な瞳で、蹲る男を見下ろした。
「き、さま……何を、したッ!?」
「何って、僕にできることは、ひとつしかないよ」
「……まさか」
思い当たることが、あったのか。
だがそれは、とても信じられないモノであるらしい。
男は恐る恐る、口にする。
「まさか……人体に、錬金術を……!」
「ご名答」
すぐに結論に至る辺り、やはりこの男は優秀だった。
「錬金術は、対象に余地さえあればいくらでも干渉できる。……流石に、人体への干渉は難しいけれどね。でも、要領は同じさ。何度も試して、仕組みを知ればいい」
「外道……いや、悪魔め……ッ!」
「なんとでも言え」
人体に対する錬金術は禁忌。だがそれ以前に、誰も使用できない。
何故なら、人体に宿る無数の法則を、誰も解明できないからだ。解明するためには無数の実験が必要になる。少なくとも十や二十では済まない。百か二百か。或いはそれ以上の実験体が必要だ。それは人類魔族問わず、本能としての"倫理"が許さない。
だが、アヌビスにはそれが無かった。
アヌビス=ウォリアッシェンには、"倫理"が欠けている。友人もいる。恋慕する相手だっている。けれど、他の命を、道具のように見ることもできてしまう。アヌビスは四天王の中でも、これといって特徴的な容姿を持たず、また、とびきり秀でた強さを持っているわけでもない。しかしアヌビスは、四天王の中で最も残酷だった。
男は理解したのだろう。ここが、どういった場所なのか。
ここは実験場だ。何の実験かと言えば、アヌビスが人体に対する錬金術を、研究するための場である。錬金術士にとっての研究とは、実験と言い換えても何ら問題ない。何度も何度も試して、新たな偶然を見つけて、法則を記録し続ける。実験場を彩る無数のオブジェクトたちは、そうした過程で手にした物だった。
「ちなみに、この魔法名は『肉風船』だ」
パンッ、と続けて男の右腕が破裂した。
大気を這って、アヌビスの術式が男を貫く。呻き声を上げる男に対して、アヌビスは最後の仕上げを終えるべく、隣のテーブルに近寄った。
「それじゃあ、最後に――褒美をくれてやろう」
左手の指をパチンと鳴らした。
直後、男の胸に紫色の、幾何学的な模様が浮かび上がる。
「何を、する気だ」
「別に悪いモノじゃないよ。……これから君には、進化してもらう」
「進化、だと」
「そうだ」
肯定し、アヌビスは術式を起動した。
「人体と錬金術の関係を研究していると、色々と面白い事実が発覚したんだ。まだ世に出回っていない、とっておきの情報を、君に教えてやる」
紫色の陣が、男の胸で拡大していた。肌の表面を夥しい蟲の如く這い進み、そして目には見えないが、体内まで犯し尽くす。肉に絡み、骨に染み渡り、ありとあらゆる神経と細胞に、術式は到達した。その違和感から、男は表情を歪ませる。
次の瞬間、男の身体に激痛が走った。
「ぐ、ごォ――っ!?」
「ちゃんと味わえよ? ……君の肉体は今、僕の錬金術によって進化を遂げている。不完全な肉体が、自ずと完成へと近づいているんだ」
嫌な音を立てて、男の身体が作り変えられる。
骨が伸び縮みして、神経が部分的に増えて、筋肉も膨れ上がったり、収縮を繰り返した。爪先から頭まで。体毛から脳漿まで。全てが改変されていく。
「ガゴッ、グギィ――ッ! ガァァァァアアァァ――ッッ!!」
「さて、それじゃあ、ここで問題。人間が進化したら、一体何になると思う?」
「ギィッ! グ――ァアアァアア!」
人としての肉体を失い、声帯が別物になる。
男は最早、人間としての声を失っていた。獣のように、雄叫びを上げ続ける。だが理性は辛うじて残っている。そういう風に、ゆっくりと進化させている。
脈打っていた男の肉体が、徐々に落ち着いてきた。それに連れて悲鳴も終える。全身の痛みから解放された男は、次は叫び続けたことによる激しい疲労に苦しんでいた。アヌビスはそれを見計らって、臓器を入れた瓶の奥から、一枚の鏡を取り出す。
そして鏡面を、蹲る男に向けた。
「ほら、その目で確かめてみろ。――これが答えだ」
血の涙を流し、枯れ果てた声を漏らし、男はゆっくりと顔を持ち上げた。
「ォ……オォ……ソン、ナ……」
鏡面に映る自身の姿を見て、その男は絶句した。
そこに映るのは、かつての男とはかけ離れた容貌だった。毛むくじゃらで、獰猛な牙が生えており、膨れ上がった眼窩には、縦に割れた瞳が収まっている。
