バレンタインデー:其の八
たどり着いた鳥居の前。急カーブにたたらを踏みながらも何とか曲がりきり、丁寧に雪かきされた境内を疾駆する。
神社に入っていくところは、良樹が見ている。それは本人からの証言で確認済み。後は、どこにいるかだ。
参道を駆け抜けて、本殿の裏に回りこむ。関係者用なのか、踏み固められ跡がついた細い道を無理やりに走る。靴の中に入り込んだ雪が容赦なく足を冷やし、時折踏み外して太腿の辺りまでずぶ濡れになる。
間断なく左右に視線を振りながら、脇目も振らずにひた走る。神社。蜜柑の周囲に人はいないが、社務所の中には人の気配があった。なら、もっと奥だろう。
本殿の裏にたどり着き、一旦足を止める。
敷地内を一周するつもりで、納屋の後ろへと向かう。さすがに雪かきはされていなかったが、足跡が一つ残っていた。蜜柑の足よりも少し大きなそれは、十中八九、朝陽のものだろう。
高校を飛び出してから、時間にして三十分弱、距離にして二キロ半ほど。やっと見つけた、文字通りの足跡。
それに安堵と不安をいっぺんに感じながら、蜜柑はそれに重ねるようにして自分の足跡をつけた。
ざくざくと、広い歩幅でついた足跡を飛び石のように扱いながら雪を踏み分けていく。この先に何があるのか、蜜柑にはある程度の予想はついていた。
――――神社の本殿の裏手にある納屋の更に裏に、小さくて急な階段があって。
いつか、朝陽に教わった道順が頭の中を駆け巡る。獣道とすら言えないただの足跡を辿って、納屋を回りこむ。その先に、小さな階段があった。
この深い雪の中でも、周囲に茂る針葉樹のおかげで積もった雪は少ない。急な階段ではあるが、何とか通ることは可能そうだ。
それでも恐る恐る足をかけて、細心の注意を払いながら上っていく。不思議な感慨に囚われそうな風景の中を、一段一段、急く心を懸命に律しながら踏みしめる。緑と茶色と白と黒、それらが混ざり合う自然のトンネルを抜けて、視界が開けた。
――――それを登ると、高台に出るんだ。少し広めの公園くらいある、結構大きいところなんだけど、誰かがそこにいるのを見たことは無いんだよな。
階段を上った先は、一面の銀世界だった。
突如目の前に広がった光景に、ここに来た目的も忘れ、しばし呆然とする。蜜柑の足元から続く足跡と、その進路上にある小さな小屋だけが、この世界の登場人物だった。
左右に視線をめぐらせる。右には針葉樹の林が、左には大きく屹立したフェンスが見えた。それ以外には、何にもない。
――――その高台の奥まったところに小さい小屋があって、俺たちは子供の頃、ずっとそこを根城にして遊んでたんだよ。今でも時々行くよ。本当に小さくてさ、そうだな、良樹の家の居間と同じくらいの大きさで、それに寝台と、ロフトがついてるんだよ。
確かに、こじんまりとした小屋だった。雪のせいか、入口が四分の一ほど埋まっている。
それを目がけて走る。銀世界につけられた無粋な足跡を辿り、小屋の前にたどり着く。無理やり開けて無理やり閉めたのか、半分ほど扉が開いていた。
こんなときだというのに、蜜柑の中に居座る自己顕示欲が腕を動かす。なけなしの体力を振り絞って、震える腕で髪に手櫛を通し、風圧で暴れまわっていた髪を撫で付ける。幾度かブレザーやスカートの裾を整えて、扉に手をかけた。
そこで一度動きを止め、大きく息を吐く。その分よりも少し多いくらい吸って、一息に扉を引き開けた。一度開けられていたからか、拍子抜けするほど抵抗なく開く。
濡れた木材と黴の臭いがする室内に一歩踏み込み、中を一周見回す。けれど、朝陽の姿は見つからなかった。
「……朝陽さん……?」
小屋の中心に歩を進めながら、間断なく周囲を見回す。
そして、見つけた。入口から最も遠い、寝台の上に腰掛ける、朝陽の姿を。蜜柑の存在に気づいているのかいないのか、こちらを見ようともしない。
「朝陽さん」
少し大きめの声で名前を呼ぶと、のろのろとした動作でこちらを向く。長く伸びた前髪の向こうの目は、生気がなかった。
「学校に戻りましょう? 特別棟の屋上で、千鶴ちゃんが待ってます」
恐る恐る、そんな問いを投げかけてみる。返事は、沈黙だった。
代わりに口元が引き攣り、大きく目が見開かれる。
「……わざわざ迎えに来たって事は、聞いたんだろ、全部」
小屋の中に響いたひび割れた声が、朝陽のものだと理解するのに数瞬の時間が必要だった。
その言葉の意味を拾い上げて、大きく頷く。
「はい。千鶴ちゃんが泣きながら話してくれました。……朝陽さん、行きましょう? 千鶴ちゃんが、待ってるんです」
うなだれる朝陽の正面に立って、手を引く。少し強めに、立ち上がらせるように。
けれど、朝陽はその手を振り払い、蜜柑の方を見るばかりだ。
「全部聞いたなら、解るだろ。俺は、千鶴に会う資格なんてないんだよ。合わせる顔なんてないんだよ。怒鳴って、罵って、傷つけて……千鶴、泣いてたんだろ。あれは俺のせいだ。俺が泣かせたんだ。今更、どの面提げて会えるっていうんだよ……!」
悲痛な叫びは、蜜柑の心を音を立てて削っていく。どこまでも哀しげで、どこまでも痛々しいその姿は、今の今まで蜜柑を駆り立てていた焦燥も、決意も、萎ませていった。
俯いたまま、朝陽が言葉を重ねる。自己嫌悪と、絶望に塗り潰された心のうちを、吐き出していく。
「……俺にはもう、千鶴に会う資格なんてないんだよ。こんなに世話になったのに。あんなに楽しかったのに。それを全部壊して、否定して、罵倒して。こんなの、最低だろ。最悪だよ。千鶴どころか、真澄にも、蜜柑さんにも、先輩たちにも、清水にも、もう、合わせる顔なんてない。だからもう、ほっといてくれ……構わないでくれよ……さっさと見捨てて、切り捨ててくれよ……!」
自身の膝を見つめ、苦しそうにそんな叫びを搾り出す朝陽の姿が、蜜柑には、叱られるのを待つ子供のような、投げやりで、自暴自棄な姿に見えた。
――――――言ってしまったんです。私は、ただ朝陽の傍にいて、傷を癒したい、そう思っていたはずなのに。そのはずだったのに。私が朝陽の傷を抉ってしまったんです……!
そう叫んだ千鶴の声が、耳の奥でフラッシュバックする。
――――私だって、願わくばそうしたいです。
切り捨てられるなら切り捨てたい。この行き場のない想いを捨てられるなら、捨ててしまいたい。辛くて苦しいだけのこの恋を見捨てられるなら、クリスマスにそうしているだろう。千鶴だって、逃げ出したいはずだ。何もかも忘れて、朝陽から離れてたいと。
けど、そんなことはできない。できるはずもない。この苦しさは、朝陽にもらった、大事なものだから。離れたい、切り捨てたいと思う以上に、『それ』は愛おしいものだから。
そして、たった一度の出来事で何もかも決まるほど、この世界は簡単でも、非情でもない。
だというのに、朝陽はそれを解っていない。
それを理解した途端、蜜柑の脳内で何かが弾ける。
気づけば、右手を大きく振りかぶっていた。