そして、男は、自らの頭蓋から伸びるソレに気づいた。
「ナンダ、ゴノ……ツノ、ハ……」
「そうだね。立派な角だ。紛れも無く、魔族の角だよ」
魔族の象徴である角が、男の側頭部から生えていた。
男も、本能で理解しただろう。自分は人間から、一体何に進化したのか。
「面白いだろう? どういうわけか、人間は進化したら、魔族になるんだ。でも、だからと言って、人間が魔族と比べて劣っているというわけでもない。何故なら――魔族が進化したら、今度は人間になってしまうんだから」
愉悦に浸った表情で、アヌビスが笑う。
魔族と化した男は完全に、思考を停止していた。自らの状況を飲み込めない。加えてアヌビスの説明も、理解できない。この世界の神秘に触れて、完全に硬直する。
「いやぁ、意味わかんないよね。ひとつだけ、分かることがあるとすれば……結局、僕らの戦争は、種族間の確執によるものじゃなかったってことだ。ただの自己嫌悪による新旧対決だったのさ。……最も、どっちが新か旧かは、分からないけどね。人類が先に生まれたのか。魔族が先に生まれたのか。……卵が先か、鶏が先かって話だ」
錬金術とは、世界を掘り起こす魔法だ。
ここは、ひとつの深淵だった。
アヌビスは、深淵に辿り着いていた。錬金術の本質を見失わなかった結果だ。アヌビスは遂に、偶然という名の神秘を、我が物にすることができた。恐らくこれは、世界最大の謎だろう。進化と変化は、世界が抱える矛盾を、丸裸にする。
だが――アヌビスにとって、最早その偶然は、用無しだった。
アヌビスの目的は、世界を解き明かすことではない。
世界の神秘を、利用することだ。
「おっと、駄目か。そろそろ限界みたいだね」
実は、男がこのまま形を保ち続けることに、塵芥に等しいくらいではあるが、期待を抱いていた。だがそれは不可能らしい。アヌビスはつまらなさそうに嘆息する。
同時に、男の身体がドロドロと溶け出した。
まるでチョコレートのように。
「ア、レ……?」
既に精神も崩壊が始まっている。じきに、何も考えられなくなる筈だ。
ドロドロと床に広がる、気味の悪い液体を睥睨して、アヌビスは口を開いた。
「君の肉体は進化させた。けど、魂はそのままだ。身体は魔族。魂は人間。……今の君は、肉体と魂の規格が違う。だから当然――崩壊する」
男はアヌビスの言葉を聞いたが、恐らく理解できていなかった。今はもう、ただの子供のような、無垢な瞳を浮かべている。自分という存在が消滅することを、本能が察しているのだろう。ドロドロに溶けた自分の身体を、なんとか掻き集めようとする。
床に這わせた両手を持ち上げる。どれだけ試したって、男の身体だったモノは、指の隙間から逃れていく。やがて、その指すらも、気色悪い液体と化した。
「勇者よ。よくぞ、ここまで辿り着いた。その強さ、心から賞賛しよう」
あー、だの。うー、だの。
意味の分からない声を発す男へ、アヌビスは別れを告げる。
男は不思議そうな顔で、アヌビスを見上げた。
「――だが、残念なことに」
男の首が床に触れる。すぐに首も溶け出した。どうやら内側は、表面よりも崩壊が早いらしい。男の歪な声は、ゴポゴポと、気泡を立てるだけに終わった。
無垢な瞳が見上げてくる。アヌビスはその真上に、自らの足を乗せた。
そして――終わらした。
「僕は母さんほど、甘くないんだ」
まだ溶けていない頭蓋を、自らの足で砕く。
ぐしゃり、ぐしゃりと、踏み潰した感触が返ってくる。しかし、すぐにそれも溶け出して、やがてアヌビスの足元には、男だった液体のみが残った。
◆
床に流れた液体は、暫くすると蒸発して消えた。
まだまだ、人体に対する錬金術には謎が多い。アヌビスが掌握した知識も、実際は全体の一端なのだろう。突き詰めれば突き詰める程、更なる謎が見えてくる。
周囲を見渡す。惨憺たる状況だ。折角のインテリアも、殆どが原型を留めていない。
「始めるか」
最後の関門である刺客の処理は終えた。残りは既定路線だ。
戦闘を見越し、一際頑丈な瓶に詰めていた、『勇者の心臓』を取り出す。
アヌビスは錬金術を行使した。術式は、先程の男に使ったものと同じである。
男の身体が崩壊したのは、肉体と魂の規格がズレていたからだ。逆に言えば、双方の規格が一致していれば存在は崩壊しない。つまり、肉体と魂を同時に進化させれば、正常な結果を得ることができる。これがアヌビスの導き出した法則だった。
そのために必要なのが、この『勇者の心臓』だった。
アヌビスは、自身が変化していくのを実感する。同時に、その手に持っている『勇者の心臓』が、徐々に温もりを取り戻していることに気づいた。流石は勇者の臓器だ。他の存在と比べて、圧倒的な生命力を発揮している。真龍や、吸血鬼の始祖のソレを代用しても良かったが、人としてのベースを保つならば、『勇者の心臓』が最も望ましい。
激痛と共に、アヌビスの身体が作り変えられて行く。頭に生えた二本の角が、まるで樹木が枯れ果てるかの如く、崩れ落ちた。手も足も、何もかもが歪に変動する。
すぐに目と鼻と口も、進化が訪れるだろう。
その前に、アヌビスは『勇者の心臓』を――食べた。
派手な咀嚼音と共に、アヌビスはそれを口に含む。喉を通り、胃袋に落ちるのを感じて、満足気な笑みを浮かべた。うん、絶品だ。今までのモノとは比べ物にならない。
刹那、ぐん、と内側に引っ張られるような感触を覚えた。
先程胃に落とした心臓が、アヌビスの存在を飲み込もうとしている。
肉体ではなく魂が、『勇者の心臓』に引っ張られる。
その変化に、まるで呼応するかのように、肉体の変化も加速した。
次の瞬間、アヌビスの顔が福笑いのように崩れた。
「おっと、危ない危ない。顔は――コレだ」
思考を停止しかけていた自身の脳に喝を入れて、アヌビスは咄嗟に、新たな錬金術を行使する。肉体と魂を作り変える術式とは、また別の術式だ。既に崩れつつある顔面に左掌を翳し、新たな錬金術を重ねがけする。激痛が走ったが、先程から全身を蝕んでいる痛みに比べたら、我慢できる程度のものだ。
顔に続き、手も足も、様々な部分に術を重ねがけする。
変化の際の、軌道修正だ。これである程度、進化した後の姿を操作できる。
そうして――どれほどの時が、過ぎたのだろうか。
浮かんだ疑問を解消するべく、アヌビスは壁に掛けていた時計を見る。盤面の至るところに罅が入っているが、針は辛うじて生きている。
「……思ったより、早いんだな」
気が狂いそうになる程の激痛は、一瞬の時に、絶大な密度を与えていた。
実際はそれほど、苦しんだ時間は長くない。
今はもう、全く痛みを感じてなかった。身体が安定した証拠だ。魂も無事、定着している。それよりもアヌビスは、自らの口から出た声を聞いて、吹き出した。これが自分の声か。誰の声だ。暫くはこの違和感とも戦い続けねばならない。
床に転がった鏡を壁に立て掛けて、アヌビスは自身の姿を認識した。
「うん。完璧だ」
生まれ変わった自分の姿は、想像通り。
一世一代の錬金術は、成功した。今の自分は、アヌビスではない。背丈の声も何もかもが異なる。それどころか、魔族ですらない。ただの一人の人間だ。
こうして――アヌビス=ウォリアッシェンは、死んだのだ。
今の自分は、■■■■だ。
「さぁて。それじゃ、お姫様を奪いに行きますか」
これも血筋なのだろう。■■■■は、思い返せば魔王らしい行動をしている。己の正義を信じた勇者を打ち払い、次は姫君を奪う。長年、思い描いていたシナリオだった。
アヌビスの墓場である実験場から、外に出る。この場所はもう二度と使えない。きっと帰ることも叶わないだろう。どのみち、盗られて困る物もない。ここにあるオブジェクトの所有者は、既に死人なのだ。何をどう咎められても、■■■■には関係ない。
外に出ると、例年とは少し違う喧噪が聞こえた。
仮面舞踏会で何かあったようだ。血相を変えて慌てる人々の姿が見える。そのまま周囲の様子を探ろうとした時、頭上から水滴の群れが落ちていることに気づいた。再び屋根のある場所へと戻り、ポケットから針金とビニールを取り出す。そして、こっそりと錬金術で傘を生成した。手応えが、アヌビスだった頃と微妙に違う。その感触の変化を楽しむように、■■■■は掌を、開いたり閉じたりした。
「こっちかな」
傘をさし、辺りを見渡しながら、行き先を考える。
人の行動パターンは分析が可能だ。無意識の内に、生物は自分にとって、居心地の良い場所へと足を向けるようになる。心理状態を把握できれば、更に細かな分析も可能となるだろう。今の姫君の心理を読むことは容易い。居場所も簡単に見当がついた。
狭い通路を超え、街でも一際静かな路地裏へと足を踏み入れる。
そこで、どこからか。女性の泣き声が聞こえた。
■■■■は、唇で弧を描いた。
嗚咽が聞こえる。この世に絶望し、自らにも絶望した、哀れな子羊がそこにいる。
一歩、一歩と、泣き声のする方へと進んだ。足を動かしながら、ふと、自らの胸に去来した感情を悟る。同情。憐憫。恋慕。様々な感情が、綯い交ぜになっていた。単純明快な魔族には持ち得ない心理だ。これが、人間というモノか。
同情により、瞳が沈む。
憐憫により、優しい言葉を投げ掛けたくなる。
恋慕により、尽くしたいと願う。
だが――それよりも、全ての物事が予定通りに進んだことによる、優越感が、歪んだ想いを滲ませた。■■■■も、アヌビスも。根幹は変わらない。
足を止める。
雨が振り続ける光景。
一人の女性が、路地裏の奥で蹲って泣いていた。
――この日を、ずっと待っていた。
初めて見た時、一目惚れした。それから、気がつけば事あるごとに彼女のことを考えていた。不安定で、何時消えるかも分からないような存在感。それが、アヌビスの心を擽った。その生き様が、あまりに滑稽で、歪さ故の美しさを垣間見た。
いつか彼女を、自分のモノにしてやりたい。
そう、願い続けていた。
「あの、大丈夫ですか?」
傘を突き出し、女性を雨から守る。
こちらに振り向いた、その顔を見て――■■■■は、思わず叫びたくなった。
あぁ、なんて可憐なのだろう。その涙に歪んだ顔が。全てに絶望しきった表情が。自らの罪を直視できない弱さが。彼女の、ありとあらゆるモノが愛おしい。
辛うじて――辛うじて、衝動を抑え込み、言葉を掛け続ける。
「傘ささないと、濡れますよ?」
「あ、ぁ……」
渇いた声を、彼女は発した。
自らに一切の自信がない。これまでの人生の全てを認められず、自分以外の拠り所を必死になって探している目だった。――実に、庇護欲を唆る目だ。
生涯を賭して、守ってあげたいと思う。いっそ永遠に、守り続けてやりたい。
ヘラ=アストラノース。彼女は、今、まさに壊れていた。
だからこそ、愛しくて愛しくて仕方ない。
壊れたモノほど、美しいモノはない。
「その傷――あなた、怪我してるんですかっ!?」
少し声を張り上げて、■■■■は言った。
馬鹿を演じるのは得意だ。馬鹿の思考回路は、魔族に似ている。単純で、純粋。正義に対しても悪に対しても同様のことが言える。
「止血しないと……あぁ、でも、どうすれば。まずは、場所を変えた方が良いかな。……ごめん! ちょっと、肩を貸して!」
傘を棄て、ヘラの肩を担ぐ。
存在は希薄でも、身体に触れれば、実感できる。彼女の温もりが、そこにある。心が壊れたって、この世界には存在し続けなければならない。苦行の摂理だ。
彼女はきっと、それに耐えられないのだろう。
だが、脱落することは許さない。
「助けて、くれるの……?」
「えっ?」
「こんな……こんな、私を……あなたは、助けてくれるの……?」
可愛らしい声で、縋るように訊いてきた。
口調が元に戻っている。戦争時、皆で必死に植えつけたというのに、台無しだ。けれど、もう心配する必要もない。これからは一生、自分が守ってやるのだから。
「なんだか良く分からないけど、困ってるんですよね? ――だったら、助けます」
そうやって断言してみれば、ヘラは目を丸めて、弱々しく驚いた。
気丈に振る舞い続けていた彼女が、崩壊していく。今まで人に見せていた「偽りの自分」が、内側に眠っていた「本当の自分」に侵食されていく。
心優しい青年に背負われて、自らを助けてくれる存在を実感して――。
ヘラは、心からの笑みを浮かべた。
――こうして、ヘラ=アストラノースは死んだ。
これまでの彼女が、あっさりと崩れていくのを見届けた。今、壊れた彼女は生まれ変わろうとしている。愚鈍で滑稽な彼女は、無色透明な存在に戻ろうとしている。
あぁ、これは――染め上げるのが、楽しみだ。
自分色に、徹底的に染めてやろう。
時間はたっぷりある。ゆっくりでいい。焦らなくていいのだ。
なぁに。壊れ物の扱いには、自信がある。
「あな、たは……」
「僕ですか?」
今の自分は、アヌビス=ウォリアッシェンではない。
金髪碧眼。細身の肉体。
人間の青年は、笑って答えた。
「僕は、ハルキス。――ハルキス=ペイリスタです」
~おまけ~
さぁて、来週の四天王は!
『ハルキス、スマホの名義人がアヌビス』
『ウェイグ、ハルキスに惹かれる』
『リンメル、腐る』
『ヘラ、リスカ』
の四本です。
来週もまた見てくださいね!
嘘です。
完結です。




